目次

1 : 主張

1947年 内部資料

自由美術家協会は、名の示すが如く自由な純粋な芸術意欲によって結ばれた、若い芸術家の協会であります。
私達があえて自由を主張する根底には,当然、保守主義、事大主義に抵抗する強い意志が貫かれています。私達は自由に新しい前衛芸術を作ろうという主張で結ばれています。もう一つは、浅薄な形式主義。
これは欧米の芸術運動を浅薄な形式主義でただ模倣することしか知らない徒輩です。この現象は芸術の世界に限らず、政治にも経済にも科学にも、色々な形になって根強くいり込んでいます。私達はその好ましくない環境を超克するために、地味に力強く抵抗しなければならないと自覚しています。
私達の協会は、あえて表現形式の上で限界を持って居りません。前衛的な自覚で新しい芸術を自由に創造しようという意欲を主張しています。そうして更に私達の芸術運動の底にユマニテを自覚し意欲することに於も一致しています。このような事は芸術の当然の命題といえましょうが、日本の今日の段階ではこれこそ前衛的な主張の根幹となるものと思います。以上のような根本的な命題を誤ることなく、今後、より健康的な、より力強い、真に世界的な視野を持った、しかも日本の現実に根を降ろした創作活動を展開したいものと念じています。

1947年 内部資料

2 : 自由美術協会史

1.「自由美術家協会」の創立から終戦まで(1937-1945)

a : 創立母体と長谷川三郎

自由美術協会の歴史は1937年の自由美術家協会の創立に始まる。
自由美術家協会は1937年2月に創立された。創立会員は長谷川三郎、浜口陽三、矢橋六郎、村井正誠、山口薫、津田正周、大津田正豊、荒井竜男、瑛九、小城基、藤岡昇で、会友に小野里利信、難波田龍起、清野恒、彫刻の植木茂がいた。また顧問制があり、顧問には今泉篤男、富永惣一、植村鷹千代、柳亮等がいた。

自由美術家協会創立の母体となったのは、長谷川、山口、矢橋、村井等が所属していた「新時代洋画展」、津田、清野恒、小野里利信、野原隆平等が所属していた「黒色洋画展」、難波田龍起、吉見庄助、大橋(誠)、戸田定が所属していた「フォルム」であるということができるが、リーダー的な役割を果たしたのは長谷川三郎であった。後の座談会によると、自由美術家協会創立当時は長谷川三郎の自宅が事務所になっていて、創立の動きの中心になっていたことを伝えている。

興味深いのは、彼は自由美術家協会展を公募にすることには、懐疑的であったということである。それは上野を拠点に美術活動をすることへの抵抗感と、既成団体に物足りない画家を結集するのにふさわしくない、という思いがあったのかもしれない。長谷川の「新時代展」はそうした雰囲気で生まれ、自由美術家協会創立に引き継がれたと座談会の出席者は述べている。

彼は東大の美学出身で東洋美術にも造詣が深く、制作と平行して、多くの著書を著しており、日本にアブストラクトを定着させた功労者でもあったといえる。彼はこの自由美術家協会の結成を、ひとつの運動ととらえており、あらゆる表現をクロスオーバーに結集して、純粋な表現と、同調者の切瑳琢磨を目指した。

後年、難波田龍起は長谷川を回想して、「第2の岡倉天心を期待していた」と述べている。

b : 周辺の若い画家たち

一方、この時代には、戦後大挙して自由美術家協会に入ってくることになる、個性的な若い画家達が活躍していた。1930年協会に出品していた井上長三郎、靉光、大野五郎、鶴岡政雄、森芳雄、山口薫等である。1930年協会の画家達の一部は、二科会に出品したり、1930年協会の終了(この会はそもそも1930年までの時限的な会であった)に代わって創立された、独立美術協会に出品したりしていた。これらの若手画家はやがて1943年の「新人画会」結成へと動いて行く。しかし、戦前の自由美術家協会にたいしては、そのサロン的雰囲気に馴染めなかったためか、山口薫、森芳雄以外は参加していない。

c : 第1回展から終戦まで

かくして自由美術家協会第一回展は7月10日から19日の間、上野の日本美術協会で公募展として開かれた。搬入総数675点、入選数49点、陳列総数161点という報告がある。相当な厳選である。

自由美術家協会あるいはその展覧会の性格、傾向については、設立趣意書のようなものは見当たらないが、創立時の規約草案と思われるものがあり、そこには「自由美術家協会は、抽象主義的傾向の絵画を中心にして同時代の絵画芸術を創造しようとするものである」と述べられている。また、顧問である植村鷹千代が「みずゑ」1937年8月号に載せた「自由美術家協会とは何か」という一文には、結成の動機として「現実の絵画界において、旧勢力の頑迷な抵抗と無理解のために、その成長と結合とを拒まれている新時代絵画の人的集大成を目的として作られたものである」と述べていることから推察できる。

展示種目は、規約にあるように、油絵、水彩(和、洋)、版画、コラージュ、フォトグラムに亘り、多彩であった。しかも同一人が各ジャンルに出品したところが面白い。

浜口陽三はフランスからの出品で、津田、大津田は第1回展には出品しなかったようである。

評判は賛否いろいろであったが、このとき長谷川は自由展にたいする誹誇、中傷に厳然と反論する(「諸“自由展“′への答」「美の国」昭和12年9月)。その容赦のない反批判から長谷川三郎、さらには自由美術協会の創立精神が垣間見られる。第1回展にたいする肯定的、好意的な批評にたいしては、「前衛的、先駆的或は革新的と目された芸術運動が斯様な好評に迎えられて出発することは・・我々のやった様な運動が、当然興さるべきものとして待望されていた事を物語るにすぎないと思う」と述べている。

このとき長谷川三郎の「蝶の軌跡」が出品されたが、彼の代表作ともいえるもので、戦前のアブストラクトの一つの到達点を示していると言ってもいいのではなかろうか。

d : 第2回展以後

創立の翌年1938年には第2回展を開き、津田正周、岩橋永遠等の新傾向の日本画が出品されてくる。第2回展については四宮潤一、滝口修造らの評があるが、なかなか好評である。滝口は今回の日本画の出品について「今年から日本画の作家も参加していることは、この会に新しい意義をプラスした」として個々の作品を批評したあと「率直にいうならば、いはゆる「新日本画」は、画壇的に清新な風を吹き送ったことの功績を認められなくてはならないが、もう一度それを止揚することが必要とされるであろう」とのべている(「アトリエ」昭和13年7月)。


1939年の第3回展では「自由美術」第1号を創刊する。編集後記には次のような発刊の弁が述べられている「今回機関雑誌として当パンフレットを発行しました事は、我々の仕事を見て戴く以外に、その精神的方面をも言論として、発表する意欲に外なりません。これによって芸術の精神的分野を検討、又拡大しながらより高き本質を極める事を希望しています」。会員は制作と平行して、芸術全般にわたって、熱っぽく論じたのである。

第1回展以降の自由展の会場の様子や一部会員の出品作は当時の美術雑誌に比較的広く紹介されたので、我々はその作品の傾向の一部を確認することができるが、ここではそれらの細部に立ち入ることはできない。

e : 戦時下の自由美術家協会

創立から終戦に至る自由美術家協会の活動は、軍事態勢を強める軍国主義国家の下での活動であった。自由美術家協会を創立した1937年は、日中戦争が開始された年であり、1938年の国家総動員法、1939年の徴用令、1941年の太平洋戦争へと続く軍国主義化の波は、美術界の上にも容赦なくのしかかってきていた。藤島武二、中村研一等の写実画の大家は、1938年から陸軍省委嘱で従軍して戦地の記録画の制作にかかわっている。自由美術家協会のメンバーの中からも従軍する者があり、出征する者もいた。

こうした中で、自由美術家協会は1940年の第4回展を開いたあと、7月に会の名前を「美術創作家協会」と改称する。改称挨拶は実にあっさりしたものである。改称の理由とか説明のたぐいは一切ない。その年に発行された「自由美術」第2号(これは新聞形式のわずか4頁のものである)にも改称に触れた記述はない。ただ、翌年に発行された「美術創作」第3号(「自由美術」から通算)の巻頭言は軍事体制に組み込まれた、おそろしくぎこちないものである。「真の銃後強化は国民の健全な精神生活にある。今や地球は新しく創られつつある。国家的重大転機に当たって、来るべき新日本文化の建設に吾々美術家は何を為すべきか?、、、、(後略)」創立時の主張からは、信じられないこの文章は、おそらく初めて自由美術が権力に迎合した文章であろう。

会の名称の変更について、後の美術史や内部記事では、「自由」という字がけしからんからという理由で変えさせられた、というような記述を目にするが、その経緯は明らかではない。当時の状況を考えれば、そのような軍部による干渉があったことは、十分に想像されることであるが、手懸かりになるような当時の資料はない。もう少し実体に迫りたい問題である。

この問題について森芳雄は次のように述べている。「美術創作と名を変えたときにも、インテリの弱さで、恐怖の方が先で、何の抵抗もなくこちらから名前を変えたのだ。その弱気が戦後にもひきつづいたのが、モダンアートに行った退会者の一因でもあるのだろう」(「自由美術の今と昔と」[自由美術]第11号)なかなか正直な発言であり、自由美術は被害者であったとばかりいうこともできないし、すすんでやったことでもないということだろうか。しかし戦時中反戦集団とみなされるのを恐れた者が、戦後は左翼とみなされることを恐れたという森芳雄の指摘はまことに辛辣である。

一方、独立美術協会から別れた美術文化協会の福沢一郎、評論家滝口修造は1941年、シュールレアリズムの関連で逮捕される。会の資料によると、自由美術家協会の長谷川三郎も官憲の取調べを受けたことを記録しており、美術界への官憲の関与は未調査の分野を残している。

f : 美術展覧会取扱要綱と公募展の中止

1943年10月、美術雑誌は統合され、「みずゑ」は「新美術」となるなどの動きの中、1944年には陸軍省情報局による「美術展覧会取扱要綱」により、すべての公募展は開催できなくなる。我々は今回この資料を入手したが、半紙半ページばかりの簡単な書面が、日本の団体美術を拘束してしまったのである。その文面はむしろソフトですらある。しかし為政者はこのように弾圧について強圧的な証拠は残さない。

自由美術家協会(美術創作家協会)はこの「要綱」が出された1944年の第8回展をもって戦前の展覧会を終了するが、この間、1944年4月7日には規約を改正し、「美術創作家協会規約」を発表する。顧問の規定がなくなり、代わって処罰規定が新設されている。会員、会友の不出品には「適当な処置」が加えられ、3年以上の不出品は除名となるというものである。評論の中には1940年代から美術創作家協会には具象絵画が増え、性格が代わったと指摘する者もある。

大戦は画家からも多くの戦死者を出したが、自由美術家協会会員からも数名の戦死者を出している。新人画会の靉光も終戦直後、上海にて死亡した。

2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤

2.戦後の活動(1945~)

g : 組織の再編と活発な制作活動

小人数の団体であった上に、年齢的にも若かった自由美術家協会が、戦争で受けた影響は大きかった。会員の個人的なレポートによると、会員のなかには戦死者も出ており、シベリア抑留からの未帰還者もいた。創立時のリーダー長谷川三郎は、戦前期の後半から東京を離れていて、再建を相談しようにも消息がつかめなかったようである。そのような状況の中で、1946年に一部関西会員により大阪にて第9回展、第10回展が開催され、機関誌「自由美術」第5号が発行された。

1947年の展覧会再建に向けて動いていた、森、難波田らは麻生三郎、井上長三郎らと出会い、急速に会員の拡大を実現する。そこに加わったのは、戦前の「新人画会」のメンバーであった井上長三郎、糸園和三郎、大野五郎、鶴岡政男、松本竣介等であった。これに二科、独立、美術文化などから多数が参加した。
集団が作られる動機は、大きくは、思想、信条が共通しなければならないが、人間関係によるところが大きい。戦後の大量入会は、戦前の「新人画会」の人間関係が強く働いた。そしてこの大量人会は会の性格を大きく変えていくことになる。
こうして1947年7月には第11回「自由美術家協会展」が、戦前の上野の東京美術協会に代わって、東京都美術館で開催される。この年から会友制度と賞制度を廃止し、規約を改正している。

1948年の再建第2回目の第12回自由美術家協会展には、6月に亡くなった松本竣介の遺作18点が特別陳列される。松本竣介と言えば、1941年「みづゑ」に「生きている画家」を発表し、先に「みづゑ」に発表された、軍部を交えた画家の戦争協力を語る座談会に抗し、戦後は画家の結集を意図して「全日本美術家に諮る」を提唱した画家として有名であるが、この時の遺作展について和井植男は次のように触れている。「松本竣介の遺作が18点並んでいるが圧倒的にいい。いい資質をもっていた人を死なして惜しいことだと思う。彼はかつて本誌に寄せた「生きている画家」の中で「私達若い画家が実に困難な生活環境の中にいてなお制作を中止しないという事はそれが一歩々々人間としての生成を意味しているからである。たとえ私が何事も完成しなかったとしても正しい系譜の筋として生きていたならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるであろう」と書いたが、未完成で死んだ彼の正しい意志をこの会の誰がうけついで伸展させるのだろうか。(中略)ずば抜けたものは見当たらないが、この会全体としてのとらわれていないアンデパンダン風?少し気がぬけてはいるが一な空気はやゝぼくの気持を明るくさせた」「みづゑ」(昭23年12月)
前年、賞を廃止したとあるが、この年野見山暁治、井上照子が協会賞をとっている。また、長谷川三郎は活発な執筆活動に入り、「みづゑ」(昭23年12月)に掲載の「新芸術」は優れた現代アメリカ美術の紹介に始まる、現代美術概観である。このあとたてつづけに美術書を出版する。

h : 一部会員の退会とモダンアート協会の結成

1950年8月、創立時の会員であった荒井龍男、村井正誠、山口薫、矢橋六郎、植木茂等は自由美術家協会を退会し、「モダンアート協会」を結成する。退会の理由は退会した側に聞くしかないが、伝聞等を総合すると戦後の民主化、平和、労働運動の高まりが、イデオロギー優先の作品となって自由展の会場を飾ったことは否定できないであろうし、自由美術の団体運営にそのような状況を反映した、民主化の論理が持ち込まれたことも想像に難くない。一方で急速に政治的な反動化がすすむ世の中で、純粋に絵のことにかかわろうとする者には、次第に居心地のわるさが増したのではなかろうか。しかし長谷川三郎は退会せず、1957年ニューヨークで客死するまで在籍しており、死亡の翌年の自由展では遺作が展示された。

i : 各種国際展、新聞社主催合同展の開催と自由美術の画家

戦後自由美術の作家たちの多くは、それぞれ独自の道を切り拓いている。それらは明治以降の日本の西洋絵画の流れや、1960年以降の現代美術の流れとは符号しないのがわかる。
彼等はそれぞれ独自の画風を、伸び伸びと展開している。マスコミに取り上げられる作家の背景に、多くの作家の同様の試みがなされ、彼等を生み出したといえる。

性急な明治の欧化政策は、ヨーロッパの思想、哲学、芸術をそのまま形式として模倣することを進めてきた。それによって価値ある新しい文化は整った形式として常にヨーロッパから発信されるものとして日本人の中に定着していった。戦後アメリカ美術の模倣を始めるまでの間、作家の精神が解き放される空間ができた。自由美術を中心とする一部の作家は、自己自身の存在の内に、鋭い追及の筆を持ったのである。そしてそれぞれが、独自の世界を展開することになった。

当時の批評が、ヨーロッパで熟成された油絵の表現様式をもって、理解しようとするものであったとするならば、戸惑いはあったかもしれないが、それを凌駕するだけのレアリティーがあったのは、事実である。
戦後の落ち着きを取り戻しつつあるこの頃から各種の国際展や新聞社主催の合同展が盛んに開かれるようになる。そしてこのころから、自由美術の画家による注目すべき作品が生まれる。最初に取り上げられたのは、鶴岡政男である。1949年の自由美術展に「夜の群像」を発表して注目を浴びた彼は,翌年戦後日本美術の屈指の名作といっていい「重い手」を発表する。

1949年、佐波甫により「鶴岡政男論」(みずゑS24年7月)としてすでに大きく取り上げられているが、佐波は鶴岡の戦中、戦後にわたる生活的、思想的な苦闘、遍歴に触れたあと「いまの鶴岡は主客の結びつきが渾然としており、前から連続のものが音楽的に、リズミカルに、奔放自由に、画面の次々に自己主張をやっている。その天才的な豊かな想像力が,弾力ある画面の一つ一つに新しい民衆の生活の楽しい歌を産んでいる。(中略)造形性の根づよい裏付けがあり、ノヴァ時代よりすばらしい発展をみせている。外国芸術の模倣ではない、日本の現実をくぐりぬけた芸術である。」と批評した。

一方、1950年の自由美術展に森芳雄は「二人」を発表する。これも「重い手」同様、戦後の日本美術を語るときに避けて通れない作品である。今泉篤男は「森芳雄論」(「みずゑ」S25年12月)で「この秋の自由美術の会場で「二人」を見た。私は久しい期待を、ようやく満すことが出来たような喜びで「二人」を見た。(中略)この画面に示されている大きく単純なうちに、きめの細かいニュアンスを持ったフォルムと、ゆったりした静かな空間の表情と、われわれの内触覚に重厚に響いて来る深々とした量感の表現は、現在の画壇に珍しい本格的な新鮮さだ。」と激賞した。

土方定一は「麻生三郎論」(みずゑS24年8月)で戦前の麻生三郎の絵を見た時の印象からときおこし、戦後の毎日連合展での印象とつなぎながら、近作の批評に及ぶ。その熱い視線は彼のなみなみならぬ資質に注がれていた。
こうして、自由美術の作家たちが注目を集めだすのは、決して偶然ではなく、自由美術という土壌とのかかわりを否定することはできないであろう。

j : 活発な宣伝・啓蒙活動

1951年には「自由美術」第8号を、海外向け紹介パンフレットとして全編フランス語で編集し、全会員作品を掲載している。用途・効果の面は不明だが、啓蒙的意欲はうかがえる。またこの年の「自由美術」第9号には、花田清輝ら近代文学同人との座談会「近代芸術の課題」が掲載されている。これは自由展開催に合わせて開いた研究会の記録であるが、短縮されているため詳しい状況はつかめないにしても、このような他分野との積極的な交流を考え、実行しえたのは自由美術ならではの感がある。その短い記録からでも、「私達は却ってモダニズムの反省を一歩進めて自由美術はやっているとみています」というなかなか本質をついた文学者からの発言があったりして、議論は結構噛み合っているようである。

ところで、1950年代の自由美術展の全体的雰囲気について触れたものがいくつかある。

「どの団体も複合的に、それぞれ、相矛盾する多様な傾向を内に抱えている。それらをシーズン全体の動きの上から縦断的に見て、縦につないでみると、だいたい三つぐらいの気流に色分けできるのではないかと思う。第1は、現実批判的傾向ともいうべきレアリズム型、第2は低回趣味や情緒的傾向を主とする自由なロマンチシズム型、第3は、技術上の方法論的立場を固執する広い意味でのアカデミズム型(様式中心主義)で、以上三つの中,第1のレアリズム型の気流が、この秋を特色づけて新しく上昇してきた気流である。(中略)このレアリズム型の気流は、独立や新制作にも若干認められたが、なかんずく自由美術にもっとも濃くつながっている」(柳亮、1954)

「新人層の自由な活動舞台としてのこの会の役割は、わからんではないし、他展に比しその実験的寛容さに一日の長があることは認めていい」(柳亮、1956)

「公募団体が無性格だということは、しばしば聞かされてきたし、また、わたしもいってきたことだった。しかし、自由美術は、まったくの無性格というのでもないような気がする。〈中略)今年の自由美術展は、多分に高尚で、しかも、かなり善意といったふうのものがただよっていたような感じがした。」(福島繁太郎、柳亮、中原佑介1958)

「秋の第三陣「自由」「第二紀」「独立」の比較では、時代の反技術主義的徴候を,いちばん露骨にうち出しているのは「自由美術」であり、それに強い抵抗を示しているのは「独立」である。」(柳亮(「みずゑ」1957年12月)

k : 安保闘争等反戦行動

一方、政治的状況に目を転ずれば、1960年は、戦後の独立とワンセットで締結した、日米安保条約の最初の改定期を迎えていた。この安保改定反対運動は日本の民主勢力に止まらず、国民的拡がりをみせていた。自由美術協家協会も、デモに参加するなどこれらの動きに共同する行動をとった。また「自由美術」誌、第18号に「安保条約改定について」という自由美術家協会決議を掲載し、安保条約に反対するパンフレットを発行するなどの行動を行った。

1969年の5月展は「反戦展」として開催され、公開研究会(講師、武谷三男)を開いている。

こうした政治、戦争にからんだ企画や発言は、その後も折に触れて「自由美術」誌上に登場する。

l : 難波田等の退会と第二次大量退会

1960年には難波田竜起、小山田二郎等の退会があり、朝鮮出身の曹良奎が帰国するなどの組織上の変化がある。この退会について江原順が次のように書いている。「退会の理由には、事務的な事柄や若干の感情問題もふくまれているであろうが、基本的には、井上長三郎、麻生三郎などの創作方法についての考え方と、前記の作家の考え方の対立が、大きな原因になっているとおもわれる。だからわたしは、この退会、分裂現象を歓迎する。恐らく現在の美術団体のなかで、多少とも美学上の問題をふまえて、離散集合が行われる例はみられなくなっているからである。この会だけがまだ会員のなかに意識される原理らしきものをもっている、それは証左だからである。本来集団というものは、それをなりたたせる固有の原理によって成立するものである。その意味でほとんどの既成団体は、集団としての性格も機能も欠いているのである。」(「みずゑ」1960年12月)なかなか踏み込んだ批評である。しかしこのあと間もなく、さらに大量の退会者を出すことになる。それは江原が言うような水準の分裂であったかどうか。

1964年8月には、38名の会員が声明書を出して、退会するという事態を迎える。最大の理由は、表面上は会員が会員の作品を審査する、いわゆる「会員審査」にあったといわれている。

退会者の大部分は「主体美術協会」を結成する。残留会員は「自由美術協会」と会の名称を改めて、活動を持続する。

m : 組織改正と地方からの風

新組織になって、自由美術協会は「自由美術賞」(1964)、「靉光賞」(1966)、「平和賞」(1968)を設ける。また1966年から1989年まで、展覧会にテーマが設けられる。「今日の表現」「今日の証言」「不安」「人間」「非体制」「狂気の記録」「反寓話」「不条理」等である。これはその2年前から「5月展」(例年5月に東京都美術館で開催された、自由美術協会の選抜展)において採用されていたものであるが、これを秋の本展に取り入れたものである。最初に「今日の表現」というテーマを採用した時、次のような文章が掲載されている。「本年の展覧会は「今日の表現」?ヒューマニズムと反ヒューマニズムというタイトルを掲げましたが、別にテーマ制作を行ったわけではなく、年来我々が追求してきたところの方向と態度はいささかも変わらないのであります。ただ現在の太平ムードに中ではややもすると、厳しい現実に対する意識がうすれ、安易な技術主義に落ちいりがちです。「今日の表現」と特に銘打ったのは、そのような画壇の風潮にたいする自戒と考えていただければ結構と思います」

このようにテーマの主旨説明は時々なされていて、その時の状況に合わせた問題提起がなされている。こうした試みも、展覧会の開催、あるいは各個人の制作を社会的にまたは対外的に位置付ける視点を、絶えず求めてきた表れであるということができる。

美術団体は活動の中心を東京に置いていた。自由美術も東京に全作品が集められ、展覧会が行われる。そして、作品そのものや、絵に対する考え方が、地方活動として各地域に分散してゆくという、中央発信型の情報構造を持っていた、自由美術においては、戦後からの地道な活動により、少しづつその厚みを増し、ある時点より運動体として一地域が動き出し、メッセージを発信する時が来る。特に東北地方の研究誌「凍土」の誌上においては、地域に根ざした新しい芸術活動の興隆を宣言した。そして活発な研究、創作活動が展開された。そのうねりは、自由美術の各地域を刺激するものであった。

この活動により、同じ地域で活動する作家のそれぞれが、独自の芸術観を育て、互いにより自由に制作に取り組み、結果として真の精神的自由を獲得できたことは、大きな成果であった。

このころ、国際協力も盛んになり、1965年には日中青年友好祭に久田弘が参加して訪中し、1968年には、第9回世界青年学生平和友好祭に、伊藤博、川上十郎、にしおかひろしを派遣する。1971年にはポーランドより対外文化交流会に、美術家の派遣の要請があり、井上リラ、佐々木正芳、丸山武男を派遣している。

n : 世代交代と運動の継承

1980年代になると、会員の世代交代も進み、1979年の鶴岡政男の死、1995年の井上長三郎の死により、戦前から画家として活動していた会員はほとんどいなくなった。鶴岡は晩年必ずしも自由美術展に出品していたわけではないが、井上との人間関係から自由美術に在籍していた。こうした世代交代で、画家としての戦時体験を、制作のモチーフに内在させるというスタイルは、自由美術からはなくなるということになる。時の推移は、出品作から制作のモチーフを淘汰する。モチーフは厳密には画家個人の中で淘汰されつづけることではあるが、時代を生きた体験は、簡単にはモチーフと無縁になることはないであろう。

ベテランの退陣は自由美術協会に静かに変化を齎すだろう。問われるのは、我々の制作である。生き方であれ、モチーフであれ、表れ方はいろいろであるが、作品として集約されたものの集積である、展覧会のありかたが問われることであろう。1990年代の活動については、進行中のことであり、ほとんどここでは触れていない。

2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤

3 : 自由美術家協会とは何か -その第一回展を機会に-

植村鷹千代     1973年「みずゑ」

1 : はしがき

いつでも、その時代で最も現実的なもの、最も真実なものは新しいものであった。ところが『新らしい』ということは、その言葉が余り魅力のあり過ぎるものである故か、丁度美人の場合と同様に兎角ケチをつけられ易いものである。それは『新しさ』を望むことは芸術家の真実探求心から本能的なことであるが、実際に於てそれが仲々実行困難なのである。唯勇気だけでなく、時代の理解ということが仲々才能を必要とすることなのである。だから事実を云うと、『新しいもの』が云々されだした時には、この『新しいもの』は常に少数の中にある。その時古いものが世に充満しているのである。少数に興ずるということは常識的に云っても困難事である。

しかしこの少数者『新しいもの』は、古い多数者が黙殺しようとしても何だか気懸りで無視出来ないものを持っている。真実のもつ正直な魅力である。無意識の中で人は美人に対する強敵感に襲われる。この意識は、『少数者』が成長しようとすると自己防衛のために、誹誇の雨となって襲来する。

丁度今自由美術家協会の絵画主張が、この雨の中に曝されている。『新しさ』を『新しがる、単なる悪あがき』にすりかえることが誹誇者達の前衛絵画論の定型である。これは何時の時代にも現れたところの定型ではあるが、それは笑うべき被害妄想の定型である。

惟うに『新しさ』は積極的な主張である。主張であるために僕らは、自分等に与えられる被害妄想を積極的に撃退する義務がある。それは決して単なる敵対行為ではない。真実に『新しいもの』の理解を時代に広め、隠れたる純潔な才能に防壁を築かんためである。

僕は自由美術家協会の会員ではないが、顧問の一人として今回の鑑査に参加した以上、二の協会の意志を最もよく識っているものゝ一人であるわけで、僕が自由美術家協会の主張を理解することは不適任ではないだろう。

 

2 : 自由美術家協会は何故結成されたか

自由美術家協会が公募展として結成された時、又々既成画壇の悪弊を踏襲するものだとの非難が相当あったのを覚えているが、今回の第一回展の一般作品の優良なのを見ると、この非難の当たっていないことが判っきり認められた。最初公募展を組織した時に起った非難は、かゝる権威の偽装を与える事が、新しいものゝ自由な主張精神に反すると考えられたのであろうが、それは形式的な議論であった。会員達は真の自由は謙譲な厳格の中に存するものと考えたのである。新らしいものゝ中に、責任をもって自己の共感を選択しようとしたのである。これはそうあるべき態度である。

そのことよりも、公募展の形をとった最大の理由は、協会の会員、会友達の芸術に共感を有つ優れた人々が、必ず何処かに在ると予測したことである。二科、独立をはじめ既にある公募展の性質上、そこには全然容れられない『新しい』才能が世に埋まっていることが必然である。しかもその芸術を一つの強力な集団のもとに結合して、その『新らしさ』を育て新時代絵画の集大成を期して新らしい時代の絵画運動として世に主張するためには、協会の責任ある公募展を組織するより他に途はないと考えたのである。

果せる哉、今回搬入された多数の作品は、驚くべく傾向の揃ったものであった。これは明らかに、自由美術展の芸術傾向への可成り判っきりした共感を示すものであると考えることが出来る。搬入の数が予想以上であったこと、及びその作品の傾向がこれまた予期を越した揃い方であったことは、自由美術家協会の公募展結成がよく当を得たことを識ることが出来ると共に、前衛絵画運動が積極的に興されてよい準備が既に在ったことを確認することが出来て、この運動の必然性が益々鞭打たれねばならぬことを知るのである。

尚鑑査に際しては協会の主張に関して、非常な責任ある厳格さで選を厳格にしたことは、新鮮な良心のみがもつ覇気であると共に作者に対する真実の誠意の現われとして特筆すべきことである。実のところ、傾向の異なった作品の中には、技術的には非常に立派なものが可成り多数あったのであるが、協会の芸術精神の厳正のために敢えて落としたし、同一人選者の出品作の中でも最も整備したものを厳選する方法がとられた。こういう態度の中にも真摯なそして新鮮な芸術態度が認められる。反面から云って、このような態度をとり得たことは、自由美術家協会の意思が現実に共感を以って報いられたことであり、その結成の精神は先づそれの発足に於て祝福されたものと考えてよい。必然性の足跡に対して世人は特に注目を集中すべきである。

 

3 : 主張とその周囲

前述のように自由美術家協会の組織は、現実の絵画界に於て、旧勢力の頑迷な抵抗と無理解のために、その成長と結合を拒まれている新時代絵画の人的集大成を目的として作られたものであるが、従ってそれの芸術論上の主張は、新時代絵画精神の集大成を押し進めようとするにある。新らしい絵画といえば普通超現実主義と抽象主義が意味されているが、自由美術家協会は、抽象主義的傾向的の絵画を中心にして同時代の絵画芸術を創造しようとするものである。

ところでこの抽象主義絵画(アブストラクトアート)というものに就いては、殆んど理解されていないのに驚くのである。本誌六月号に、作家、批評家の立場からの前衛芸術に就いての感想が集められてあったがあれは大変便利な尺度となるものだった。それにしても、そこに集められた人達は現画壇に於ける代表的な作家達である。その人達が、殆んど無理解な態度や、無理解の上に立つ厚顔な独断に終っているのには驚く。問題になった相良徳三氏などは最も滑稽なステージ・ダンスを演じた道化役者だったとして僕は拍手を送るものであるが、あゝいう非難は自殺的攻撃とも云うべきもので、自殺の効果は相手の論廓をより明確にするのに役立つものである。

攻撃し、誹誇し、否定する人々は抽象主義に就いての定義を知りたいらしく思われる。つまり、抽象主義とフォービズム、或いはそれと印象主義とは何処が違うかという風に問題をもって行っているように思われる。従って抽象主義絵画の形式を簡単に、直ぐ手に修められる様な方法で示されたならば恐らく納得するのかも知れない。

だが人々がこのように形式にのみこだわる絵画界の状態であるからこそ、僕らは尚更ら精神に就いてものを云わねばならないのである。何故人々はリアリテに惟ひをいたさないで、形式にこだわるのか。抑々抽象主義は形式主義の行詰りから発足したもので、同時代の感覚のヴィヴィッドな表現を求めて起った精神運動なのである。主として論材として人々がとり上げる線の運動の問題とか構成に於ける幾何学の尊重であるとかいうことは、この新しい精神から当然出てくるものではあるが、これらの課題は、今後無限の研究と発展が約されていることで、そういった点ばかりをいくらつゝいても、抽象主義精神の本体は理解出来ないのである。精神が先づあって、然る後これらの課題が発展するのである。

僕らが創造することを欲するものは、現実の最も新鮮な、理知的な、社会的な認識であり、同時にそれの表現である。つまり同時代に於ける歴史の創造である。

僕らは歴史を尊重するが故に、教養の歴史を肯定する。しかしそのことは、そうだから自分達で歴史の延長を作ろう等と、規定してかゝる豪慢さもなければ、のんきさもない。だから僕らは、新古典派などゝ自ら称するものではない。しかしまるで反対に、現実のリアリテを肯定し、現実社会の歴史の中に美しき表現を求める人類のロマンのあることを感知するがために、先人の歴史を尊重し、古典を愛するのである。僕らの希うところは、このように同時代への真撃、唯それだけである。この精神が自由美術家協会の作品の中に集大成されて行くことを望むのである。現在の場合、自由美術家協会の作品が、かゝる精神を完全に表現しているは勿論自惚れるのではない。だが、協会の行き方を措いて他に、この精神の発展の地がないことを確信するには敢て憚らないのである。これは自由美術家協会の敢て世に誇りとして示すところであってよい。

現実に対して真争であることは、歴史に対する最も謙譲な意思であると云ってよい。この精神に於て抽象主義は、教養と歴史を否定しようとする超現実主義を容れないのである。だがその代り抽象主義絵画には、一般文化の課題がうんとのしかゝっている。古典の問題、民族伝統の問題、思想の問題、それら凡ての問題は深甚な思索の中に、現実の世の血統の中から拾い出さなければならないものである。
若しも人が、今回の自由美術展の雰囲気に浸ってみて、そこに何等同時代の真実に就いて感得するところがないと云うなら、その人々は僕らにとって縁なき衆生である。しかし若し反対に、その中に同時代の新鮮な夢を感得した人々に対しては、僕らは一層の批判と確信とを希うものである。しかしてこの夢が集大成を見るであろうことは、今回の事実に徴しても、又文化の必然に見ても疑う余地のないところであろう。

自由美術家協会は、そして抽象主義的新時代の絵画は、未だ完成されていない。未完成であるが故にこそ自由美術家協会は、内に対しても外に対しても、真剣な戦いを続けなければならないであろう。

植村鷹千代   1973年「みずゑ」           自由美術家協会とは何か -その第一回展を機会に-

4 : 古典は我々のものである

長谷川三郎   1940年「自由美術」

「古典は我々のものである。」此の言葉を、今日、僕は、いさゝかの躊躇もなく、心より吐く事が出来る。一今日迄五日間京都で過して来た日々の感激のお蔭である。

僕は幾つかの庭園を見た、多くの茶室に入った、沢山の茶碗や道具を見た。
夢窓国師に接し、紹鴎に触れ、利休、長次郎、遠州、光悦……を看た。之等の先人達が、如何に自然を敬い、生活を愛し、芸術したかを識った。彼等がその生涯と人格と熱意を傾けて、如何に美しき空間を構成し、如何に堂々たる立体を造型し、如何に麗しき平面を形ち作ったかを見た。

西欧の先駆者達が、その尊い努力を以て、漸くこゝ二三十年に到達し得た、「抽象芸術」の、その堂奥に、我等の先人達は、四百年の昔より、既に達しているのである。-僕の此の言葉を疑う者は、モンドリアンを、アルプを、或はル・コルビュジェーを、モリ・ナギーを、拉し来って、此五日間に僕の見た美しい作品群を示して見よ。若し彼等が分からなければ彼等の「抽象芸術」がニセ物である。その場合彼等に教える自信が僕には充分ある。然し、恐らくその必要もあるまい。ブルノ・タウトでさえ理解し得たものは、他の連中にも分る筈である。又万々一、分らなくても、我等は、何ぞ、それを恐れる要があろうか。岡倉天心が明治時代的ヒロイズムを以て、「東洋の理想」を叫んだ如く、我々は昭和時代的ヒロイズムに堂々立って、「抽象芸術の祖国は日本である。」否、真の「造型する精神」の祖国は日本である、と叫べはよいではないか。

龍安寺の石庭について説き過ぎる事は我々の怠惰を証明する事になるかも知れぬ。それよりも、西芳寺の天龍寺の、夢窓国師を語り得る様にならねばならぬ。遠州よりも勿論利休を、更に利休と同じく紹鴎を。光悦を、光悦と同じく長次郎を。

我々は素直でなければならぬ。平凡であらねばならぬ。高い教養を、広い理解を、深い技術を、持たねばならぬ。ためらいなく生きねばならぬ。

僕が、夢窓国師を、紹鴎を、利休を、長次郎を、遠州を、光悦を云々するのを軽蔑するものはせよ。僕は、彼の精神の怯儒を嗤うであろう。

セザンヌ以来の西欧の熾烈な近代造型精神が、単なる自然の外形の模写を拒否し、「造型」精神の高揚に尽して呉れた事には感謝の言葉がない。その洗礼を蒙ったお蔭で、僕は我等の先人達について今日壮語する事が出来るのであるから、然しその為に卑屈であってはならない。

夢窓国師の造庭に接すれば、セザンヌは、その芸術の形式を変えていたであろうし、利休の前にはピカソは幾度か漸死した筈である。遠州、光悦を知れば、ル・コルビュジェーは、もっと、慎重であった筈である。

西欧は地球の半分である。我々に近い時代にその半分が活発に活動したと云って、徒らに瞠目すべきてあらうか。そんな事があってはならない。

が、又、我々は、真の東洋を、極東を生かさんとすれば、地球の他の半分にも学ぶべきものを充分学ばねばならぬ。然らざれば、我々は何の為に現代に生きているのであるか。

西欧の前衛芸術の先駆者的な熾烈な精神と、今日以後の我々とは、火花を散らす決戦を避けてはいけない。

分らなければ先人に聴け。

僕は利休の墓に相談に行く。

今、世界には新らしい時代が来らんとしている。我々は悩まねばならぬ。努力せねばならぬ。卑怯であるな、突進せよ。だが、先人に道を聞いて、決して、盲信するな。

自然を模写したいものはせよ。したくないものはするな。

態度を明にせよ。確実な方法を持て。

明日の、真と、善と、美と、は、今日、決然たる態度を持つ者の手にあるだらう。

「古典」は、嘗て、「前衛芸術」であった。

「前衛」たらずして、「古典」を語る者は「古典」を冒涜する者である。

古典は我々のもの、我々前衛芸術者のものである

                                                                                              昭和十五年四月甘七日

5 : 松本竣介追想

鶴岡政男 1948年「自由美術」

彼を知ったのは随分古い事で昭和4・5年頃からだったと思う。彼と私は太平洋研究所にいたので毎日の様に顔を合せていたが、グループがちがっていたので別に話し合うこともなかった。其後彼が麻生や薗田などと赤豆会というのを作って気焔をあげていた頃、団子坂のリリオムという喫茶店で日曜毎に絵描きや同好者達が集っていいたい事を言い合う会合ができて、そこで彼とよく会って話し合う様になった。其頃私はNOVA美術協会を若い仲間とやっていたので彼もメンバーに加わった。
NOVAは12年の事変で若い仲間達は戦争に引っぱられたり戦死したりして7回展で解散してしまった。
其後彼は二科会友として九室会などで活躍していた。二科脱会後終戦前まで井上、麻生、松本、大野、糸園、靉光、寺田、鶴岡のメンバーで新人画会をやっていた。
其間綜合雑誌「雑記帳」を発行していた。
16年の「みづゑ」4月号には「生きている画家」の題で軍部及び御用批評家のファシズム的暴論を痛烈に反駁している。
終戦後、画家組合を提唱して其の主旨の印刷物を画家間に配布するなど、彼は絶えず前進しつづけた。戦争中ことに東京が爆弾の雨に包まれた当時も頑張って制作をしていた。
夜昼なく仕事を続けて身心の休まる時もなかった最近の彼の生活は体の不自由な彼としては限度を越えたものであった事はたしかだ。それに昨年10月地方展のために旅行中に突然の愛嬢の死去は打撃であったと思う。それ以来彼の健康は勝れない日が続いた。12月には肺炎を患った。彼はよく言っていた「静養する為には先ず働かなければならない」とそして山積している仕事に没頭し続けた。
連合展の搬入の前に私が彼のアトリエで会った時は40度の高熱を押して制作していたのだそうだが非常に悪い顔色をしていた。其後麻生から彼の寝こんでしまった事を聞いた。
6月6日に連合展の様子を知らせる旁々彼の出品画の一点を私の友人がほしいと言うので売価を間合せ乍ら見舞に行った時は私の筆談を笑ったりしてわりあいに元気だった、6月8日朝、麻生が危篤を知らせてきた。
彼の死を眼前に見た時、私はやたらに腹が立ってしようがなかった。
37年の短い生涯であったが彼はよく闘いとおし斃れたのだ「生きている彼」個々の生命はより大きな生命の流の中極小さな存在だ、そして宇宙的時間の僅か一刻をしめるに過ない、人々は与えられた一刻の生命を燃焼させている。
一個の生命は其の系譜の一環にすぎないが個性は再び生れる事のない貴重さをもっている。
動物本能的原始生活の域を出ていない現在の社会で、我々の限られた一刻の生き方が問題になってくる。
明日の不安なしにやって行ける国が世界のどこにあるだろう。
人間が自ら喰う為に手一杯の生活しか持たない処に文化などはない筈だ。ジャングルの獣達とどれだけちがうのか、何万年も前の我々の祖先もそうしていたではないか。
絵の世界もこれと同じだ、若し猿や犬や猫が絵を描く能力があるとすれば現在の多くの絵描き達の絵とどれ程の差のある絵が出来るだろう。
冷酷無知な獣達の眼、欺瞞、真実をよそおう嘘偽、利己的保守退嬰等の非人間的絵とその制作者。これらのものを擔ぎ廻る創造性のない憶病な批評家達。愛と憎しみを持ち真に怒れる人間がどれ程いるだろうか。
彼は愛情を持ち真に怒る事の出来る者の一人であった、従令画業のなかばに逝ったとしても総べての事柄は現在に於て意義がある、バトンは渡された。彼の知らない若いゼネレエションの中に彼の継走者がある事を私は知っている。
彼は「生きている画家」の中で言う「私達若い画家が実に困難な生活環境の中にゐてなほ制作を中止しないといふ事は、それが一歩一歩人間としての生成を意味してゐるからである。例へ私が何事も完成しなかったとしても正しい系譜の筋として生きていたならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるてあらう」と

6 : 健康なピカソ

麻生三郎 1951年「自由美術」第9号

 この夏はいまゝでになくからだをこわしてすっかりへこたれている。こんな状態でピカソ展を見たせいか健康なピカソに圧倒された。絵を観ながら胸毛の生えた裸のピカソの写真を思いうかべた。子供のようにがむしゃらで生きる力が溢れている。ちっぽけな殻におしこめられてみじめぽくなっている日本の観賞者たちには驚異にちがいない。こんな人間は日本では生きていられないからだ。ピカソを現代の大山といい、ピカソを通過しなければ現代の絵ではないように考えられているが、ピカソの魅力は胸毛の生えたピカソ自身にあるのだと思う。子供は子供の線で絵を描くようにピカソはピカソ自身の線でそれを古代人のように描く、だから古代の絵にあるような線の強さや速度で内面の微妙な震動を造形している。子供の絵は子供の顔のようにあどけなく美しい。ピカソも胸毛の程度にグロでそして美しい。こいつはちょっとマチスとちがう。マチスの粉飾は鼻をつまみたくなるがピカソは万国共通語だ。人間性という地面に立てた柱は確かだ。絵画と人間が密着しているという第一条件。それからもう一つ。
  ピカソ自身は合理主義の権化だ。ピカソが立体派という絵画革命に集中し通過したのは当然だ。
 以後ピカソの歴史では合理的でないものは一切整理される。つまり具体的で現実的で視覚中心主義だ。だから第一の条件の結果が生れる。徹底的な合理主義、そして西欧の知性のかたまりのピカソに東洋の画家は心を引かれる。だが、併しピカソ大山の解釈があまり絵画中心にあつかわれ、絵画の目的が絵画自身にあるかのような方向にもってゆくのはどうか、わたしはたいへん疑問をもっている。だからピカソの傍系にはピカソのような生気がない。ピカソの青の時代から現在まで画面の変化はピカソの表情だし、表情に気をとられることはない。ピカソは合理的な方法で言葉を創造しそしてピカソ自身を絶えず語っているのだ。合理的な方法はそれ自身解決している。つまり精神をも意味している。対話がたちきられた方法であろうか。だから 「ゲル二カ」は彼のイカリの象徴であるにしても身ぐるみ泥沼に入っている人間のイカリとちがうとは言えまいか。
 さてそこでいま我々にとって何がどのような目的で絵を描かせるのであろうか。身ぐるみ泥主みれの我々はどうしたら救われるか。どのような基礎をもっているか。ピカソ大山をのりこえなくてはならぬ意味はどこにあるのか。あらゆる観点から貧乏人で非合理の泥沼にはいつくばっている我々は病んでいる人間たちだ。非合理性それ自身が眼の前にぶらさがっているのだ。また我々自身非合理の裡にあることなのだ。ぶよぶよな地面にどのよ)な柱を立てるというのか、それは合理的に解決のついたピカソの方法によって為されるだらうか、健康なピカソの線はたいへん羨ましい。しかし病んでいる人間たちの精神はけっして計算された構造をもたない。非合理と対決している。わたしの躯がまいっているためだらうか。

7 : 長谷川三郎に関する断章

難波田竜起   1957年 「自由美術」第16号

 長谷川三郎の人となりや芸術についていつか精しく書きたいと考えているが、今回は早急なことで感想程度に止まらなければなるまい。これまで長谷川三郎論が美術雑誌に掲載されたことがなかったように思われる。僕はかねてそれを不思議に考えていた。或は今後において彼の全貌がその作品や思想の上で明らかにされた暁には、おのずから長谷川三郎論が誰かの手で書かれるに相違ない。遺作展の計画もあるが、未だ実現のはこびに至らないのは、残念な気がする。しかし彼の全貌を明らかにするためにはその作品の収集に時間をかけなければならない。また長谷川君は西洋や東洋の芸術に関する評論を沢山発表して啓蒙につとめ、すでに著書もあるが、やがてそれらもまとめられて出版されることだろう。
  僕は長谷川君に第二の岡倉天心を期待していたので、アメリカから帰った時にそんなこと戯断まじりに話したものだった。再度サン・フランシスコの美術学校の招きで渡米した折には、紋付袴のすがたで、東洋美術のことはもちろん、禅や茶の湯についても講義していたそうだが、そのような長谷川君の風貌を想像すると、第二の天心の面影がしのばれるというものである。それは一見きざっぽい感じではあるが、そのきざっぽさを敢て前面にあらわしたところに、むしろ彼の面目があったのであろう。彼は誤ったアメリカ人の日本観を鋭く批判して、そうした文章もアメリカの新聞が何かに書いて反響が大いにあったとういうことだ。長谷川君にさらに数年、いや10数年の活動の時期が与えられたならば、恐らく欧米と日本の文化を結ぶところの大きな時代的な役割を果たしたのに違いない。それ故に彼の急逝は痛恨のきわみである。今日ほど欧米の文化人が日本を通じて東洋に近づいたことはないように思う。日本で開催された今回の国際ペン大会の議題も、実に東西文学の相互影響ということだった。それは美術の上で早くから長谷川君が思考していたことなのだ。西洋画を志した美術家で、彼ほど深く東洋の芸術を理解し極めてその精神を生きていた人はなかったとさえ僕には考えられるのだ。
  長谷川君が実際の作品の上で、評論の中で、いかに真剣に東西文化の交流、調和の問題を追求して実践していたかは、ここに掲げた第2回自由美術展出品の「レリーフ」を見てもわかるだろう。この黒い円を四つおいた簡潔な美の構成には、東洋と西洋の接触点を求める美術家の意図があったと思われる。彼はまた写真の技術を用いて郷土誌を作った。そこにも見逃されていた日本風土の美が新しく彼自身の感覚で把握されていた。戦後には船の廃材を購入して、それによる版画風の作品を作り、屏風という機能形体にまとめ上げたが、それにも独自な秀れた知性と感性の表現があった。
 

8 : 核分裂

針生一郎   1957年 「自由美術」第16号

 もうなんとか書いたことだけれども、わたしは自由美術を考えるたびに、1948、9年ごろの美術館の裏側の部屋に抑えつけられていた熱気がほとばしるような、作品群がならんでいた光景を忘れることができない。「第二の青春」か第一の青春か知らないが、あれは戦後という季節をいろどるひとつの青春だったのだ。会員たちは若く、叛骨リュウリュウとして、戦争下の孤独な思索からの解放感と、同時にするどい危機感をもってこの季節を迎えていた。
  だが、あれはもしかしたら、より以上にわたしの青春であり、初恋のようなものだったかもしれぬ。まもなく主だった作家たちは成熟期にさしかかって、いたずらに苦渋と模索の表情を濃くしてきたし、わたしも少しずつすれっからしになってきたようだ。いまのわたしは自由美術について、世帯やつれした古女房の顔をみるように、勝手にしやがれといった気持ちがつよい。古なじみの気のおけなさから、どやしつけてやりたくなったり、ひとりひとり勝手に歩きだしてくれたら、仮借ない友人としてつきあいやすいんだが、と思たりする。
  いつだったか、座談会で、ぼくは自由美術のシンパだから、といったら、老人批評家が、いやぼくだってそうですよ、と答えたのにはびっくりした。自由美術を支持することが、存への郷愁だったり、良心のあかしになるような空気なら、きれいさっぱり否定してしまう方が衛生的だろう。これは会の内部の人びとにもあてはまる。
  いつか硲伊之助が、美術運動の寿命はせいぜい10年ぐらいだ、というようなことを語っていたが、清新な情熱の結集だった自由美術も、10年たってみると、いろいろカスのようなものがたまってきたのではあるまいか。いやむしろなまじ芸術運動としての性格をもっでいただけに、自由美術は、美術団体が例外なくみまわれる風化作用のなかで、いっそう抵抗の目標を見失っているような気がしないでもない。それにここ2、3年、どの団体でもそうだが、あんなに会員をふやしてどうするつまりだろう。威勢のいい若者たちが、それぞれしかるべき位置に腰をおちつけて、じっくり仕事をはじめたーといえるかもしれないが、一方ではやっぱり、それぞれの会の空気にならされていっている。さまざまの傾向と人間関係がいりくみ、百名以上の会員を擁する団体が、芸術運動の主体でありうるかどうかはいうまでもない。
  こどもが乱暴やイタズラを父親からとがめだてられると、うちのお父さんはなんでも叱ってばかりいる、と思いこむが、じつはそういう行為を禁止する衝動は、こども自身のなかにもあるのだ。自分の心理のなかのできごとを、外界からの圧力と感じたり、外部の条件を口実に自分をタナあげしてしまうことが、ユングのいう「投影」の現象だが、「自由美術の旗のもとに」精進してきた作家たちにもいつか仲間うちの気分や反画壇意識になずんで、ひとりだちの気概が希薄になっていることが、ありはしないか。造形と人間の結びつきでも、過去の苦闘にみちた歴史は歴史として、自由に大胆に新しい局面をひらく気風がほしい。
  福本イズムではないが、日本の芸術運動もしだいに老朽メンバーを淘汰して、精鋭だけの同志的結合にしてゆくことができないものか、などとわたしは考えるのだが、美術団体の現状からいって、そういうことは夢物語だろうから、せめて内部で核分裂を活発にやってほしい。自由美術でも、抽象派、新具象派、アンフォルメル派、社会派など、内部闘争と討論の材料にはこと欠かぬはずだ。要はひとりひとりの作家が、自由美術は社交団体ぐらいに考えて、自分の仕事を着実におし進めてゆくべきである。グループや個人のそういう自由な動きの上にこそ、自由美術は全体としていきいきとした力をもちつづけることができるにちがいない。

9 : 美術時評

井上長三郎   1958年 新聞「自由美術」第2号

 私は初日の現代美術展(毎日新聞主催)の会場をA君と散見しながら 「こりや戦争美術展に似て来たな!」と思った。
  戦争美術展は戦時中軍と大新聞の合作により聖戦完遂を目的として作られたもので、当時の侵略者の走狗を自らかって出た多くの絵かきがいた訳で、例外もあるが、これらがそっくり現代美術の花形になっている、恰も戦犯諸公が閣僚である如く……。ここでは戦時中特攻隊を描いた人が今日は十字架を描いている。また陸軍大臣賞に輝いた絵かきは今日ではアンホルメールを。
  私は彼等の前歴をアバク趣味は貰い下げるにしても絵看板の職人のように雇い主の注文次第で何んでも描ける、実はなにも描けないことを意味する、そんな便利な芸術家(?)が多勢いるのは日本だけの現象ではないかとつくづく思った。
  つまり、ここでは戦争画と同じ基礎の上にモダン美術の形骸が置きかえられ、思想的に少しの変革も見られない、いやもともと絵かきの思想性なぞ論じられることすら稀れで、日本の大方の大家・小家は例外なく何んとなく何んとなく絵を描くことが好きで永年描き続け、玄人らしく装ってはいるものの西欧の画家と比べると技術一つ見てもアマチュアと云えないだろうか……とは私自身日頃痛感している事情であるが……それに理想性を云々すること自体無理な注文かも知れないが、何んとか、この辺りで芸術家の仲間にはいる為めにも考えなくてはならない問題であろう。
  絵かきの理想性、これは何にも政治性をテーマとする絵看板や自己疎外を売り物にしたアンホルメールくずれを云っている訳では勿論ない。私は画家の思想は一枚のダブローが出来不出来、ウマイ、マズイは問題ではなくはたして造形を意図しているかどうかによって証明されると考えている。
  アンホルメールのファンは自由展にも多い。自己の興味もさること乍ら、雇い主(ここではマス・コミ)も喜ぶことだしこのところ一層その数を増すことが予想される。しかし正直いって私も昨年将来された海外のアンホルメールの作品には大いに刺激されたものである。これは憧かに新しい考えを持った絵であったからで。しかしタピエ氏選ぶところの本邦のそれは作品とは申し兼ねる代物であった。そこには日本人の無茶苦茶と狐つきにも似た悪戯が作品にまでならず、ナチュラルな形で露呈されていた。例えば、不潔な泥道が作品であるかの如く、ここで残念なことはこれらの悪戯が西欧よりお先に出来ていれば、たとえそれが作品とは云えなくともその何んとかのあさましさで我慢もなろうし、タピエ氏の推奨に償いしたかもしれぬがアチラの手口が歴然としてはなもちならない。……しかしこのような哲学(?)は戦前に逆のぼらなくてもこと訣かぬ日本の今日の実状をとくと見る必要があろう。
  自主独立までには程遠い政治。それに加わるマスコミによる総白痴化……非合理的な材料は無限にある。
  西欧のアンホルメールの画家たちはどのような哲学を持っているのだろうか、多分彼等には抽象派(アフストラクト)の反動としての意味を持つものであろう。抽象派を古典派とすれば、これはロマン派である。西欧では古来からこの二つの対立が芸術発展の形をつくっている。例えばアングルの古典派、ドラクロワのロマン派、その他……
  併し今日のわが国に古典派にガイ当する如何なるエコールが存在しているだろうか、日く 「抽象派がありすよ」……その答は落第である。セザンヌや立体派、これは西欧合理主義哲学を代表する絵画である。これを素通りした抽象派とはナンセンスである。合理主義(古典派)のないところにニセモノの非合理主義(ロマン派)、この悪循環は常にくり返されている。これ即ち日本近代絵画史といえよう。
  しかし、絵画の合理主義はなくとも我々は近代科学や技術の恩恵をうけてることは否定できない。これが一見西欧なみに近代化されたものと錯覚され岸首相の「我々は自由主義国家群の一員として云々」を語らしめ、自由主義国家の一員として絵画のアヴアンギャルドを夢想せしめ、ロカビリーに熱をあげるゆえんだろうか。私は日本の近代化はビルヂングの林立や自動車の氾濫やニセモノのアヴアンギャルドの繁栄ではないと思う。むしろ、これは近代化とは逆の植民地化に拍車をかけているように思う。
  私は少しくアヴアンギャルド絵画に触れすぎたようだがこれは日本絵画全般の問題の一つの例にすぎない。
 

10 : むしろ独自性を思わずに

はらた・はじむ  1960年 「自由美術」第19号

 日本の日本らしい独自性というものは、われわれ筆をもつもの個々人の側の、もっとも自分らしい自分になりきる、ということに、大きな関連性があると思う。これは、かいてかいてかきぬくという努力、工夫と、一生かいても到らぬかもしれぬという問題で、ぼくなど勉強の足りぬ男がえらそうなことをいえた義理ではないが、自己というものは、案外自我がつまらぬと思う暗やみの隅っこに、意外な形象をまとって輝いているのではないか。仕事が行きつまりの急坂にさしかかり、俄かに外国の複製画などが光まぶしく目前に立ちはだかり、自作のつまらなさに、それをぬりつぶしたくなるとき、待てよ、おれが大切にせねばならぬのは早急な成功の虚光ではなく、如何にしたら自己の最初の感動を追求し深めるかではなかったか、と足をふみしめ、どんなにつまらぬ思いでもおれはこれをかきぬく以外にはないんだ、と考え直す-そのねばりといったものが、自己の自己たるもの、日本の一員としての自己を掘りだすカギのひとつではないか。
  画因についても、あまりにも日常的でなまぐさく、或いは生活の現実の貧寒さに、それは到底芸術への昇華に遠いと考える人もあるその現実に、ぼくはもっともっと執着せねばならぬと考えている。激動する社会の日々に、どんなに人がこれは絵にならぬと目をそむけても、それはぬきさしならぬ関係でぼくらに喰いこみなやませ喜ばせる。職場の闘いや安保の問題や、政治はどう逃げようとも逃げきれず、ぼくらをしばり影響する。かえって真向いに、現代の人間のひとりとして、これにぶつかることが必要なのだ。
  日本の独自性を東洋的リリシズムとかエキゾテイシズムの枠にほめ、何か観念的に設定していくのは、美術史上の先進作家たちが、他ならぬその時期々々のいわゆる日本くささ、古さ、小ささ、をのりこえようと懸命の努力を重ねた反逆精神を置きわすれることになりはしないか。ぼくは歴史をもっともっと勉強し、歴史の中の自己の位置や方向、他のことのそれを知り、また人々との話しあいの中で、何とか手さぐりの鈍い手を少しでもつよく鋭くしたいと思っている。独自性というものは、本来の性質性向といった風にのみ解釈すべきでなく、創造活動の場合、より高い自我への向上革新をふくまずしては、鉱脈へのツルハシももてぬし、それをふるうこともできない。今山われわれは躍進し、せめぎあう世界史の中のヒトツブとして、筆にしがみついている。いや、ヒトツブとはいいながら、巨大な自己革新の歩をすすめる民衆の波動の高まりの中で、われわれの先輩作家が如何にその時代々々で新しい日本を形象化してきたかを、その背後周囲系列遺産の四方八方から歴史的に、しかもその造形の具体に入りこんできわめる必要にせまられている。すぐれた美術史家、評論家の仕事が、ぼくたちをもっと「日本独自」への道、単なる杼情や回顧や骨董趣味でない日本独特の道へひきつれていってくれるだろう。
  何しろ、ぼくの触手は、ひ弱くみじかいのだ。どうもがいてもせまき門よりしか入れない力の足りなさで、一寸の虫にも五分の何とかで、人間の連帯性、集団への信頼、生活の行動によって、針の目ほどずつでも作の主題をひろげていくことだ。吸いとれるものは、どこからでも吸いとりたい。のみこめるものは何でものみこんで、自分が現実からの感動を形象化する手腕をふとらせたい。日本らしくなろうなどとは、むしろ念頭に置かずに、自分の思いを何とかあきらかに訴えたい、と夢中になることで、ひとりでに日本の独自性の一片にでもつながりたい。
 

11 : 幻想画小論

西八郎  1973年 「自由美術」

 自由美術において幻想派と呼ばれるのは細密画的技法を用いる者のみに限られて居る様だが、これは幻想派の一部を代表するものにすぎない。又その名称も私達細密派にふさわしいものかどうか疑問もあるが、今はそのことに深くは触れない。ただ次のことだけは言っておきたい。
  私達の多くは、その内容においてシュールリアリズムとは無縁である。又ひたすら、ファンタジーやイリュージョンの世界に耽溺しようとする者もいない。世紀末的幻想の病的な逃避の跡を追う者も見当らない、むしろ外部現実との関わりを重視する者が多い、もとより内部と外部、つまり幻想と現実とは常に表裏の関係にあるのだから当然と言えるかもしれないが、その画面にみる現実凝視の姿勢や、批判精神の重みにおいて「幻想リアリズム派」とでも呼ぶべき内容を持つものだと私は思う。
  私達の手法については目新しいものは完全にない、転移法を始め人の目を引き易いさまざまな画面処理をシュールリアリズムや、多くの幻想絵画から私達は引継いだ。
  又難解な表現をきらって平明な描写主義を選んだ、その描法の出所については今更言う必要もあるまい。私達が細密描法に依るのは勿論その平明さを良しとするだけではない。私達が描く物象は全て私達の代弁者の役を持つ、代弁者の姿は出来る限り細密に絵描き出さねばその役をなさぬ。これは同じように細密描法をとる一部のイデオロギー派においても同様である。
  彼等の画面において星条旗がアロハシャツに見えたり、軍靴が登山靴に間違えられるようでは、その物を選択した意味までもなくしてしまう。この場合軍靴や星条旗は彼等にとって言葉にほかならない、言葉の意味を取り違えられては困る。正確さを求めて細密な描法を選ぶ以外になかったのである。
私達にとっても事情は変わらない、食卓のパンが石コ目に見えたりするようでは、はなはだ困るのだ、視覚にうつる事物は勿論、自らの創造による物象であっても意図した通りに描出することを、私達は自らに要求しなければならない。この求めに応ずる技法はやはり細密描法をおいてない、くどい様だが(空は空)に(地面は地面)に見えなければ私達が己のイメージをそれらの物に託した意味も又アイマイになってしまう。アイマイな物は全て私達の画面から排除しなければならない(私にとって細密画とは明確の意でもある)又細密画は徹底を求める「不本意乍らこの辺で筆をおこう」と言う訳にはいかない。
  パンがパンに見えるまで筆を持ち続けなければならない。
  問題なのは私達の未熟さだ。伎橢の向上につとめなければならぬ。私達が細密描法にしがみつくのは唯この一つの理由による。
  以上はあくまで私達の立場を述べたのであって、細密描法によらねば己の幻想を表現出来ないなどと言うのではない。略画の様なタッチで楽々とそれをやってのけている人達も居る、その人達にはそうしなければならぬその人達の理由があるのだろう。

12 : 現代の潮流と自由美術

沢田俊一   1974年 「自由美術」

 現代音楽の一番の傑作はコマーシャルソングであると皮肉をこめて言う人がある。なるほど現代人の心をこれほど支配する音楽は他にはないかも知れない。資本の論理によって人々はかりたてられる。美しい自然もこの論理によれば観光資源ということになる。人々は言葉たくみに集められ、バスにつめこまれ、マイクから流れる歌謡曲をきかされながら、窓ごしに自然を眺める。そこには、もはや、人間と自然との純粋なふれ合いはない。人間の尊厳、美の純粋性などという言葉が、何か時代錯誤にきこえるこの頃である。毎日、テレビを眺め、インスタント食品をたべながらも、ふと人間とは何かと考える。一体何なのであろうか。
  井上長三郎氏の描く紳士は深刻尊大な面貌をしているが空しいのである。
  物質的繁栄は水に浮く泡の如く、その根底に我々を支える精神的な支柱は存在していない。二度の大戦によって、人間の心の底に巣くう、アニマル的などす黒い欲望が、人間の理想や理念をあざ笑うように押流すのをみてきた。心ある人々は絶望し、時代は混迷している。様々な終末規が語られ、オカルトブームにみる如く、超自然的なもの超人間的なものが指向されている。美術も手仕事を基本とする本来の建設的な創造性を見失い、ニヒリズムの影を濃く宿している。
  「……人間の文化は確固としたものであり、常にその水準は高まってゆくと当時はまだ考えられていた、しかし戦中、戦後の衝撃によって文化全体に疑問が投げかけられるにいたった……幾百年に亘る精神的創造は、人間のどす黒いカオスを封じ込めるため堤防をきづいてきたのであるが、今やこのどす黒いカオスの力がこの堤防をやぶってあふれ出そうとしている。しかし、人間の高度な生活を維持することはこの堤防を守ることとつながっているのである……」これはスイスの神学者ブルンナーの言葉である。
  自由美術は今回ユマニテというテーマを掲げた。ブルンナーによればユマニテとは、可能性としての、又理想としての人間の文化のことであり、それは既往のものに対するきびしい告発者であり、裁き手であるという。
  戦後のいわゆる前衛美術の諸相は、混迷とニヒリズムの影を宿し、私は、そこから未来に対する新しい展望をくみとることは出来ない。
  自由美術に集まる作家の姿勢は、人間の可能性への信頼にある。時代への批判は、未来への展望のない所に存在しない。時代の諸相と、実存としての純粋な自由な立場に立つ明日への意志との相克の中から新しい創造の芽がふくものと我々は信じているのである。
 

13 : ノート

井上長三郎   1976年 「自由美術」

 ユートピアと言うのは辞書のなかにのみ存在すると思っていたが、本年の自由展の題名になった、これには会内でも外でも戸惑うかも知れない。
  周知のように日本の敗戦以来、自由展は深刻派とモーロー派がその体質と思われてきたからで、今もそう見ている向が多いと思われる、しかし'76.7「自由美術」のニュースを見ると一年間の自由展グループ・個人展の数が全国で100件になんなんとしている、量もさること冷らその質においても割目すべきものがある……これはまさに自由美術のユートピア的現象と見るべきであろうか。
  尤もこれが一挙に対外的に評価されまたエコノミーつまりコマーシャルと結びつけば結構と云うべきであろうが……の評価とコマーシャルの仕組はロッキード疑獄を頂点とする日本の全ての分野に見られる構造であって、このカンジンの部分で結構とは云いかねるわけである。
  自由展の全作品内容を一口には云えないがユートピアとは逆なものであろう。この言葉では云い現せない世界と思う、これをレアリズムといっても外来語でふさわしくない。したがってこれは詩人か評論家によって我々の作品からオリジンな言葉を探し出して欲しいものである。それが美術批評もしれない。
  ところで最近見たルオーの8号(同和画廊)彼の最晩年の作と思われる黄金色調のタブローは年令を越えた、いや老令によってのみ可能な世界と断定した。
  この作品は彼の後期によく見られる構図で、遠方に教会らしき建物と前景にキリストを思わせる人物がいた、色彩の豊醇と珠玉の如き輝き、これがユートピアと云うものかなとしばし眺めた。
  この一枚の小品はここ数年来海外から来る大量の全作品にも勝るものと思われた、お古い云い廻しだが私がルオーを思慕するところは彼が現代絵画の諸エコールの外にあると云うことだろうか。
  彼の生い立ちに近代絵画の基点セザンヌは存在するが、中世が最も強く作用している如く思われた。チナミに私は戦後世界美術の多くの傾向とその類型に辞易して保守的心境と云うべきであろうか。
  このところ世界の新しい美術の動きは出つくされたものか、海外から来る作品展の多くが復古的懐古的と云ってもよい、尤も新しい美術があったとしても経費その他の採算から作著の知名度による興行性が先行することは否めないだろう。
  しかしこの巨匠たちの作品はいつ何度見てもいいものであるが、高度成長のお蔭で将来する作品に若干の疑問を見るわけである。今から10年20年も前の巨匠展は観せるだけのためから彼らの秀作傑作の類が将来されたのであるが、このごろはコマーシャルが関与し金持日本に売り込みにウエートがおかれているやに聞いている。巨匠の作品を1枚でも多く日本に置くことは結構であるが、巨匠の安い作品つまり3流の作品を持ちこむのはやめて欲しい。またこの3流品が1流の価で買われているとすれば二度ビックリである。企業公害はすてに芸術の世界に及んでいるわけであろうか。
  ロダンの作品展を見た、終日近くの会場はまるで電車なみの混雑で閉口した。若い男女がこんなにも芸術に関心をよせてるのは壮観と云うべきであろう。彼の大量のデッサン、カレーの市民のバルザックの巨大な頭部・躍動する女体の群、これもロダンの生涯のホンの一部分にちがいないがすべてが感激とよろこび、緊張した精神の美しさは神さまの仕事と云うほかはない。上野の西洋美術館には閑散なところに彼の傑作がいつも立っている。
  ポール・クレー展にはデッサン・水彩・小品の類が無数に並んでいる、昔パリで大量に彼の作品を見ているが、その一枚も見かけられないのは無数という形容が妥当と思った。彼の変幻自在の夢の追求そしてあのキチョーメンさに敬服した、全く生まれながらの絵描と云うことであろう。
  シャガールの作品は13年前のシャガール展で彼の青年期から壮年期までの仕事に感銘したが、今回の仕事を見て壮年期の手法を老年の今日まで持続することの難しさを考えた。そしてそれは多分不可能ではないかと、美女が空に舞い花束に地上は埋リギリシャ正教の金色に玉ネギは光り農民の低い家並、羊と小馬が飛ぶ、彼のロシアへの思いは、革命以前にまた仕事もその後停止した。
  往年私はモスクワで美術家同盟のガリヤエフ、ザモージュキン教授と対談した際シャガールはお国の民族画家であると述べたが、彼らは同調しなかったことが思い出されるがつい先年ソ連に於て彼の大展覧会が開かれた由、めでたしめでたしである。
  近代美術館のタマヨ展を見てメキシコは美術では日本より先進国と思った、正面にかかげた何千号もあろうメキシコ民族をテーマとした大作の脇に日本人のモダンな壁画が覗いているのは何んとも皮肉に見えた。
  タマヨ展と時を同じく自由美術のIとTの個人展があったので比較することが出来た、この3者は国籍と世代の差こそあれエコールヨーロッパと見てよいが両国文化のちがいに興味をもった。
  タマヨには大陸インカ文明の伝統が現代ヨーロッパ文化に触発された民族的芸術であろう。しかしわがIとTの作品には何処か日本王朝期の装飾絵画のセン細と優美を見出した、Tは歌うが如く踊るが如くかろやかに……Iは荘重に幽玄の境地と云うか……
  タマヨの作品に関してはほぼ100%判ったがIの作品には判らない絵が何点もあった、一般に判らないと云うこと、個性的と混同されるがそれは違うようだ、彼と較ベタマヨの作品が客観的と云うことだろうか。  このあいだ数人の仲間と談合したが話題が西欧文化批判に及ぶと、Kがドレミファつまり西欧音楽の科学的思考が日本古来の音楽を駄目にしたと云う意味の発言をしたが、Iの作品について私はドレミファを問題にしたい。20年ほどパリに遊んだKのアカデミズム脱出は見事と云うほかはないが、私は未だにドレミファである。
  自由美術にも判り難い作品が数多く見られることだろうがその内容は多様である、しかし何処にもある判り切ったものは退屈かも知れない。
  キュビズムは今日でも難しい絵の代名詞になっているようだが、セザンヌを持ち出すまでもないが、探求の過程の困難と苦渋が時に判りにくい結果をもたらしたものであろうが、何よりそれは創造の魅力であろう。