2 : 自由美術協会史

1.「自由美術家協会」の創立から終戦まで(1937-1945)

a : 創立母体と長谷川三郎

自由美術協会の歴史は1937年の自由美術家協会の創立に始まる。
自由美術家協会は1937年2月に創立された。創立会員は長谷川三郎、浜口陽三、矢橋六郎、村井正誠、山口薫、津田正周、大津田正豊、荒井竜男、瑛九、小城基、藤岡昇で、会友に小野里利信、難波田龍起、清野恒、彫刻の植木茂がいた。また顧問制があり、顧問には今泉篤男、富永惣一、植村鷹千代、柳亮等がいた。

自由美術家協会創立の母体となったのは、長谷川、山口、矢橋、村井等が所属していた「新時代洋画展」、津田、清野恒、小野里利信、野原隆平等が所属していた「黒色洋画展」、難波田龍起、吉見庄助、大橋(誠)、戸田定が所属していた「フォルム」であるということができるが、リーダー的な役割を果たしたのは長谷川三郎であった。後の座談会によると、自由美術家協会創立当時は長谷川三郎の自宅が事務所になっていて、創立の動きの中心になっていたことを伝えている。

興味深いのは、彼は自由美術家協会展を公募にすることには、懐疑的であったということである。それは上野を拠点に美術活動をすることへの抵抗感と、既成団体に物足りない画家を結集するのにふさわしくない、という思いがあったのかもしれない。長谷川の「新時代展」はそうした雰囲気で生まれ、自由美術家協会創立に引き継がれたと座談会の出席者は述べている。

彼は東大の美学出身で東洋美術にも造詣が深く、制作と平行して、多くの著書を著しており、日本にアブストラクトを定着させた功労者でもあったといえる。彼はこの自由美術家協会の結成を、ひとつの運動ととらえており、あらゆる表現をクロスオーバーに結集して、純粋な表現と、同調者の切瑳琢磨を目指した。

後年、難波田龍起は長谷川を回想して、「第2の岡倉天心を期待していた」と述べている。

b : 周辺の若い画家たち

一方、この時代には、戦後大挙して自由美術家協会に入ってくることになる、個性的な若い画家達が活躍していた。1930年協会に出品していた井上長三郎、靉光、大野五郎、鶴岡政雄、森芳雄、山口薫等である。1930年協会の画家達の一部は、二科会に出品したり、1930年協会の終了(この会はそもそも1930年までの時限的な会であった)に代わって創立された、独立美術協会に出品したりしていた。これらの若手画家はやがて1943年の「新人画会」結成へと動いて行く。しかし、戦前の自由美術家協会にたいしては、そのサロン的雰囲気に馴染めなかったためか、山口薫、森芳雄以外は参加していない。

c : 第1回展から終戦まで

かくして自由美術家協会第一回展は7月10日から19日の間、上野の日本美術協会で公募展として開かれた。搬入総数675点、入選数49点、陳列総数161点という報告がある。相当な厳選である。

自由美術家協会あるいはその展覧会の性格、傾向については、設立趣意書のようなものは見当たらないが、創立時の規約草案と思われるものがあり、そこには「自由美術家協会は、抽象主義的傾向の絵画を中心にして同時代の絵画芸術を創造しようとするものである」と述べられている。また、顧問である植村鷹千代が「みずゑ」1937年8月号に載せた「自由美術家協会とは何か」という一文には、結成の動機として「現実の絵画界において、旧勢力の頑迷な抵抗と無理解のために、その成長と結合とを拒まれている新時代絵画の人的集大成を目的として作られたものである」と述べていることから推察できる。

展示種目は、規約にあるように、油絵、水彩(和、洋)、版画、コラージュ、フォトグラムに亘り、多彩であった。しかも同一人が各ジャンルに出品したところが面白い。

浜口陽三はフランスからの出品で、津田、大津田は第1回展には出品しなかったようである。

評判は賛否いろいろであったが、このとき長谷川は自由展にたいする誹誇、中傷に厳然と反論する(「諸“自由展“′への答」「美の国」昭和12年9月)。その容赦のない反批判から長谷川三郎、さらには自由美術協会の創立精神が垣間見られる。第1回展にたいする肯定的、好意的な批評にたいしては、「前衛的、先駆的或は革新的と目された芸術運動が斯様な好評に迎えられて出発することは・・我々のやった様な運動が、当然興さるべきものとして待望されていた事を物語るにすぎないと思う」と述べている。

このとき長谷川三郎の「蝶の軌跡」が出品されたが、彼の代表作ともいえるもので、戦前のアブストラクトの一つの到達点を示していると言ってもいいのではなかろうか。

d : 第2回展以後

創立の翌年1938年には第2回展を開き、津田正周、岩橋永遠等の新傾向の日本画が出品されてくる。第2回展については四宮潤一、滝口修造らの評があるが、なかなか好評である。滝口は今回の日本画の出品について「今年から日本画の作家も参加していることは、この会に新しい意義をプラスした」として個々の作品を批評したあと「率直にいうならば、いはゆる「新日本画」は、画壇的に清新な風を吹き送ったことの功績を認められなくてはならないが、もう一度それを止揚することが必要とされるであろう」とのべている(「アトリエ」昭和13年7月)。


1939年の第3回展では「自由美術」第1号を創刊する。編集後記には次のような発刊の弁が述べられている「今回機関雑誌として当パンフレットを発行しました事は、我々の仕事を見て戴く以外に、その精神的方面をも言論として、発表する意欲に外なりません。これによって芸術の精神的分野を検討、又拡大しながらより高き本質を極める事を希望しています」。会員は制作と平行して、芸術全般にわたって、熱っぽく論じたのである。

第1回展以降の自由展の会場の様子や一部会員の出品作は当時の美術雑誌に比較的広く紹介されたので、我々はその作品の傾向の一部を確認することができるが、ここではそれらの細部に立ち入ることはできない。

e : 戦時下の自由美術家協会

創立から終戦に至る自由美術家協会の活動は、軍事態勢を強める軍国主義国家の下での活動であった。自由美術家協会を創立した1937年は、日中戦争が開始された年であり、1938年の国家総動員法、1939年の徴用令、1941年の太平洋戦争へと続く軍国主義化の波は、美術界の上にも容赦なくのしかかってきていた。藤島武二、中村研一等の写実画の大家は、1938年から陸軍省委嘱で従軍して戦地の記録画の制作にかかわっている。自由美術家協会のメンバーの中からも従軍する者があり、出征する者もいた。

こうした中で、自由美術家協会は1940年の第4回展を開いたあと、7月に会の名前を「美術創作家協会」と改称する。改称挨拶は実にあっさりしたものである。改称の理由とか説明のたぐいは一切ない。その年に発行された「自由美術」第2号(これは新聞形式のわずか4頁のものである)にも改称に触れた記述はない。ただ、翌年に発行された「美術創作」第3号(「自由美術」から通算)の巻頭言は軍事体制に組み込まれた、おそろしくぎこちないものである。「真の銃後強化は国民の健全な精神生活にある。今や地球は新しく創られつつある。国家的重大転機に当たって、来るべき新日本文化の建設に吾々美術家は何を為すべきか?、、、、(後略)」創立時の主張からは、信じられないこの文章は、おそらく初めて自由美術が権力に迎合した文章であろう。

会の名称の変更について、後の美術史や内部記事では、「自由」という字がけしからんからという理由で変えさせられた、というような記述を目にするが、その経緯は明らかではない。当時の状況を考えれば、そのような軍部による干渉があったことは、十分に想像されることであるが、手懸かりになるような当時の資料はない。もう少し実体に迫りたい問題である。

この問題について森芳雄は次のように述べている。「美術創作と名を変えたときにも、インテリの弱さで、恐怖の方が先で、何の抵抗もなくこちらから名前を変えたのだ。その弱気が戦後にもひきつづいたのが、モダンアートに行った退会者の一因でもあるのだろう」(「自由美術の今と昔と」[自由美術]第11号)なかなか正直な発言であり、自由美術は被害者であったとばかりいうこともできないし、すすんでやったことでもないということだろうか。しかし戦時中反戦集団とみなされるのを恐れた者が、戦後は左翼とみなされることを恐れたという森芳雄の指摘はまことに辛辣である。

一方、独立美術協会から別れた美術文化協会の福沢一郎、評論家滝口修造は1941年、シュールレアリズムの関連で逮捕される。会の資料によると、自由美術家協会の長谷川三郎も官憲の取調べを受けたことを記録しており、美術界への官憲の関与は未調査の分野を残している。

f : 美術展覧会取扱要綱と公募展の中止

1943年10月、美術雑誌は統合され、「みずゑ」は「新美術」となるなどの動きの中、1944年には陸軍省情報局による「美術展覧会取扱要綱」により、すべての公募展は開催できなくなる。我々は今回この資料を入手したが、半紙半ページばかりの簡単な書面が、日本の団体美術を拘束してしまったのである。その文面はむしろソフトですらある。しかし為政者はこのように弾圧について強圧的な証拠は残さない。

自由美術家協会(美術創作家協会)はこの「要綱」が出された1944年の第8回展をもって戦前の展覧会を終了するが、この間、1944年4月7日には規約を改正し、「美術創作家協会規約」を発表する。顧問の規定がなくなり、代わって処罰規定が新設されている。会員、会友の不出品には「適当な処置」が加えられ、3年以上の不出品は除名となるというものである。評論の中には1940年代から美術創作家協会には具象絵画が増え、性格が代わったと指摘する者もある。

大戦は画家からも多くの戦死者を出したが、自由美術家協会会員からも数名の戦死者を出している。新人画会の靉光も終戦直後、上海にて死亡した。

2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤

2.戦後の活動(1945~)

g : 組織の再編と活発な制作活動

小人数の団体であった上に、年齢的にも若かった自由美術家協会が、戦争で受けた影響は大きかった。会員の個人的なレポートによると、会員のなかには戦死者も出ており、シベリア抑留からの未帰還者もいた。創立時のリーダー長谷川三郎は、戦前期の後半から東京を離れていて、再建を相談しようにも消息がつかめなかったようである。そのような状況の中で、1946年に一部関西会員により大阪にて第9回展、第10回展が開催され、機関誌「自由美術」第5号が発行された。

1947年の展覧会再建に向けて動いていた、森、難波田らは麻生三郎、井上長三郎らと出会い、急速に会員の拡大を実現する。そこに加わったのは、戦前の「新人画会」のメンバーであった井上長三郎、糸園和三郎、大野五郎、鶴岡政男、松本竣介等であった。これに二科、独立、美術文化などから多数が参加した。
集団が作られる動機は、大きくは、思想、信条が共通しなければならないが、人間関係によるところが大きい。戦後の大量入会は、戦前の「新人画会」の人間関係が強く働いた。そしてこの大量人会は会の性格を大きく変えていくことになる。
こうして1947年7月には第11回「自由美術家協会展」が、戦前の上野の東京美術協会に代わって、東京都美術館で開催される。この年から会友制度と賞制度を廃止し、規約を改正している。

1948年の再建第2回目の第12回自由美術家協会展には、6月に亡くなった松本竣介の遺作18点が特別陳列される。松本竣介と言えば、1941年「みづゑ」に「生きている画家」を発表し、先に「みづゑ」に発表された、軍部を交えた画家の戦争協力を語る座談会に抗し、戦後は画家の結集を意図して「全日本美術家に諮る」を提唱した画家として有名であるが、この時の遺作展について和井植男は次のように触れている。「松本竣介の遺作が18点並んでいるが圧倒的にいい。いい資質をもっていた人を死なして惜しいことだと思う。彼はかつて本誌に寄せた「生きている画家」の中で「私達若い画家が実に困難な生活環境の中にいてなお制作を中止しないという事はそれが一歩々々人間としての生成を意味しているからである。たとえ私が何事も完成しなかったとしても正しい系譜の筋として生きていたならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるであろう」と書いたが、未完成で死んだ彼の正しい意志をこの会の誰がうけついで伸展させるのだろうか。(中略)ずば抜けたものは見当たらないが、この会全体としてのとらわれていないアンデパンダン風?少し気がぬけてはいるが一な空気はやゝぼくの気持を明るくさせた」「みづゑ」(昭23年12月)
前年、賞を廃止したとあるが、この年野見山暁治、井上照子が協会賞をとっている。また、長谷川三郎は活発な執筆活動に入り、「みづゑ」(昭23年12月)に掲載の「新芸術」は優れた現代アメリカ美術の紹介に始まる、現代美術概観である。このあとたてつづけに美術書を出版する。

h : 一部会員の退会とモダンアート協会の結成

1950年8月、創立時の会員であった荒井龍男、村井正誠、山口薫、矢橋六郎、植木茂等は自由美術家協会を退会し、「モダンアート協会」を結成する。退会の理由は退会した側に聞くしかないが、伝聞等を総合すると戦後の民主化、平和、労働運動の高まりが、イデオロギー優先の作品となって自由展の会場を飾ったことは否定できないであろうし、自由美術の団体運営にそのような状況を反映した、民主化の論理が持ち込まれたことも想像に難くない。一方で急速に政治的な反動化がすすむ世の中で、純粋に絵のことにかかわろうとする者には、次第に居心地のわるさが増したのではなかろうか。しかし長谷川三郎は退会せず、1957年ニューヨークで客死するまで在籍しており、死亡の翌年の自由展では遺作が展示された。

i : 各種国際展、新聞社主催合同展の開催と自由美術の画家

戦後自由美術の作家たちの多くは、それぞれ独自の道を切り拓いている。それらは明治以降の日本の西洋絵画の流れや、1960年以降の現代美術の流れとは符号しないのがわかる。
彼等はそれぞれ独自の画風を、伸び伸びと展開している。マスコミに取り上げられる作家の背景に、多くの作家の同様の試みがなされ、彼等を生み出したといえる。

性急な明治の欧化政策は、ヨーロッパの思想、哲学、芸術をそのまま形式として模倣することを進めてきた。それによって価値ある新しい文化は整った形式として常にヨーロッパから発信されるものとして日本人の中に定着していった。戦後アメリカ美術の模倣を始めるまでの間、作家の精神が解き放される空間ができた。自由美術を中心とする一部の作家は、自己自身の存在の内に、鋭い追及の筆を持ったのである。そしてそれぞれが、独自の世界を展開することになった。

当時の批評が、ヨーロッパで熟成された油絵の表現様式をもって、理解しようとするものであったとするならば、戸惑いはあったかもしれないが、それを凌駕するだけのレアリティーがあったのは、事実である。
戦後の落ち着きを取り戻しつつあるこの頃から各種の国際展や新聞社主催の合同展が盛んに開かれるようになる。そしてこのころから、自由美術の画家による注目すべき作品が生まれる。最初に取り上げられたのは、鶴岡政男である。1949年の自由美術展に「夜の群像」を発表して注目を浴びた彼は,翌年戦後日本美術の屈指の名作といっていい「重い手」を発表する。

1949年、佐波甫により「鶴岡政男論」(みずゑS24年7月)としてすでに大きく取り上げられているが、佐波は鶴岡の戦中、戦後にわたる生活的、思想的な苦闘、遍歴に触れたあと「いまの鶴岡は主客の結びつきが渾然としており、前から連続のものが音楽的に、リズミカルに、奔放自由に、画面の次々に自己主張をやっている。その天才的な豊かな想像力が,弾力ある画面の一つ一つに新しい民衆の生活の楽しい歌を産んでいる。(中略)造形性の根づよい裏付けがあり、ノヴァ時代よりすばらしい発展をみせている。外国芸術の模倣ではない、日本の現実をくぐりぬけた芸術である。」と批評した。

一方、1950年の自由美術展に森芳雄は「二人」を発表する。これも「重い手」同様、戦後の日本美術を語るときに避けて通れない作品である。今泉篤男は「森芳雄論」(「みずゑ」S25年12月)で「この秋の自由美術の会場で「二人」を見た。私は久しい期待を、ようやく満すことが出来たような喜びで「二人」を見た。(中略)この画面に示されている大きく単純なうちに、きめの細かいニュアンスを持ったフォルムと、ゆったりした静かな空間の表情と、われわれの内触覚に重厚に響いて来る深々とした量感の表現は、現在の画壇に珍しい本格的な新鮮さだ。」と激賞した。

土方定一は「麻生三郎論」(みずゑS24年8月)で戦前の麻生三郎の絵を見た時の印象からときおこし、戦後の毎日連合展での印象とつなぎながら、近作の批評に及ぶ。その熱い視線は彼のなみなみならぬ資質に注がれていた。
こうして、自由美術の作家たちが注目を集めだすのは、決して偶然ではなく、自由美術という土壌とのかかわりを否定することはできないであろう。

j : 活発な宣伝・啓蒙活動

1951年には「自由美術」第8号を、海外向け紹介パンフレットとして全編フランス語で編集し、全会員作品を掲載している。用途・効果の面は不明だが、啓蒙的意欲はうかがえる。またこの年の「自由美術」第9号には、花田清輝ら近代文学同人との座談会「近代芸術の課題」が掲載されている。これは自由展開催に合わせて開いた研究会の記録であるが、短縮されているため詳しい状況はつかめないにしても、このような他分野との積極的な交流を考え、実行しえたのは自由美術ならではの感がある。その短い記録からでも、「私達は却ってモダニズムの反省を一歩進めて自由美術はやっているとみています」というなかなか本質をついた文学者からの発言があったりして、議論は結構噛み合っているようである。

ところで、1950年代の自由美術展の全体的雰囲気について触れたものがいくつかある。

「どの団体も複合的に、それぞれ、相矛盾する多様な傾向を内に抱えている。それらをシーズン全体の動きの上から縦断的に見て、縦につないでみると、だいたい三つぐらいの気流に色分けできるのではないかと思う。第1は、現実批判的傾向ともいうべきレアリズム型、第2は低回趣味や情緒的傾向を主とする自由なロマンチシズム型、第3は、技術上の方法論的立場を固執する広い意味でのアカデミズム型(様式中心主義)で、以上三つの中,第1のレアリズム型の気流が、この秋を特色づけて新しく上昇してきた気流である。(中略)このレアリズム型の気流は、独立や新制作にも若干認められたが、なかんずく自由美術にもっとも濃くつながっている」(柳亮、1954)

「新人層の自由な活動舞台としてのこの会の役割は、わからんではないし、他展に比しその実験的寛容さに一日の長があることは認めていい」(柳亮、1956)

「公募団体が無性格だということは、しばしば聞かされてきたし、また、わたしもいってきたことだった。しかし、自由美術は、まったくの無性格というのでもないような気がする。〈中略)今年の自由美術展は、多分に高尚で、しかも、かなり善意といったふうのものがただよっていたような感じがした。」(福島繁太郎、柳亮、中原佑介1958)

「秋の第三陣「自由」「第二紀」「独立」の比較では、時代の反技術主義的徴候を,いちばん露骨にうち出しているのは「自由美術」であり、それに強い抵抗を示しているのは「独立」である。」(柳亮(「みずゑ」1957年12月)

k : 安保闘争等反戦行動

一方、政治的状況に目を転ずれば、1960年は、戦後の独立とワンセットで締結した、日米安保条約の最初の改定期を迎えていた。この安保改定反対運動は日本の民主勢力に止まらず、国民的拡がりをみせていた。自由美術協家協会も、デモに参加するなどこれらの動きに共同する行動をとった。また「自由美術」誌、第18号に「安保条約改定について」という自由美術家協会決議を掲載し、安保条約に反対するパンフレットを発行するなどの行動を行った。

1969年の5月展は「反戦展」として開催され、公開研究会(講師、武谷三男)を開いている。

こうした政治、戦争にからんだ企画や発言は、その後も折に触れて「自由美術」誌上に登場する。

l : 難波田等の退会と第二次大量退会

1960年には難波田竜起、小山田二郎等の退会があり、朝鮮出身の曹良奎が帰国するなどの組織上の変化がある。この退会について江原順が次のように書いている。「退会の理由には、事務的な事柄や若干の感情問題もふくまれているであろうが、基本的には、井上長三郎、麻生三郎などの創作方法についての考え方と、前記の作家の考え方の対立が、大きな原因になっているとおもわれる。だからわたしは、この退会、分裂現象を歓迎する。恐らく現在の美術団体のなかで、多少とも美学上の問題をふまえて、離散集合が行われる例はみられなくなっているからである。この会だけがまだ会員のなかに意識される原理らしきものをもっている、それは証左だからである。本来集団というものは、それをなりたたせる固有の原理によって成立するものである。その意味でほとんどの既成団体は、集団としての性格も機能も欠いているのである。」(「みずゑ」1960年12月)なかなか踏み込んだ批評である。しかしこのあと間もなく、さらに大量の退会者を出すことになる。それは江原が言うような水準の分裂であったかどうか。

1964年8月には、38名の会員が声明書を出して、退会するという事態を迎える。最大の理由は、表面上は会員が会員の作品を審査する、いわゆる「会員審査」にあったといわれている。

退会者の大部分は「主体美術協会」を結成する。残留会員は「自由美術協会」と会の名称を改めて、活動を持続する。

m : 組織改正と地方からの風

新組織になって、自由美術協会は「自由美術賞」(1964)、「靉光賞」(1966)、「平和賞」(1968)を設ける。また1966年から1989年まで、展覧会にテーマが設けられる。「今日の表現」「今日の証言」「不安」「人間」「非体制」「狂気の記録」「反寓話」「不条理」等である。これはその2年前から「5月展」(例年5月に東京都美術館で開催された、自由美術協会の選抜展)において採用されていたものであるが、これを秋の本展に取り入れたものである。最初に「今日の表現」というテーマを採用した時、次のような文章が掲載されている。「本年の展覧会は「今日の表現」?ヒューマニズムと反ヒューマニズムというタイトルを掲げましたが、別にテーマ制作を行ったわけではなく、年来我々が追求してきたところの方向と態度はいささかも変わらないのであります。ただ現在の太平ムードに中ではややもすると、厳しい現実に対する意識がうすれ、安易な技術主義に落ちいりがちです。「今日の表現」と特に銘打ったのは、そのような画壇の風潮にたいする自戒と考えていただければ結構と思います」

このようにテーマの主旨説明は時々なされていて、その時の状況に合わせた問題提起がなされている。こうした試みも、展覧会の開催、あるいは各個人の制作を社会的にまたは対外的に位置付ける視点を、絶えず求めてきた表れであるということができる。

美術団体は活動の中心を東京に置いていた。自由美術も東京に全作品が集められ、展覧会が行われる。そして、作品そのものや、絵に対する考え方が、地方活動として各地域に分散してゆくという、中央発信型の情報構造を持っていた、自由美術においては、戦後からの地道な活動により、少しづつその厚みを増し、ある時点より運動体として一地域が動き出し、メッセージを発信する時が来る。特に東北地方の研究誌「凍土」の誌上においては、地域に根ざした新しい芸術活動の興隆を宣言した。そして活発な研究、創作活動が展開された。そのうねりは、自由美術の各地域を刺激するものであった。

この活動により、同じ地域で活動する作家のそれぞれが、独自の芸術観を育て、互いにより自由に制作に取り組み、結果として真の精神的自由を獲得できたことは、大きな成果であった。

このころ、国際協力も盛んになり、1965年には日中青年友好祭に久田弘が参加して訪中し、1968年には、第9回世界青年学生平和友好祭に、伊藤博、川上十郎、にしおかひろしを派遣する。1971年にはポーランドより対外文化交流会に、美術家の派遣の要請があり、井上リラ、佐々木正芳、丸山武男を派遣している。

n : 世代交代と運動の継承

1980年代になると、会員の世代交代も進み、1979年の鶴岡政男の死、1995年の井上長三郎の死により、戦前から画家として活動していた会員はほとんどいなくなった。鶴岡は晩年必ずしも自由美術展に出品していたわけではないが、井上との人間関係から自由美術に在籍していた。こうした世代交代で、画家としての戦時体験を、制作のモチーフに内在させるというスタイルは、自由美術からはなくなるということになる。時の推移は、出品作から制作のモチーフを淘汰する。モチーフは厳密には画家個人の中で淘汰されつづけることではあるが、時代を生きた体験は、簡単にはモチーフと無縁になることはないであろう。

ベテランの退陣は自由美術協会に静かに変化を齎すだろう。問われるのは、我々の制作である。生き方であれ、モチーフであれ、表れ方はいろいろであるが、作品として集約されたものの集積である、展覧会のありかたが問われることであろう。1990年代の活動については、進行中のことであり、ほとんどここでは触れていない。

2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤

3.自由美術の作家の制作を支えた問題意識(まとめにかえて)

戦後の自由美術を支えていたもの、そしてそれ以降も自由美術の作家の制作に対する思考の底に横たわるもの、それは人間尊重の強い意志ではないだろうか。地球上の如何なる人であろうとも、人として大切にされなければならない、とりわけ社会的弱者が、人間として尊重されなければならないという、人間愛ではなかろうか。戦争体験世代は直接にせよ、間接にせよ戦争に係わり、苦難の時を経ている。その体験は両刃の剣として自己を苛みつづけ、真の平和を希求する使途へと駆り立てたといえる。総べての人の幸福を願うこと、或いは願い続けることが、作家活動を続けることと重なりあっていたのである。

自由美術らしさということがいわれる。いいかえれば自由美術の画家はそれぞれにこだわりをもって描いてきた。そのこだわりとは何だったのだろうか。

一つは戦争意識・反戦意識であると言っていいだろう。体験的に戦争を味わったものは、それが戦地であれ、内地であれ、意識するとしないとにかかわらず、その体験が制作に影響をあたえている。浜田知明は「初年兵哀歌」という一連の作品を1951年の自由展に初出品する。井上長三郎の場合は戦犯を送る「葬送」から、「ベトナム」、「光州」へと戦争のテーマは続く。このような直接的な方法でなくとも、松本竣介の風景や麻生三郎の人物に戦争がないとはいえない。佐波甫は「鶴岡政男論」(「みずゑ」昭和24年7月)において「25歳頃から一貫する鶴岡の世界観は戦争絶対反対で更に特色づけられる。」と述べている。あの名作「重い手」が生まれる前年の批評である。自由美術の画家からこのテーマと関連する画家を選ぶとすれば、枚挙に暇がない。なぜなら少なくとも戦後の一定の時期までは、自由美術全体に流れる底流であるからである。自由美術以外の画家ももちろん戦争を制作に引きずった。しかし自由美術ではそれを集団的に、内在的に長くひきずった。それは次のテーマと密接にからんでいる。

二つ目のテーマは反権力・反体制である。これは対政治に限らず、美術界においても対官展、対旧体制画壇を創立以来標傍してきたものである。あるときは組織的に、あるときはアナーキーに権力に対抗した。政治的には上の反戦のテーマと密接に絡むが、対画壇的には古くは創立時の規約の文言に始まり、時々の主張に現れている。1950年の「自由美術」第7号に掲載された「主張と活動」には「自由美術家協会はその名の示す如く自由な純粋な芸術意欲によって結集された若い進歩的な美術家の団体です。兎角日本の美術団体にみられるような因習的な束縛や派閥的な差別から脱し、各自が十分その実力を発揮し得る競争の場を作ることが、我々の目的であると共にそれが美術の発展に寄与する所以であると信じます。」とある。

これは三つ目のテーマである、各個人の自由な創作と独自性の確保という、直接的で基本的なテーマと不可分である。戦後間もない頃の自由美術について柳亮は「自由美術はジェネレーションも若く、そのアンデパンダン的ルーズさや雑駁さは却ってこの会の魅力だが、多様な才能の発芽を擁しながら、それをきびしく練成しつつ培養してゆく土壌としての気概に乏しい。」(柳亮「みずゑ」昭和24年12月)と批評した。

これは批判ではなくて、自由美術にたいする強い期待の表現であった。アンデパンダン的ルーズさや雑駁さのなかで、画家はそれぞれ苦闘してゆかねばならず、それは画家個人個人に課せられた孤独な作業である。

今日、最初のテーマである反戦意識は、太平洋戦争との関連では希薄になったというか、望めなくなった。それは時代の推移で止むを得ないことである。しかし問題は普遍的になった。人間存在のあらゆる分野にわたって、人間存在を否定する条件が浸透し、蔓延している。そういう状況の中で制作するということを、どう意識するのか。あるいはしないのか。藤林叡三は晩年通勤電車の中や、街景を描いた。その試行錯誤に何かのメッセージはないのか。かつて先人がいだいたこだわり、それゆえに生み出した証言としての作品、これらが問い掛けてくるものを感知するところから、我々はこの自由美術協会を引き受けていかなければならない。

2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤

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