エッセー自由美術

その頃のこと

伊藤和子
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          「重い荷」
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 「ボタ山への道」
 

その頃のこと I
絵で生きる厳しさも知らず、面白さのままに、中2の時誘われて絵の会へ。その時そろえた油絵のセットは晴れがましく得意でした。準備室の棚には美術書が並び、ダヴィンチやレンブラント、ゴヤそしてマテス、ピカソを知ることが出来ました。反対もなく賑やかに楽しみました。
新しく女子美より赴任されたばかりの先生、そのお友達の赤松俊子さん、堀文子さん等の元気な姿や作品を紹介して頂けたのも幸せでした。
女子美術・洋画部へ入学、教室の窓は爆風除けの大いテープが貼られ学徒出陣も身近でした。デッサンや授業課目と週交替に動員先の工場へ、旋盤や研磨の荒い作業につきました。未熟さはやがて虚しさとして重なり、無口になります。家で6ツ目のある顔を描いても広がらず潰します。
通学の道すがら、持っている絵の具箱がみつかると非国民と声を荒げて指摘です。食糧は日を追って入手困難に、気力落ち体力も弱りです。未完成の今の環七を走る車も無いまま道巾の中央を歩いて帰りました。終戦の宵、暗幕をはずした時の明るさ、まぶしさは生涯の記憶です。

その頃のこと Ⅱ
戦争は終った。翌年の8月、再開3日目の倉敷美術館は、明るく静かだった。女子美術洋画部2年の夏休み、初めて稼いだ僅かな画料を手に、親戚、友人をたのみの1人旅―本ものが見たいゴーガンの肖像がある。
瀬戸内の海辺、オリーブの丘の重なり、姫路城も高く白鷺の翼を開き、美術館も木洩れ日に揺れておおらかにある。戦争が夢のような…。
沖縄や広島・長崎と大都会の無惨な瓦礫、生き残った者の懸命な職(食)探し、その東京へ帰った。親の工面も限界にあり、体力も消える。気持ちは決まった。女子美は止め3年修了とする。新しい社会を学校にしよう。環境の変化に意欲が湧く。社会はすごい速さで変わって行った。女性問題も表に出て変わった。組合が出来て、安いなりに守られた。絵の具も買った。映画も立見にめげず、よく通った。新しい波が若いエネルギーが柵を越えてあふれる。第2回日本アンデパンダン展に出品。第14回自由美術協会展にも入選した。作品は私小説にしたくないので、常磐炭坑経を地下800mにまで行き、ボタ山、迸炭櫓などをルポルタージュして新しいテーマに求めた。担ぎ屋とか洗濯の人などの生活もテーマに求めた。安保の直前頃ではあった。

その頃のこと Ⅲ
こうした時の流れは速く、私の中に描きたい気持が湧き出して、伝えられるままに、第2回アンデパンダン展へ出品し、その芽生えをさらに、第14回自由美術協会展へと出品、入選を叶えた。
初めての専門画家集団の集まりは煙草の煙立ちこめて、男社会の設立時の熱気が重くあるけれど、会話が伝わる訳もなく手続きをとるのがやっと、作品を探す会場も初めて知る作風ばかり、でも嘘のない自身のフォルムがしっかりとある会場の人間性に嘘はなかった。意慾と思い込みで続けた。
新しい道が開けたような、時も安保粉砕の頃、会と共にデモに殆ど連日通った。仕事はテレビや出版大手に喰われて乏しく、次の段取りを探すことになり温室の幸運は去る。
美術学校は活気があったが、団体展も出品者、地方展での発展が増し、主体展との別れ、会員審査の苦汁と問題が起きた。美術サロンでも確執は起る。ユニークな個性は年月の中できたえられ育つ。主体美術との別れ、安保の記憶、会員審査もユニークな会史。
次の仕事を探すことが多くなった。業界全体が大手に移り、大資本化に変わリガ争社会をあおる。ルーマニア行で芸術、絵画は育ちにくいことを知る。学ぶことの多い現在ではある。