エッセー自由美術

思い出の記 −麻生三郎先生のこと−

福田篤

自由美術本展2015_img_34_1.jpg
「ある群像2」

京都の三条寺町にあるギャラリーヒルゲートで四月小西さんの個展が催された一、二階共に軽妙な力作でうめられていた。この画廊で前の月に野見山暁治展があり作家のギャラリートークもあった。私は街で偶然チラシを見て知った。そのチラシの画歴には、1943 年東京美術学校卒業、応召の後病を患い1945 年福岡の療養所で終戦を迎える。1948年病が治り、再び上京。自由美術家協会に出品、受賞し会員となる。この頃の自由美術には若く個性的な作家が集い、鶴岡政男、麻生三郎、難波田龍起、寺田政明など池袋モンパルナスの住人だった先輩たちや山口薫等が芸術論を闘わせていたこと等が記されている。

野見山氏のチラシを読みながら、同時に麻生三郎氏の葬儀の日の状景が頭に浮かんだ。葬儀場は多摩丘陵のある丘の上だった。終わっての帰り道、見下ろすと一本の桜の木が満開だった。黒い服の人達が駅に向かって坂道を歩いていた。平坦な道に出た時後ろから声をかけられた、斉藤礼子さん、大野五郎氏、野見山暁治氏だった。「その辺で一杯飲んでいこう」と云う、躊躇したが「用事がありますので失礼します。」と誘いを断わったが用事は無かった。私の人見知りであった。残念な気持ちが残った為か、今でも忘れたら良いのに忘れていない。

麻生三郎氏の葬儀に行ったのは自由美術のつながりではなく、私の学生の時の先生であり、又私が卒業六年目にそこの講師となったことで麻生先生が辞められる迄長いこと先輩の先生として尊敬し慕っていたからである。

先生は武蔵美を辞められてからの方が良く学校(日大芸術学部)に来られた様に思う。私は自分が学生の時以上に麻生三郎という画家の言葉に注目していた。学生の作品の講評は数人の教師の合評形式で行われた。麻生先生は他の教師よりも発言が少なかった、ある絵の形の表現について、物を描くということはと云って近くにあった茶わんを手にとり「この外側の形を描くわけだが同時にこの内側の形も描いていることになる、外の形を美しく描くのと同時に内側の形も美しくなければならないのだ」と云われていた。絵画に於ける空間とフォルム、フォルムとフォルムの関係について話された、学生がどこ迄理解できたかは知らないが脇で聞いていた私は大いに感心してしまったのだ。

又麻生先生は自由美術については退会後語らないという強い意志を持っていた様だが、私に対しては自由美術のことを話題にすることもあった。井上長三郎氏のことさえ元気にしているの?と尋ねられたこともあったが、逆に井上氏からも麻生元気なの?と聞かれたこともあり、妙な気持ちになったことを憶えている。

私が絵を描こうと思うきっかけは山口薫の作品を見たことから始まるが、高校の美術部に入ったらそこには「みづえ」が揃って置いてあり、かつての自由美術の作家達が大々的に掲載されていた。戦後のスターが集まって団体を成していたと言っても良い程である。戦中戦後の美術のうねりとなった作家集団を麻生三郎氏に焦点を当てながら大谷省吾氏と牧野研一郎氏が「麻生三郎展覧会カタログ」で書いている。

自由美術本展2015_img_30_1.jpg
井上長三郎:「屠場(屠殺場)」                           靉光:「眼のある風景」

自由美術の創立期は迫り来る戦争、言論弾圧、戦火に追われる時、そして日本人が“人”にかえる時、これ等の苦難の時代をそれ等の若い画家達が正面から生き抜こうと必死で制作した作品群が戦後自由美術を生み出すマグマ溜りを形成したのだろうことが麻生三郎個展カタログから推測される。「人が生きる」という現実を凝視するときにしかできない強力なレアリズムがある。松本竣介、靉光、鶴岡政男、井上長三郎、麻生三郎などの1930 年代の抵抗の絵画と云える作品群、特に「屠場(井上)」「眼のある風景(靉光)」「馬と人(麻生)」など超現実的手法をとって抵抗を示すと共に当時の異常な現状を表わす有効な手法でもあったのだろう。しかしこの表現の試みと人間的な叫びは後々意味をもった大きな運動として拡がりを持つことになる。それは戦後自由美術を舞台に活躍した作家達を見ると明らかである。

ここで注目に値するのは超現実主義の手法をとりながら表現の甘美さや浅薄な技術主義の対極に位置する造形方式をとる主体的な動機による芸術活動であることによって、創造力のマグマ溜りを作ったのだろう。又その延長線上に立ち続け人間にこだわり続け、時代の変化を受入れながらも常に原点にこだわり続けたのが麻生三郎だと云えるだろう。

自由美術本展2015_img_31_1.jpg明治以降の油絵の歴史は西欧に学ぶ歴史である。技法を学ぶことを越えて進歩的思考や知的構造主義や政治制度までも含めて近代の模範として取り入れるべきとの高い評価をしてきた。従って多くの美術運動は西欧のイズムに選別される。そうした直輸入の模倣芸術運動が創造的動機が無いまま時代を背負うという後進的特徴を示している。そうした日本油絵史の中で自由美術にかかわった画家を含め戦後のヒューマニズムを基底に置いた作品群は西欧美術のイズムに整理し得ない独自の絵画を生み出した特異な時代といえる。麻生三郎氏がヨーロッパを知らなかった訳ではない実存にこだわる初期の作品は明らかにヨーロッパの影響は強い。麻生三郎は1938 年にパリについて「伝統が生きている古典が実感を透して分かる……クラシズムという生活の強みをあちこちで観せられた」とギリシャ、ローマから続く伝統の力に圧倒されていた様だ。フィレンツェでマサッチオ、アッシジではジォットやチマブーヱの壁画を見て「幸福の絶頂にある」と記している。

ヨーロッパ礼賛の麻生氏であったが、福沢一郎を中心にした美術文化に出品した作品について土方定一は「シュールとは少しも親和感がない」と云い滝口修造は「意欲は感じられるが病的な熱っぽさが興味とも危惧ともとれるのは…」と云い美術批評の評論にまとめきれない得体の知れない熱情を画面から感じていたことが読み取れる。この直後福沢一郎と滝口修造は治安維持法で検挙され出品作は検閲が行われる様になった。

1943年麻生、靉光、寺田、糸園、井上、大野、鶴岡、松本(竣)は八名で新人画会を結成した。麻生三郎は、「人間の生命力を否定される様な状況から人間としての最少限の自己主張をしたいという仲間の気持が自然と集まった」と後に語っている。このメンバーが戦後美術の大きな役割を果たしてゆくことになるのである。

自由美術本展2015_img_32_1.jpg1930 年からの20 年は世界の危機を迎えた頃であり大変動期である。日本に於いては当時国として国家総動員法、大政翼賛会と破滅に向かい最後は日本全土を焼き尽した。そして戦後の米軍による価値の転換である。その変動期を制作で生き抜こうとしたのが前述の作家達であった。そうした状況の中で生きていたことを考えると麻生三郎の一連の自画像に特徴的に表われている実存の主張が理解できる。そして特に目をひくのは対象を凝視して刻み出した様な実存感と視線である。その視線を発信させている脳と感情の高まりと同時に見つめられている対象の異常性や権威や忌避すべき事物が描かれている。つまり見るものと見られているものを同時に描いているのである。

我々生あるものが自己の存在を凝視する時、生の現実の裏側には常に死がありその向こうには無限の深い空間が横たわっているが、その当時は凝視する以前に死のテーブルの上に生が成り立っていたとも言える状況だったのではないだろうか。麻生三郎は太平洋美術学校を退学した頃「かなり強い自発的な絵画についての考え方が発酵していた。この時思いつづけていたことは生活の重みと絵画とのかかわりであった。一つは画面に即した質のものと、そして生き物としてレアルでなまなましい質のものとの対立をもって仕事を……」(自然への問いかけ、自然からの問いかけ)葛藤の繰り返しによって精神と肉体の奥底に沈殿して創作のエネルギーのマグマ溜りがより強固になっていったのだと思う。そして又靉光の馬の絵を見た時の回想の中で「……戦争のなかで青年期をすごした、生死の切実な体験が鮮明であったその体験はそのまま知らぬうちに絵画思考の底部にへばりついている」と振り返っている。

この言葉の中にやや形を変えながらも人の存在とその生命の実存感と無への予感を漂わせ続けた原点を見た様な気がする。

自由美術本展2015_img_33_1.jpg或る時、麻生先生が一人で学生のアトリエに指導に行って「ガラスが割れているのはあそこです」と学生が麻生先生に指さしてガラスの割れている窓を教えたということがあった。つまり麻生先生はガラス屋と間違われたのだ。同年代の他の先生ならば誰が行っても学生は間違えることなく「絵を見て下さい」と云ったはずである。服装や態度で芸術家であるアピールや普通の人で無い意志表示をする例は多い。麻生先生は絵に於いての主張は極めて強いが日常的なことに対しては違っていたのだろう。

「絵画ブーム」と云って絵の具がついていれば絵が売れると言われる程狂った時代があった。私の様な者でも個展をしていると画商と称する人がきて「先生の絵を是非私共に」などと個展の二週間の内に二人来た程、世の中はどうかしていた。その頃麻生先生は一点も売らない展覧会というのを開いた。一部報道されたと思うが、個展会場に行ってみると大作と中位の作品で会場狭ましと力作が並んでいた。麻生先生は気のせいか、自作の展覧会にしては御機嫌な様子で「ヤー、ありがとう、どう−。」などと言い暫く話してくれた。何かいつもとちょっと違うなぁと感じたが、骨のあるところを見せてさすが麻生先生だと思った。この展覧会を見に行く様、勧めたのは独立の古手の会員の先生だった。

追記  麻生芸術を語るには、私には荷が重すぎます。あくまでも私がお世話になり、又尊敬する作家として書いてみました。当然若い時の自由美術や周辺の人達との創作を通しての関係にも少しふれました。文の内容によって麻生先生作家としては麻生三郎と書き分けました。