心に残った作品−自由美術の今後

光 山   茂
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「突然の非日常 2016」                     光山 茂

1、私が自由美術にかかわったわけ

私が自由美術展に初出品したのは1965年、アメリカの世界戦略の一環としてのベトナム支配は、解放戦線の激しい抵抗にあってもがいた末の北爆が開始された時期だった。当時、自由美術協会は五月展というのを東京都美術館裏手を会場にして開催されていた。1968年五月展のテーマ「不安」展開催中にベトナム反戦デモが企画された。全員が骸骨の仮面をつけジョンソン(当時の米大統領)の似顔絵をひきづって80余名、上野から日比谷公園まで黙々と歩き激動する社会への美術家らしいアッピールとして私の心をとらえた。沖縄返還闘争も激しくなっていた。これらの時代を反映した私の作品は人間の土地シリーズとして描き本展で2年連続佳作作家賞をいただいた。絵画は現実に背を向けて耽美的な世界に浸るものではないということを美術史学で渡辺華山を研究してきた私の姿勢が合致し自由美術の潮流にのれると確信した遠い過去が、今回の企画でかなりはっきりとよみがえってきた。

2、記憶に残る自由美術展の作家と作品

私は自由美術80年史のうち少なくとも後半の50年はかかわっている。その間の心に残る作者と作品群を確とした資料に因らずに回顧してみたい。

出品して間もなく出会ったのが西八郎(以下敬称略)の「日蔭の風景」である。広漠たる大地で顔のない人間群が二手に別れて争っているかのごとき悍ましさがみなぎっている作品である。国籍不明のようだが古典絵画の餓鬼草子を連想し、かつ戦争の理不尽さを告発したゴヤの世界を感じ取れた。その卓抜した描写力は他の団体展のどこにも見られない凄みを感じた。1968年に制定された平和賞を最初に受賞したのが川上茂昭の「エスカレーター」その後20年後ほどして描いた「門」も忘れ難い。というより私の制作を支えた精神的バックボーンとなっていった。受賞作は戦闘機の胴体らしきところにエスカレーターが伸びその頂上に髑髏らしきものがあり途中には弾痕がある。反戦的であるが決して政治的なプロパガンダには陥っていないリアリティのある作品であった。この作品から受けた衝撃は私の脳みそをかきむしっていった忘れ難い作品である。いつのころか失念したが「自由美術展には売り絵など一つもない。だからこの会が好きなのだ」といった文章を上野省策が書いているのを記憶している。

森本仁平のベトナム難民家族が顔だけ出して川をわたっている作品、白水興承の白骨累々の作品は人の心を打ちはするが応接間には飾りたくはないだろう。まさに上野氏の言葉を地で行った作品と言えよう。

現実風刺と暴力、権力の横暴を告発して止まなかった佐々木正芳のハゲ頭の集団「派閥」や高度成長からくる乱開発を告発した作品群も忘れ難い。横尾茂の晩年の大作「悪夢9・11」にみる現実への問いかけの大きさも輝いていた。

自由美術の作家を論ずるとき井上長三郎、鶴岡政雄を落とす訳にはいかない。「毒舌のなかに合理的な知性があって一筋縄では捕らえられない魅力をそなえている」と彼の作品を端的に言い当てたのは評論家、針生一郎だった。1965年のヴェトナム、’69年の「白い椅子」などは権力の横暴を独特なスタイルで語りかける。鶴岡政雄は人間の生きざまを深く追及していたと言えるのではないか。私か出品しているころは「重い手」のもつ社会現実の息苦しさの告発から抜け出して軽妙洒脱の作風に転じていた。

事でなくて物を描くとはかれの年来の主張である。これは画家が生きている現実そのものに迫らなけれぱならないいうことであり、常にリアリストであり続けたのだと思う。

私の友人の一人が自由展で、「西洋たんぽぽを持てる少女」の前で立ちすくんでやがて、そこに座して動けなくなったというエピソードは終生忘れ難い。友人は美術については全くの素人。少女を取り巻く果てしない深々とした空間に酔いしれたという。藤沢喬の作品である。

1970年代と記憶しているが藤林叡三の描いた深い皺と体を小さく丸めたおそらく母親をモデルにした作品も忘れ難い。

太平洋戦争の悲惨さに対する風化が進む中で描かれた井上肇の軍服、ヒロシマの惨禍を静かに語りかけた有村真鉄の作品も胸を打つ不朽の作品であった。

3、自由美術のオリジナリティ、存在価値とはなにか

以上、50年余にかかわってきた作品を通して見えて来たものとはなにか。どなたも己が生きている時代に対して、敏感に反応している作品を生み出していることである。しかもその作品が反体制、反権力であろうがなかろうがその根底にあるのはヒュマニティを宿したリアリティの追及ではなかったのか。従ってこれら自由美術の作品は耽美的な世界、造形性を追及するだけでなく時代の証人であり、作家の生きた軌跡を示すものであり、第2次大戦後の激動の日本の「暗黒と光芒」(1981年東京都美術館企画展のタイトル)の作家群の後に輩出したこれまであげた作家群がつながっていくのである。

従って自由美術にはシュウルリアリズムや幻想を追い求める作品はいまだかって存在しなかったといえよう。と同時にこれらの作家は美術市場やアメリカを初めとして海外から流入するイズムに右往左往していないという側面も忘れてはならない。

4、自由美術協会と今後の在り方

自由美術をひとくくりに論ずることは確かに至難のわざである。ただひとつ言い切る事ができるとしたら時流に流されない作家群が色あせる事なく輝いていることであろう。ヨーロッパからやってきたアンフォルメル、ニューヨーク・スクールに端を発しての抽象表現主義などに日本中の画家が飲み込まれた時期があった。抽象でなければ絵画にあらじという風潮が我が国を支配した時期もあった。しかし自由美術の先駆者たち、オノサトトシノブ、小野木学、難破田龍起、池田一末など思いつくままの抽象作家は己の美意識をいささかも曲げる事なく探求を続けた。

さて凡庸な画家の拙文はこれ以上続けても説得力を失うので止めることにするが自由美術の今後についてどうしても述べたいことある。

美術はつまるところ自己主張、自らの創造性の発揮である。したがってオリジナリティが作品の生命線であるはずである。それを支える技術の開発も不可欠である。現実はどうか。この会の傾向や雰囲気にのみこまれた作品が多すぎるのではないか。このままでは日展と変わらない親方日の丸的団体に成り下がってしまうのではないか。会に合わせた作品を作るのではなくそこを乗り越えようとする意欲、エネルギーこそ求められるのではないか。

最終的に団体は切磋琢磨する場であって寄り添いあって傷をなめ合う場ではない。自らの生きざまを磨き、時代の風を全身で受け止めることを座標軸の横にオリジナリティの追及と己を表出する技術の粋を究める努力を縦軸にすえて作画すべきなのではないか。これらをわたし自身にも問いかけながら明日への自由美術協会を考えたい。

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