新たな一歩を探す

長谷部  昇
 

前々から是非とも行ってみたいと思っていた展覧会めざして1月下旬にやっと上京した。それは、下記の企画展。

「プラド美術館展」・・・三菱一号館美術館
      (‘15・10/10〜'16・1/31)

「レオナルド・デ・ヴィンチ」・・・江戸東京博物館
      (‘16・1/16〜‘16・4/10)

「ボッティチェリ展」・・・東京都美術館
      (‘16・1/16〜‘16・4/3)

今回の企画展に展示されていた作品の中には以前私が美術館で直に目にしようとスペインやイタリーに旅をして現地で感銘したことがあるものなども含まれていた。そして、この企画展はこれまで私がめざしてきた方向を改めて確かめる貴重な機会にもなった。その中で、画家1人ひとりが生きたそれぞれの時代にあって何を考えていたのか、何を訴えようとしていたのか等を改めて追求してみたいとも考えてみた。そんな時、時代や社会の様相はどんどん変わっているのに、人間自身の本質はほとんど変わっていないのではないか・・・ということを考えてしまった。

さらに、3日間の滞在期間に私自身がこれまであまり気にしなかったことをも考えてみた。それは、昨今の死亡事故の暗い報道のこと。例えば、「生まれたばかりの吾子わ、泣き止まないからと殴り殺した父親」、「児童相談所に助けを求めてかけ込んだ少年に同所職員が、親と一緒に来るようにと対応したために少年は結局死んでしまった」さらには「施設の窓から福祉施設職員に投げ捨てられた入所老人が死亡した」・・・等々のニュース。常識的にこれまでは誰も考えもしなかったこのような暗いニュース。これらの背景にはあの「東日本大震災 3・11事故」発生以後のすさんだような世情の存在を指摘する人もいるといわれている。そのことが、上記のような死亡事故の加害の立場になった人物が人としての責務を忘れて単なる形式としての立場以外は何も考えられない、判断しない行為をしてしまったのではないだろうかと思ってみる。

前述の、ヒエロニムス・ボスやエル・グレコの人間の奥底にひそむドロドロを表した世界、レオナルド・ダ・ヴィンチの油彩画や手稿に見られる知的で篤い作品群、あるいは新しい時代の人間の精神やその姿を表したボッティチェリの作品をゆっくりと目の当たりにし「私は1人の人間として何ができるのか、何をしているのか」・・・と自問してみた。

個人的なことになるが、私は1939年山形県の酒田で生まれ、学生時代の1960年に自由美術展に初出品し入選した。あの頃は、「アンポ闘争」の真っ只中。若者たちは、誰もが全国的な渦のエネルギーにまみれながら怒ったり、苦しんだり、悲しんだりした。そして、特定の為政者が自分の歴史観だけで国を治めようとする姿勢に若者たちは本能的に不信感を抱き、失望したのだった。そんな状況下で描いた作品が入選した。私にとっては、この時が表現活動のスタートでもあった。

ところで、私が自由美術について考えを巡らす時、2002年発行の「自由美術協会史」がベースとなる。

この協会史の中に「1937年 第1回自由美術展開催」とある。この年は、日本がドス黒い激動の状況にのめり込むスタートの年でもある。即ち、自由美術のスタートに参画した先人たちは、迫りくる暗雲や不安の心情あるいは不条理な状況等に絵をもって闘い挑んだ集団のメンバーということになる。やがて、原爆投下、敗戦、その後の混乱の中での団体展の復活。自由美術展で発表される作品はそれぞれ制作者自身の主張であると同時に混乱した社会の中で生きる人々の声を的確に代弁するという重要な役割を担っていた。上野公園の都立美術館は多くの美術団体の発表の場として多くの国民とともにあった。

その後、同じ場所に改装・新築された施設は都美術館となり、さまざまな事情から多くの美術団体は作品発表の場を現在の国立新美術館に移した。

一つの事項について経緯(時間の流れ)として捉えようとする時、私たちは[過去・現在・未来]という言葉をセットとして用いることがある。

自由美術協会のこれまでの動向をこの言葉に当てはめると、第1回展から上野公園の都立美術館における団体展発表の時期までを「過去」、国立新美術館での団体展発表のスタートからが「現在」となるのではないだろうか。「過去」の時期に共通するのは、自由美術に参加・出品しようとする1人ひとりが社会の不条理に怒り、それを強いメッセージとして広く社会全体に訴えようとする姿勢とそのメッセージを確かに受け止めようとする社会的状況があった。即ち、美術団体としての自由美術の存在は多くの心ある市民だけに限らず新聞、テレビ等の取材の対象として無視できなかったと言える。

これに対して、国立新美術館が団体としての発表の場となった「現在」は、新しい異質の課題が突きつけられている。例えば、昨今の美術に関する話題や注目される展覧会は特定の企業体の企画展であったり、地方自治体の観光や産業との連繋の発想が主流となっていねという事実を否定はできない。そり上、団体展の成果の様子を取りあげている新聞(全国紙)は近年あまり見られない。そのような「現在」の状況に、前述の「自由美術協会史」の中の一文が課題解決のヒントを提示しているように思える。(事務所に事前の申し出はしていないが、公的な文章となったものと捉えて活用させていただく。)

(「自由美術協会史」17ページから)・・・(前略)・・・今日、最初のテーマである反戦意識は、太平洋戦争との関連では希薄になったというか、望めなくなった。それは時代の推移で止むを得ないことである。しかし、問題は普遍的になった。人間存在のあらゆる分野にわたって、人間存在を否定する条件が浸透し、蔓延している。さういう状況の中で制作するということを、どう意識するのか。あるいはしないのか。藤林叡三は晩年通勤電車の中や街頭を描いた。その試行錯誤に何かのメッセージはないのか。かつて先人がいだいたことわり、それゆえに生み出した証言者としての作品、これらが問いかけてくるものを感知することから、我々はこの自由美術協会を引き受けていかなければならない。

       (文責 宮滝恒雄 福田 篤)

2011年 自由美術展の折に私は「ふるさと東北へ」と題する文章を寄稿した。その文章を書きながら何処にぶつけたらよいか自分でもわからない怒りが込み上がって来るのを必死になって押さえ続けた。

東北の人々の「お人好し」のことや戦争に徴用された人間とその家族や帰国できず戦地だった所で病死する戦友を看取る友のこと、あるいは手の平を返すように新しい時代に踏み出す表現者、そして今でも私は住んでいる新潟県内に原子力発電所が存在いることを認めたくない。たとえ「事故が発生した場合でも放射能の心配は不要な距離等と言われても・・・」。そんなことを考え続けながらあの文章を書いていたのが、つい先日のような気がする。

東日本大震災 3・11事故の発生についての東北人の気持・感情は東北地方以外の人々にどれだけ理解してもらえるだろうか。私が生まれた酒田は日本海側、大震災は太平洋側に発生した。しかし東北人は皆同じ感情であることに変わらないということ。例えば細長い形状を想定してみてほしい。形状に向かって左側と右側の側面があったとしても細長い一つの形状であるだけ。日本海側の酒田の人も秋田の人も岩手や宮城や福島の立場を想う気持は前述の細長い形状の例えのように少しも違いはないということである。

2012年3月にある全国紙が「3・11後の表現」と題する特集記事を掲載した。文学、建築、演劇、音楽そして美術についての活動の様子を紹介していた。

美術の特集では、「震災で失われた東北の風景を土地に眠る記憶から再生産する」という試みに集まった人々が次のような発言をしている。

○・・・震災で世界観は一変した。アートは社会の空気の中で生きているか・・・

○・・・原発事故の危険に気づきながら、私は明確に否定してこなかった。ざんげの意味を込めて・・・

○・・・震災後の社会と芸術家のあり方に危機感を抱く。アートの役割が軽視され・・・

○・・・単なる自己表現でなく、歴史という大きな流れを作品の形で記憶し・・・それは政治活動やチャリテイーとは異なる次元でとても大切・・・(以下省略)

最後に、東日本大震災 3・11事故について記述した。あの大震災は今日になっても、何も解決されていない、という年月・時間の問題がある。さらには、近年になり原発事故という問題は人間の手では解決できないものであり、その裏側にある企業の隠蔽体質が表面化したという事実もある。それよりも、[2011・3・11]がこれからの日本のあり方を重い課題として私たちに投げかけているのだということと正面から対峙しなければ・・・と考える。

私には、ここからスタートが私たちの「未来」への入口のように思えてならない。

冒頭にあげた三つの企画展に登場する画家たとの生きた時代の表現のための工夫・開発に比べればそれらに必要な材料・用具は進歩している。つまり新たなスタートのボールは、私たち人間の手にあると言える。

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