私と自由美術

青 木 健 真
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「アホのミクス狂奏曲・珊瑚の海にテレポート」 青木健真

“かげになったいちろう” 畑島喜久生 作     青木三春 絵 らくだ出版 刊行

昭和20年8月9日 アメリカによる原子爆弾が長崎市の中心に落とされ、一般人約7万人が爆死。助かった多くの人びとも、放射線傷害を受けた。本書の作者、畑島喜久生もその一人である。

学齢前の少年いちろうは、熱光によって自分の影だけを石に残して死んだ。人間を一瞬にして焼き殺し、かつその行為を謝罪しない人間がいたことを懲し、早生した“いちろう”を悔むとともに、戦争に傾斜する日本政府に、その政策の放棄をもとめ、本書を刊行する。2016年8月 らくだ出版 以前に“よみがえったすずむしのうた”と題した絵本 岩崎書店から出版、8月15日へのメッセージとして多くの新聞がとりあげ、平和へのメッセージにインパクトを与え楽しんだことがある。主題が明確でないまま混迷していたが、ボクそのものが"自由美術は何か"であって意識と変革の記録を供述してみる。

1941年1月 高知県の西方 窪川町家地川は四万十川の中流域、日本一の清流の美しい村でこの世に生を受け、ヤギの乳で育てられるも健在。

41年12月 太平洋戦争宣戦布告。その三年後に赤紙一枚で父の出兵。どんぞこに落された母子は、祖父母の家にころがり込む。発電所へのB29爆撃機の夢は今も続いて出てくる。山合の防空壕めざして夢中で走った。夢の中では足が動かない。B29機が頭上にせまってくる。

アメリカでは1941年12月太平洋戦争の宣戦布告と同時に原子爆弾を作るための計画。爆弾完成が1945年7月、敗戦前の月。7月16日原爆製造工場のあるニューメキシコ洲のアラゴード砂漠で三個のうちの一個のプルトニューム爆弾を爆発させる。成功。その三週間後世界最初の原子爆弾が戦争のために使われ、ひろしまの十四万の人びとが一度に死ぬ。三日後長崎に、これは実験の時と同じプルトニウム、原子爆弾の計画と完成、使用がそのまま戦争につながる。

1945年8月 敗戦 終戦を迎える。

水筒一個ぶらさげてボロボロになって帰って来た父を母と沈下橋まで迎える。アイウエオ が あいうえお となり、新しい日本の憲法は国民が主人公。男も女も子ども年寄もみんな平等。学校の主人公は君たちだ。衣食住はガタガタだが楽しい教育がやってきた。子どもながらに胸に期待でふくらむ。古谷公年先生が大好きだ。今も記憶の中に残り輝く。彼の言葉は民主主義の玉手箱だ。

1952年頃 中学高校時代

中2の春 大学卒の美人先生田中弘子赴任。田辺正三と音楽部を希望するも却下される。二人だけの音楽部はありえないとのこと。もとの野球部へ、南部地区ソフトボール大会で優勝。ほとんどの学友は就職。進学グループは数える程。それでも高校の授業料値上げは反対だ。反対集会に生徒会代表で参加する。民主主義の夢がどんどん萎んでくる。美人先生の父親は高校の校長先生田中耕一、広島での被爆者、選別教育とたたかう教師集団のリーダー。のちに関係を深くする人物である。レッドバージの嵐、首切りは父の職場にもやってきた。朝鮮戦争勃発、松川事件、白鳥事件のカラクリも教育界のアカ攻撃と繋がりが見え、破防法成立の恐ろしさを民主主義破壊と考える様になった。それでも自然いっぱいの山河に育まれ、夏には鮎や鰻をつかまえ、アルバイトは植林伐採、新聞配達。小中生修学旅行費用を得るために村芝居を計画。学校の会場は満員お礼の花代でいっぱいになった。成功である。友永昭三がそのあと続演、娯楽の光を注いだ。のちのプリンプリン人形作家に感動する。先輩の岡林修平が武蔵美合格のニュース。進路は決まった。夢は美術教師、絵を描くことだ。部室に閉じこもり、夢中に画面と対決、はじめての個展を美術部で開催。ひとりの教員が一枚の絵を買ってくれた。ブラボー。

1959年 上京

沢田俊一経営の吉祥寺のアパート、岡林修平の部屋に宿泊。武蔵美教員養成科合格。担当主任、赤木幸輝。石松愛明、岡田寛、大田政良、柳沢武雄よき仲間を得る。デッサン、油絵、デザイン、木工作、版画、最良の先生たちに指導を受け新鮮で意欲ある学習にめぐまれ、満足できた。油絵担当は井上長三郎、手際よくてきぱきとした批評が適切でその言葉に嵌まった。空教室の角に作品をならべ個人指導を願った。当時の美術雑誌に自由美術の照会が多く、関係作家たちも度々登場。1950年「モダンアート協会」結成まで話題は美術会を賑わせていた。周りが自由美術会員だらけ、どんなものかと上野の森の都美術館に見学。新鮮で強烈な作品群、何をか発言、発信ある画面の雰囲気。コンパクトな額の大きさが貧乏画学生には好都合。絵づくりの本質を大切に感じながら、来年から自由美術に出品する決意を新ためる。時は反安保一色。画学生の勇気と良心を胸に友人達とデモに参加。自由美術協会で安保条約反対特集号発行、改定に抗議の決議。「全国美術家協議会」を組織。安保体制研究の集会。色紙販売によるカンパ活動。頻繁なデモへの参加、ゼネスト支援の行動など毎日数十名の会員参加による連日ともいうべき、きわめて精力的な活動を組んでいた。

1960年6月15日 安保阻止統一行動で580万人参加。国会突入への過激派警官と衝突。女子学生死亡(残念ながらボクと武蔵美画学生はその中に巻き込まれていた。)

22日 全国一斉ストライキに600万人参加、国会周辺では10万人参加。

23日 安保新条約発効 10月浅沼社会党委員長暗殺、民主主義は完璧にぶちあたった。

反安保闘争に参加して雨の中のデモ。スクラム組んで自分の尊厳を死守した行動に対し、現実の証現者としての想いを表現。50号F「想い」を自由美術展に初出品。同連作をアンデパンダン展で初出品。以後、両展に出品を重ねてきた。

彫刻科3年に編入。油絵は何んとか描けるように思えたのと彫塑の技法、等身大の粘土のかたまりにぶつかり、制作を重ねてゆく時間の経過に快感する。アルバイトで陶芸家 松山祐利の助手、石膏取りの手伝い。大映永田ラッパで有名な撮影所「秦の始皇帝」の特撮を富樫一率いる中島一雄を主とした彫刻科の面々が制作担当を請負っていた。尊敬する池田宗弘から声掛けあり、アルバイト収入は豊かになり、始めて背広服に着替えて青森までの旅路についた。

学生時代を終え、高知帰郷の折、井上長三郎のアトリエ訪問。恋愛中の彼女同伴で挨拶に伺う。

石炭ストーブにアカハタ紙をくしゃくしゃと丸め、マッチで上手に着火。

「君い、この新聞なかなか役に立つよネェ、たいしたもんだ」「そうだネェ、夫婦は風と空気のようなもんだよ」と一言。アトリエの中二階の収納場所を指して「靉光の作品、あそこに保管してあってネェ、最近ボクがサインしたんだ。うまくいってネェ。サインが無いと困るからネェ」。ワンマンで自由美術の天皇とまで噂された人物の心豊かなふるまいに感激で胸熱くなる。頼んであった原稿をいただくとき、「一字いっく印刷の間違いないように…と釘をさされた。自分の書かれた文章への自信と貫禄、さすが画論集健在の風格ある人物である。

原稿を胸に高知への帰郷の夢ふくらむ。

1964年

高知市、石立町に高知美術研究所創設。パンフレットの表紙に麻生三郎の自由美術60年、安保条約反対特集号の「美」の部分を転写、幼児から学生、年配まで絵の好きな人の集い、そのうち将来への夢を抱き、美術への向上心のある若者たちが集まってきた。東京から妻をむかえ、仲間や研究生で祝う会は永く続き、毎夜のようにのんべえが酒や魚の差し入れを持ち込み芸術や政治について議論する。夜明けを迎え千鳥足で自転車にのり出勤する者も。妻には大変な負担だったろうが文句も言わず、いろいろ助言してくれた。

井上先生の推薦文もあって厚意的情熱家たちが集まってくれ、国松勝、吉本信、宮崎昭夫、青木健真でMAKY展。高崎元尚、吉岡郷継、西川興亜、青木等でヤングアート展。

新聞社が運営する県展は権威高く、日展の下請。徒弟制度で覆われていた。そこに穴をあけ風を送り込むために、積極的に県展に出品する行動へ。日和崎尊夫は毎回のように入賞。田島征三兄弟はふたりで特選、青木は彫刻と油絵で特選、新聞社を烟に巻き強烈な風を吹かせた。永吉海心と研究生で毎回の自由美術展、アンデパンダン展に出品、搬出の運賃支払いができず返却されずに終ったことも度々。東京から井上リラが友人と来高アトリエを訪ねてくれて嬉しかった。1965年県展彫刻の部で無監査。

1967年 自由美術協会 新会員に推挙。

城東中勤務の2月16日 長女誕生。学校欠勤したボクに給料袋を預かり中央病院まで届けてくれた竹村昭三。風と空気の愛の魂がハートの形に拡がり、仲間たちの祝福がアトリエいっぱいに風をふかせる。これしかない命名"愛"。

絵描き仲間全体をたばね、アンデパンダン展を試みる、美術教師の仲間と自由美術家集団を結成、吉本信、宮崎昭夫が中心となって活動を続けた。

1967年 高橋修平、岡本高志、吉見博等7名、民主主義美術研究所本科一期生として合格。

1968年上京。世田谷区経堂の妻の実家近くに引越す。7月、佃島小学校図工教員として採用。東京での新しい生活のはじまり。日美の研究生が集まりはじめる。

1970年 反安保のデモ 集会は60年安保を上回る規模。井上先生に自由美術展やアンパンでお会いする回数多し。「いやー、君、学生たち最近元気そうだねェ」「いいことだー」楽しそうに笑顔を示し、大手をふって会場を廻る姿は美しい。

1972年 調布市立 染地小学校に移動。

長谷川匠は北ノ台小へ。月1回の美術の会合。毎週のようにアトリエ訪問を繰り返すこと18年。多摩地区の自由美術の活動はすばらしい。連帯された研究会、討論会、合評会、西八郎、藤村叡三、長谷川匠、奈良堂の運搬車で搬入、搬出。グループ展、会員会議にも参加させてもらった。

西八郎、市川秀光、渡辺皓司、青木健真等々で調布平和美術展を結成、事務局に長谷川匠。今も尚活動は盛んに続けられている。

西八郎は山男でした。長谷川匠、青木の三人で奥多摩の山峰をゆっくりと歩いた。決って頂上で酒の味を楽しんだ。細密描法による幻想表現についてやさしく語ってくれた。子どもたちに生物を描かせる時は、台面の大きな形から描かせなさい。鳥は正面からより横から描くと良い。食卓のパンが石コロに見えたりするようでは、はなはだ困る。視覚にうつる事物は勿論、自らの創造による物象であっても意図した通りに描出することを私達は自らに要求しなければならない。この求めに応ずる技法はやはり細密描法をおいてない。

八ケ岳の雪山に登った。いつもよりゆっくり足を運んだ。天狗の鼻の雪積に最愛の弟子、深井克己の遺作の案内状を持参し手を合わせ、いたわるように雪中深く穴を堀り、一言「心ない者達の豪慢が君を痛め非運を招いた。ごめんなさい」その言葉が胸に突きささり何も出来なかった自分を恥じらった。自由美術で沢山の宝のような先輩に逢えたことを我が人生の誇りとする。合掌。

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