自由美術とともに歩んで

森 田   廣
16.jpg「IZUMO −あかつき」 森田 廣

正規の美術教育を受けず、時偶地方画家の指導を受けたものの我流の出発であった。

初出品したのは1963年。年齢は30代の終わりにさしかかっていた。当時「みづゑ」等の美術雑誌には公募展作品が常時掲載されていて、中では自由美術の作家が脚光を浴びていることが多かったと思う。偶々麻生三郎・糸園和三郎等の生の作品を見たこともあって、確かな自覚による出品ではなかったものの自由美術展に応募、幸運にも初入選を果たした。

数年後、偶々東中国展の会場に鶴岡政男氏が来訪されていた。鶴岡氏はその年、松江市で個展の企画があり、かなり手筈が整っていた。氏を囲んでの話の途中、「君は安来に住んでいるそうだが、松江に行ったときは僕がボンゴを打つから君は安来節を唄ってくれ」と、いかにも旧知の間柄のように話しかけられた。戦後美術を代表するような大画家が、新米の出品者に気さくに声をかけられたことに自由美術の大らかな空気を感じたのだった。何故か個展は中止になり、氏のボンゴは聴けなかった。後年、ある先輩の作品の前で「面と面をつなぐ部分が大切だ」と説いておられるのを聞いたが、今もって達し得ない問題である。出品を重ねるうち、自由美術を選択したのが間違いでなかったことを確信し、今に至っている。1968年会員。1990年平和賞を受賞。

制作の度ごとに描き切ったと思うことがない。制作の半ば、絵が逃げる。追っかけるという思いで半世紀を超えた、会員となって5〜6年経った頃、井上長三郎氏から貰った指針がある。「君は障害をもつ(30代前半に両腕切断)ゆえ、制作がままならぬ思いを抱えているかもしれない。画作りの技なら君よりうまい絵描きはゴマンといる。君は画作りの技術をめざすべきではない。だが、君には君にしかないものがある筈だ。その表現をもとめるべきだ。それが君を生かす道だ。技法へのこだわりを捨てデッサンを絶やすな」と。極めて貴重な助言であり、励ましである。が、実に容易ならざる課題である。「デッサンとは何か」それは先年亡くなられた八幡健二、一木平蔵の両先輩からも追求の努力を求められていた。内なるコンセプトと造形センスのギャップが埋まらない。飾らぬ自分をという思いがあるが、造形性が甘いものであってはならない。「自分にとっての絵とは」「自分らしい絵とは」の問いかけを繰返すばかりである。

既に90歳に届いた。精一杯努めるつもりであるが、作品が展示に相応しくないなら退くべしと考えている。来し方を振り返り、多くの先輩や画友に背を押していただいた。とくに関西展、東中国展の諸兄姉には励まされてきた。感謝申しあげる。

個人的なことはここで筆を擱きたい。

戦後70年を経て、戦争体験をもたない人がこの国の大部分を占めるようになった。憲法第九条を踏みにじろうとする政権の動きが露骨である。美術は政治思想のプロパガンダの具であってはならないが、自由美術の反権力の姿勢は絶対に崩してはならないものである。それが貫かれるのなら、時代を反映する、或いは先取りする様式の展示があっていいと思う。