自由美術と共に

坂 内 義 之
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「生命力」坂内義之

自由美術協会編集部より「自由美術展80周年記念特集」への原稿依頼があり、どうしたものか、下手な文章で書いていいものか?今回は遠慮しておこうかと迷いつつ、まずは書くだけは書いてみようと決心しました。

私の自由美術との最初の出会いは高校の美術の授業と部活動で自由美術協会会員だった岡本実氏に教えてもらったのがきっかけです。先生がご逝去された時には弔辞を読み、三重の自由美術出品者の会「うつなみ画会」と自由美術三重地方事務所を引き継ぎました。それから生涯自由美術とのお付き合いをすることとなりました。

高校卒業後、多摩美術大学に入学、自由美術協会会員の末松正樹氏やゼミでは美術評論家の坂崎乙郎氏に指導を受け、四年生の時に自由美術展に出品入選しました。当時、井上長三郎氏、西八郎氏、藤林叡三氏、上野省策氏等の作品が展示されていたように記憶しています。何回かの落選を経験して35歳の時に会員推挙の知らせを受け、会員になったことが嬉しくてあちこちに「会員になりました。ぜひ鑑賞を」と招待状を送り、十日程の休みをとって一般審査、会員審査、展示作業に参加。さて自分の作品はと、会場で自分の作品を探していると井上長三郎氏が会場を巡回してきて、私の作品の前で『この作品はどう、ちょっと駄目じゃないの」と会場から撤去してしまいました。非常に惨めな思いをしつつ、会場を後にして熊野に帰って来たことを今でも鮮明に覚えています。熊野から来たもう一人の撤去された人は怒って自由美術協会を退会してしまいましたが、私は、忍耐強くコツコツと制作に励むのも才能の一部と自分に言い聞かせつつ出品し続けました。その後は撤去されることはなくなりましたが二段掛けの上の段に展示されるなど満足のいく作品が出来ずに五十歳になっていました。

大きく変わったのは、五十歳の時でした。母が脳内出血で倒れ母が介護していた脳性小児まひ(要介護5)の私の兄と寝たきりになった母を同時に介護するようになった時でした。母が倒れると同時に、学校に休職願を出し、一年後には退職願を出して介護に専念し、その時に、これからは絵描きとして生きていこうと覚悟を決めたのです。徐々に意識の中で今までとは違う変化が現れてきました。それまでの自分は教員が主で片手間に絵を描いていたように思います。『悟りとは覚悟なり」と今では五十歳で退職して絵描きとしてひたすら前を見て制作できたことに満足しています。長く生きていれば予測できないことが起こります。いいことも。悪いことも。そんな予測できない出来事にうまく対処して自らを変えることができたと感じています。

次に自分の中で変化したのは2011年3月11日、東日本大震災がありその年の自由美術展では多くの人が震災をテーマに作品を発表していました。力量不足でどう表現していいかわからず、表現するには数年かかってしまうと感じていた時、同年9月に紀伊半島大水害による大災害が起こり、海岸一面が瓦礫の山となりました。これからはもう描くしかないと感じ毎日瓦礫の山を見てはひたすら自分の視点で制作に励みました。この時から少しまた意識に変化が表れてきたように感じています。

いつしか半世紀以上、自由美術と共に歩んできました。これからも、熊野に根差し、内面を掘り起こし、そこから生まれる苦悩や悲しみ喜怒哀楽を独自の視点で、より高みを目指して少なくなった人生を全速力で取り組んで行きたい。

感性を大切に情緒に流されることなく、心の器である脳の前頭前野を鍛えながらひたすら制作に励む毎日です。

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