自由美術と私達

佐々木 正 芳
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「紳士たちの構図」                      佐々木正芳

私は1955年から自由美術に出品した。その頃、仙台でエスプリ・ヌウボオという前衛志向のグループが出来て、私の画友2人が東北大の学生だったが、結成と同時に入って活動していた。私は病気休学などで遅れたが復学して出した東北大の美術展の作品が眼に止まり例会に呼ばれて仲間入りした。

その前年からグループE・Nの中の数人が自由美術に出品していた。街中に近い人の家に集まって一緒に荷造りして送った。私も迷わず初出品、初入選。あゆみ(以下A)も入選。他の人達は全部落ちだ。殆んどは先輩。次からは皆出さなかった。

当時、自由美術は若者の憧れだった。戦争画を描かなかった人達が作ったと聞いた。それが良かった。

先日届いた冊子<自由美術>の一木さんを偲ぶ大野修さんの一文に共感しながら、北九州市立美術館・一木平蔵展図録(1982)を開いたら、表紙と見返りに挟まれて針生一郎さんの寄せた『一木平蔵の原風景』が出てきた。その中の一節を引かせて頂く。−地元には児島善三郎などの影響で、独立美術の会員や出品者が多く、つきあいがわずらわしいため、1949(昭和24)年以後、一木は自由美術に出品しはじめる。彼が妻子をつれて東京に出たのは、朝鮮戦争後の経済復興期に入った’52(昭和27)年だった。

当時の自由美術展は、麻生三郎、井上長三郎らのレアリズム、鶴岡政男、難波田龍起らの抽象、寺田政明、糸園和三郎、森芳雄、小山田二郎らの幻想の抒情がひしめき、多くの若い世代が結集して、もっとも活気にあふれた時期であった。当時、美術批評をはじめたわたしは、この団体にもっとも共感をいだくと公言し、多くの作家と親密に交際していた。−とある位、自由美術は魅力があった。

二人で一緒に見に行った上野の古い美術館。高い階段を登って正面入口があったが、自由美術は館の側をグルリと廻って裏口から入ったのを憶えている。F12号のやゝ抽象化した人体が3段掛の上の方に乗っていた。井上さんの姿が見えたので、勇気を出して見て頂いた。「大きいのもあったがね、形に無理があった。」と即答されたのに驚いた。覚えていてくれたのだ。Aも前年から出し、この年初入選。その頃は蝋画を出していて、「いいですよ。」と一言頂いた。よく見ていてくれる、これが自由美術の一番良いところだと思う。

それから昨年で61回私は続けて出して来た。

2回目はその時出した一番大きい作品(50号の縦と30号の横を合わせたもの)が入り、麻生さんと同室の向い壁にあって驚いた。

3回目F50号、病気入院などあってやっと出来た1点だけを出品。佳作になり通知が来た。見に行けなかったが力になった。

次は会員か位の意気ごみで大作4点を送ったら見事全落。この年結婚して一緒に出店。Aは入選。夫婦で描くと良いことも悪いこともあるが、これが最悪。私は荒れていた。

丁度その年の11月頃、井上さんの仙台での個展があって来仙された。誰にも見て頂いてないので家に来て見て貰えませんかとお願いした。OKが出て実現した。「これを落したかねえ、押す人も居たがね。」その一言で胸のつかえがすっと取れた。妻は空気。私は風。の井上さんの事情察知だったかもしれない。

あっさりこんな事が頼めるあたりに、自由美術の良さの一つがあったと思う。会員が庶民的というか威張らない。

地方に居て、展覧会の時だけ上京する我々は当時キラ星の如くいた諸々の作家を殆んど知らないが、鶴岡さんに一度お話を聞いたことがある。ずっと後、日本画廊の企画で2人展をやっていた時、鶴岡さんが全身芸術といった姿でやって来て、「ライフルマン」を何処かで展示していた様でその話をされていた。私は帰りの電車の時間が迫っていたので「何か一言頂けませんか?」と聞いた。「佐々木さん、あんたなあ、人の言葉なんて聞くなよ。自分の絵で批評しているぢゃないか。それやんなさい。だけどなあ、宗教画だって宗教を越えたモノが残ってるんだよ。」見ていてくれたんだと思ったと同時に「絵として良くなければ駄目だよ。」という事を伝えてくれたのだと捕らえ、今も心に残っている。

‘62年7年目で私は会員になった。それ迄は、佳作時の表現スタイルを取っていた。ほんとにやりたい事は会員になってからやろうと思っていた。審査があれば、入選作が作画の方向性を決めて行く。厳正が求められるが、何分に感性の領域。会員になった当初、何度か審査の現場を見たが、相当に丁寧なものだった。入落を保留されてる溜りがあったり、それが入るなら何人前のも入るんぢゃないかと声がかゝり戻って比較したりもあった。

当時は押ボタンを持っての会員相互審査もあって厳しいものだった。が納得できた。良い絵は一瞬で分かる。皆が黙る。

‘64年、その会員審査でもめて分裂、主体美術が出来る。遠くの私達には何のことか分からなかったが、福島の、私よりは先輩の橋本章さんから電話があり自分は或る人との関係で主体に行くが、井上さんは自由美術だし鶴岡さんも残ったから自由がいいよと教えてくれた。全く我々には何の関係もなかった。その頃、一木さん、八幡さん、比田井さん、西さん達が次の世代として活躍されていたし、この時主体とは関係なく自由美術を去った難波田さん、麻生さん、小山田さん達は既に一家をなしていたのだ。鶴岡さんもあんまり出さなくなったが、籍は置いていて、’71年、私がポーランドの催しの報告をスライド映写で行った時、ヒョッコリ見えて聞いていかれた。井上さんとの冗談のやりとりが面白かった。

‘68年、私は一部ラッカースプレーの吹付を使った黙劇シリーズのNo1、No2を出品。2点共並んだ。No2が反戦室に並んだので一緒ではなかったが、急にシュール系具象に転じたので注目され、当時あった安井賞候補展に会から推薦されたりした。この当時、今より会員、出品者が少なかったか、作品が小さかったか、2点作家が結構沢山いた。

‘71年、社会党経由の話だと聞いたが、事務所からポーランドの催しに参加の誘いが来た。Aがチャンスだから行けと言う。9月中端から一ケ月ポーランド、折角だからあとの一ケ月西欧を旅することになった。御一緒したのは井上リラさん、丸山武男さん。ポーランド各地から来た30人程と東独、ソビエト内リトワニヤ、ラトビヤ、日本からの外国人8人がホテルに投宿し、キャンバス、絵具を支給され、絵を描き、出来た作品を一年間そのホテルのガラス張りの大きなホールに背中合わせにした同型2点を展示、外からと内からと見せる。次の年、各地方をまわり、その次の年ワルシャワ国立美術館で展示。作品は国が買い上げるが、金を使うのは国内に限る。何とも悠大な時間のスパンに驚く。確かに昨年の作品が我々との作品と入れ代わるまで展示されていた。ヨーロッパ北部の原生林を人手を加えずに維持してある国立公園に近いホテル・イワが拠点であり、既に7回目であった。通訳がつくとばかり思っていたが、全くなし、一人だけポーランドの作家で英語の出来る人がいた。マリヤ・オコロウ・ポドホルスカ。青い眼の美しい女性だった。総てはこの人を介して聞き、伝えた。私は当時発表していた黙劇の数点のスライドフィルムを自己紹介代りに持って行った。それを見たマリヤさんが、アゲンストの絵だと言った。分かったんだ、絵は国を越えて分かるんだ、と思った。これうまい言い方だなと今にして思う。

当時、自由美術は会をあげてアゲンストだったのではなかったか。年毎にタイトルをつけていた時期もあった。それで縛るものではないと側注がついていたが。"今日の証言"、"人間"、"非体制"、"狂気の記録"、"不条理"、"拒否"など。会そのものがアゲンスト、並いる公募展とは違って美術運動としての会だという気概があった様で、その中で私も絵を描いていたと思う。

この年、旅立つ前に「砂の上の日本」「ずれた思考」のF1002点を描き上げ、荷造りして運送屋に渡すばかりにして家を出た。2点が並び、靉光賞を頂いた。マドリッドでリラさんの友達から聞いて初めて知った。私はアイデアスケッチの段階で、大抵Aに相談するのだが、砂の上は猛反対を受けた。でもイメージがしっかり浮んでいたので強行した。当時の週刊紙、朝日ジャーナルのロッキード特集の表紙にそのまゝの形で使われた。当時、世を上げてアゲンストだったかも知れない。田中金権政治があばかれ、諷刺が受け私も良い気になって描いていた。時代の空気がありねその限界の中で作家も形成される。今の若い人達の作品を見てその自由さや多様さに自分の中には全くない要素を見出し、それを感じる。

‘76年、私はエアプラッシを使う様になってから8年目、銀座三丁目にあったフマ・ギャラリーで個展をやった。Aに押されたのである。それから3年続けたのだが、その2回目、オープンの日、自由の皆さんが沢山来てくれていた。“紳士達の構図”の前で、ミズさんが「これ良い絵ですよね。左の構図ギュッと押しつけたりして。色も好きだな」と話かけて来た。やゝあって、「こういう絵描く人ってどういう暮らししてるんだろう。」とつぶやくのが聞こえた。私は即座に「大真面目に生きてますよ。」と言ったが、ハッとした。これが自由美術だ。人の事をつついているが自分は?と聞こえた。諷刺も底をついたし、批判は世に充満していた。内面に見え隠れするものを探り出す。

「老いたアダムとイブ」「ぬぎたい」などはそれで出て来た。その時まだ居た大成さんに「佐々木さん自分のこと描いてね」と言われた。大成さんも夫妻で出していた。絶対の個を描こうと思った。その「老いたアダムとイブ」が画廊でアメリカに売れた。これは自由美術にとって事件だったようで、当時まだガリ版だった中間の会報に井上さんの特記が寄せられている。私は全く売る事を考えずに描いて来たが、その眼の高さに敬意を表してお受けした。

後日二人で訪ねてみた。ロサンゼルス・ビバリーヒルズの大邸宅。一階は主にクラシック、二階が現代、大きな作品が楽に並んでいる。広い階段ホールの二階に登り切る当りに「老いたアダムとイブ」が「ぬぎたい」といっしょに、何の遜色もなく並んでいた。ミズさんありがとう。

中心部の会員の中では藤林さん、田賀さんと親しくして頂いた。一時上京すると藤林さんのお宅に泊めて頂いたものだ。確かな油絵技術を持つ藤林さんの油の乗った時期。120号縦のカニとオドロオドロしい人間の闘い図が発表された時は将に戦慄を覚えた。

飄々、博識の田賀さんとの会話も楽しかった。同じ大きさの温室を持つ植物好き同志、植物は色々と教わった先生だった。お宅を訪ねた時頂いて来たモンステラ、田賀の孫、曾孫が方々に繁茂している。細かい線や形が画面に飛び交い宇宙となるるあの表現は将に感性の領域。いづれも私より一〜二歳上の方々だが、こういう人達が出て来るのが自由美術の懐ろの広さだろう。

地方では秋田の皆さんの活動の実態を知っている。池内茂吉さんは私と同年。確か一木さんと御一緒した時が秋田を訪ねた最初だった様だ。大塚さんを会員に推挙しようという話になった。秋田に限らず、地方会員は教員作家が多い。秋田の場合は中学校の先生か多かった秋大の先・後輩。一人前に公立学校を勤めた上での制作だ。凡そどの公募展もそうだろう。その中で一番輝いていたのが自由だった。会員の数も多かった。その運営が見事だった。毎年、竿燈の時期に合わせて展覧会をやるのだが一年置きに自由美術東北展にしようという事になり願ってもないと福島、岩手、新潟に声をかけ、10回続けた。楽しい20年だった。竿燈の街に繰り出すと、先生!と八方から子供の声がかゝる。いい先生なんだなとその声の弾みが伝えてくれた。大変な努力が隠された一点が自由美術に並ぶのだ。

熊野の岡本さん達に夫婦で招かれ12月中端の熊野に遊んだことがある。熊野の自由美術の皆さんも殆んど先生であった。12月の熊野は紅葉の盛り、浜の舟着場の浅瀬に熱帯魚のコバルトスズメが群れていた。日本の広さが感じられた。ここにも自由美術があった。そして山には古来の神がいた。

群馬も静岡も神戸も確かな足どりで地方の自由美術を支えていた。

私達は結局2人だけで自由美術をやっていた。仙台は昔は独立、二紀あたりだったが、近頃はモダンアートと国画会が主力になっている。地方の教育大から作られる関係性で出来ているので他山の石と見ているに限る。

街へ出て絵描きと付合う余裕などは全くなかった。街で呑むのは展覧会で東京に行った時だけだった。2人だけの自由美術もそれは大変。朝から晩まで仕事も育児も何もかも一緒。だがその協力と分担とによって総てをやるしかなかった。仕事とは絵の教室とその発展形としての造形幼稚園造りであった。結局この仕事も好きだったのだ。

Aには経営者の能力があったし実務がこなせた。私は子供の遊びの中から造形を引き出すアイデアを体験として持っていた。カリキュラムは私が固めた。殆んど描くか造るかして遊んで育ったから。農家の庭先が目標の環境で田んぼ、畑、合鴨。自然がいっぱいだ。今は2人の息子達に渡して新しい展開をみせている。何せ子供が伸び伸びよく育つのだ。手強い相棒だったが、頼りにもなった。朝から絵の話も出来るし、相談も出来る。ラッカーを使い始めたのも同時だった。忙しい中で描くのでラッカーの乾きの速さが魅力であった。一番心配なのは時間に伴う変質、変色だったが50年たった今、全く変わりはない。

‘85年、銀座ギャラリー三真堂で個展をやっていた時、私一人で会場に出た日に醍醐さんがフラリと一人でやって来て、その夜2人で呑み歩いたことがある。話は自由美術の事で、当時の会の様子の心配と今後への展望についてであったと思う。私は、「自分にとっての自由美術は分裂の所で終わっていて、その昔の気持ちのまゝ繋がっているだけだ。」みたいな事を言って進展しないので、彼は少々苛立っていた。随分時がたった今、少し違っていたかなと思う。ここで前言撤回しておこう。

何せ、井上さんの存在が大きかった。居なくなって益々それが分かる。明治の気骨。自由美術の心棒だった事は確かで、それが亡くなった事も確かだ。その後を皆さんが新美術館での新しい展開で繋ぎ今日の活況を迎えたのだと思う。私はここ4年、出品はしたが会場に行けないでいる。それで会場の印象が薄れているが、届く中間の会報がしっかりしているのでそう感ずる。佳作作家や新会員の展覧会が組まれるのも勢いを感じさせてくれる。白黒だが、或いは白黒だからか作品の写真も仲々面白い。今の人達は全く自由だな。やはり豊かな時代に育った感性の自在さを強く感ずる一方で、どこか昔から自由美術に内在した、或る翳りを宿している様な気もする。

今の世の現状をそのまゝ肯定し切れず、傾に構えた眼差しが感じられたりすると私などはそれだけでやって来たので、安心する。

その一方で忘れてならないのは、照子先生の空気の部分だろう。ポーランドで同室で一ケ月一緒に絵を描いた丸山さんは、日本に居て自室で描く手順そのまゝに、自分の仕事を進めていて心強かった。着々とそれは進み2点が完成した。内在する感性の領域と色面のバランスがお互いを確かめ合いながら絵が出来てゆくのを見た。

リラさんは別室だから作画中は全く見なかったが、ヒョロリとした線が見える何時ものリラさんの絵が出来ていた。それは将にお母さんから受継いだ良質な感性によって成り立つ絵だ。暗くはないが、決してアッケラカンと明るいだけにはならない。

その代表はミズさんか。元気快調にやってる人も沢山いる。きっと、突き抜けたんだろうと思わせられる石田さんの快調さ。

‘80年たった自由美術は、多様な若い人達を加えて、更に展開して行くのだろう。

             (2016・6・30)

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