自由美術と私

青 木 誠 一
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「海の風景(帆)」青木誠一

戦後71年 自由美術も80年の歩みとひとしおの思ひです。昭和一桁後半生まれの我々は、戦後10年後1965〜60年頃各々が希望と想像を胸に意図し社会を求めて歩みだします。政治は60年安保闘争も頂点に犠牲者も出ました。奇しくも60年後の今、安倍内閣で憲法改正の闘争連日のニュースも流れます。緊張を、余儀無く求められます。私は、1957年川崎に転居、飾り職人として仕事に従事し毎月働きました。其の内何か違う?(主に仕事)に疑問を感じ町に出て(東京高島屋)に於て彫刻家高村光太郎遺作展を見て特に左手の彫刻、十和田湖のモニュメント、石膏原型像に心引かれ悶々とした日々が続き、その頃に横浜で彫刻家井上信道氏に出合い、1961年、そこに同じく一人の青年も居ました。野口淳と言う写真家で私より三才先輩でした。若くして多くの賞を受賞経験者です。二人で一からの彫刻を始めます。細かく井上信道氏からの指導を受けました。

二人での勉強した月日は一年位でした。彼はすぐにヨーロッパに出ました。其の彼は非常に東洋思想に造詣が深く私は彼から宗教の何んであるかの多くを知りました。大変勉強になり良い友人でした。それからは、仕事の暇を見て町に出掛け始めてヨーロッパの作品を見て(イタリア、イギリス)心底感動しました。それまで美術書、写真などで見るとは全く違う事でした。なかでも(マリノマリーニ、ヘンリームーアー、アーミーティジ、チャドイック)等は勉強になりました。美術館画廊、デパートなどを見て廻り、自問自答の日々でした。特にムーアーの著書に記されたプラス、マイナス量の空間構成、勿論当時は解りません。しかし量の説には思わず体に暑いものを感じました。石膏デッサン夜は人体クロッキーなど研究所に通いました。そこでブリジストン美術館で毎週土曜日午後彫刻家木内克氏の講義及び批評家等の講演を毎週聞きに通いました。後に氏の彫刻を毎年(東京三越)で新樹会展を見ます。最後になる(閉会)展で見た(エーゲ海に捧げる)像は実にスリムに絞られた彫刻は魅力的でした。1965年東京清瀬市に転居します。其の秋自由美術展に初出品初入選しました。以後毎年出品、都美術館前々代の館で何か古めかしい会場でした。しかし入口が二階からの会場になっていて下から見上げると幾段かの石段を上がる構造で美しい構でした。自由美術の会場は二階向って右側で左が二紀会で毎年一緒の会期でした。展示は絵画と一緒でした。一室から十二〜十三室位のスペースと思います。三室が大部屋で大作、力作の並ぶ室で其の隅に私の小品2点を展示して頂き、大変嬉しかった事が昨日の様に思い出されます。懇親会も済み批評会の日に会場で峯孝氏(故)から批評を受け、人体の執え方前後の繋がりなどの細かい所、大事なことは(何を〜なぜ)か等の表現をしたか・・・と厳しい注意を受け、身の引き締まる思いでした。来年は大きい作でしっかり勉強して良い作を持って来いとの事で頑張りますと答えました。66〜67年佳作賞受賞、68年新会員推挙されました。69〜70年「AUGUST」会員展(銀座田島)と何かと忙しい毎日でした。時は、高度成長期の最中で社会的には1965年頃からアメリカの参加したベトナム戦争のテレビニュースも日を追って激しさを増し、自由美術での反戦「デモ」に参加します。確か彫刻部でドクロのマスクを作り、参加者全員がマスクを被り町へ出ました。翌日の朝日新聞朝刊の写真見出しで「沈黙のデモ」と報道された事、記憶して居ます。鋳造所の高原氏が68年頃イタリアへロー型鋳造を視察して帰って来ました。早速高原氏から彫刻部にロー型鋳造の講習会が有り、参加見学しました。すごく魅力を感じ制作に意欲が出ました。粘土では表現の出来ない空間の面白さが有ると感じました。ローの平面板を作り板を切り裂き試行錯誤でした。友人から「詩」の世界にも戦後自由詩が有ると二人で終夜話し合い、自分の考えを一変し海のイメージが浮かび小品を作り始めました。毎年彫刻部会員展にブロンズで小品を発表し続けました。四年〜五年後に十字を基に寅に泳がせた構図でローの板で張り合わせて作った作品です(八十一年発表)、写真です。平和賞受賞しました。毎年自由美術展会期中彫刻部事務所の当番が有り知人、友人で当時は何時も賑やかでした。遠慮がちな友もアルコールの上がるにつれ議論も高まり、独特の雰囲気に変わります。ある会員の友人(皮膚科の医者)で毎年長野から楽しみにして下さった方も居ました。新国立美術館に移り館からの通達で飲酒が禁止となり、すっかり静かな事務所に変わりました。一方会員会議で夜の帰りはいつも五人〜六人のメンバーが一緒になる事で、誰となく行く先が決まって池袋「さんご」が定番で一杯入ると遅くまで思うままの議論で盛り上がり、良い酒場でした。入口の奥に我々会の先輩で木内岬氏作の女の首像が有り、奈良中宮寺弥勒像の朋を思わせるブロンズ像で、氏の秀作と思います。昭和も終わる頃から一人〜二人と帰る仲間も少なくなり、人生の縮図を感じ帰りを急ぎました。その頃で思わぬ変化が、平成の始め頃から感じられます。若い作家で鉄の仕事の展示が具現化しはじめた事です。若者の率直な制作行動を後輩達が後に続き、切磋琢磨して十年〜十五年位続いた後の今は少し寂しい次第です。新国立美術に移り明るくサロン的な展示雰囲気に甘んじる事無く、審起を願う者です。