60 年自由美術とともに

吉 見 敏 治
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「壁 0111」                          吉見敏治
主張
 自由美術家協会は保守主義と事大主義に抵抗し、新しい社会の建設に参画している。この意味から、自由美術家協会は既成団体の陥った欺瞞と誤謬の道を否定し、われわれが当面している現実に対する、積極的な建設の場として会の性格を確立させたい。自由美術家協会は形成の如何を問わず追従と妥協を排して独自の創作を押し進め人間性に立脚してこの方向に前進する。           〔自由美術家協会〕

絵をはじめたころ

昭和20年敗戦直後、闇市の一角で屋台を出していたのが旧制中学三年(14歳)の秋である。表向きは雑誌の販売だが、実は裏では闇夕バコを売っていた。二年も経たないうちに闇市は整理され立退きとなる。焼跡闇市派を掲げ活躍した故野坂昭如(旧姓・張満谷昭如)氏は中学時代のクラスメートである。

その後、本の卸屋(取次店)で働くのだが、ポン中(ピロポン中毒症の略でヤクの一種)が横行し、注射器を使っての行為が同僚の一部の間で行われていた。職場のメンバーの入れ替わりは激しく、馴染みになれたかと思うと翌日にはドロンするといったことが日常であった。

店のカウンターの内側で、小売店相手に伝票を切っていたころ、背のひょろっと高い若いアニメ作家が両手で自作本を縄で縛り、ぶら下げ卸屋を回っていた。その人、実は、あの手塚治虫さんであった。いつも委託本として預かるのだが、気の毒なくらい売れず、そのほとんどを返却する始末であった。

本の内容はゲーテの「ファウスト」やドストエフスキーの「罪と罰」といった難しい内容のアニメが多かったが・・・今では復刻版がでて結構、高値で売られているそうである。

創芸社版の「ゴッホの手紙」(画文集の文庫版)を手にしたののも、この頃であった。坂口安吾やドストエフスキーにハマって夢中だった時分だが、新鮮にうけとれた。無謀にも私は絵を描こうとデッサンを始める。お手本は雑誌アトリエのゴッホ素描集・・・。

集金で小売店を駆け回っていると、4〜5軒の店に飾ってあったのが岡本唐貴の小品。彼の弟さんが神戸駅前で新聞販売店を経営していたこともあって、一時、神戸にやってきて売り捌いていた形跡がある。岡本は岡山出身でプロレタリア美術の草分けであり、「カムイ伝」で知られる白土三平氏の父君にあたる。

昭和26年、神戸元町6丁目にあった美術喫茶DON。画家や詩人、デザイナーたちの溜り場で、マスターは洋画家、夫人は詩人だ。

昭和27年、ここで個展をひらく。闇市時代に知り合った岡本甚一さん(歌人)が賑やかしに友人数名を連れ立ち寄ってくださった。津高和一(抽象系の洋画家でのちに国際展で受賞)、足立巻一(作家)氏ら詩人、歌人たちであった。

マスターは若い画家たちへの目配りも怠らず、それぞれの若手に見合った洋画団体や先輩たちを紹介し激励していた。私には「自由美術へ出してみたらと、一度、団(勇)君に会うといい」と。鴨居玲や中西勝、正延正俊、木梨アイネら諸先輩に出会ったのも此処である。

津高さんには「がむしゃらに描くのもいいけど、何をどのように描きたいのかを、描く前にしっかり決めてから始めるとよい」との助言を受けたと記憶している。

また、評論家の瀬木慎一氏が毎年招かれ、スライド持参でデルボー、マグリット、ダリなどシュルレアリズム系の画家を順次紹介されていた。戦時中、岡鹿之助氏が静物画以外は描かないと、協力を拒否、井上長三郎氏は軍部がよろこぶような作画を一切拒否した経緯を話され、二人の反骨精神に強く打たれた。

そうこうするうちに、年末開催の自由美術の大阪での巡回展に出かけ、「みづゑ」や「アトリエ」に執筆されていた諸先生方の実作を初めて眼にし、その熱っぽい会場の雰囲気に感激して帰り、その翌年、初めての出品を決めた。

レールと柵で論争

昭和33年のこと、3度目の入選。一度行ってみたいと思っていたので都合をつけて上京し合評会に参加した。それぞれの批評がすすみ自分の番がくる。「この絵の作者きてるか!」大声が響く。麻生三郎先生だった。その横が井上長三郎先生。「これはいい。結局は、これからの具象画はこういう方向にむかうと思う。作者には恐らく、そんな自覚はないかも知れんが・・・」隣にいた井上先生「レールという題をつけているが、これはレールに見えんよ。梯子か精々柵だナ。どう見ても。レールを描こうとしているのなら、もっとしっかりレールに見えるように描かなきゃ」「否、レールから発想して、ここにきているのなら、それでいいじゃないか」と麻生先生。

お二人のリアリズムに対する考え方の違いを伺える場面になっていた。

当時、わが家には大小20数点のレールと題した作品が残っていた。たまに来る友人に、それとなく見せても何も云ってくれない。画肌が盛り上がっているとか凹んでいるとか位で終ってしまう。結局、最後まで支持してくれたのは麻生さんと一木平蔵さんだけであった。一木さんは、ずっと経ってから「おまえはレールの後、あれを越すいい絵は描けてないよ。自由美術ばっかり気にしてて・・」。

その後、彼が神戸に立ち寄った折、会の創立者長谷川三郎の若き日の相棒で、東灘区(神戸市)に在住しておられた澤野岩太郎先生(国画会、洋画部創立会員)のお宅へ連れていって下さった。澤野さんは一木さんの北九州時代(少年時代)の絵を始めたころの恩師にあたる人だ。私は澤野さんから旧制甲南高校時代、長谷川三郎氏ら三名(もう一人は中村徳二郎氏)が中心になってアーカイブ「白象」を立ち上げられ、熱い芸術論をたたかわせていた。その証しである原稿群を合本にしたものを長い間お借りして読んでいた。この合本は現在、長谷川三郎記念室に保管されている。目下、記念室が完璧な資料づくりを期す作業を行っており、昭和30年以降に発行されたパンフや関連した記事の切り抜き等を私は提供している。また、この資料は協会の「70年史」編集時にも活用された。(宮滝恒雄氏執筆の際)長谷川人脈に連らなる一人は大阪に清せいきたく希卓さん(昭和30年代に会員として在職していた)がおられた。彼は制作に当たって画面の隅(コーナー)の扱いこそが、作品の成否を左右するとの持論を云い続けておられた。

井上長三郎氏とコンストラクション

井上(長三郎)さんがセザンヌを語るときもそうだが、特に絵の構成を論じるとき、コンポジションを使わずコンストラクション(構築性)を多用されていたのは、第二次世界大戦前のパリに滞在中に西欧合理主義への憧憬のなか、日本の現状とを比較しながら、その落差の大きさを嘆かれていたが、彼の「物差し」には、この在仏時代に影響を受けたフランスの近代主義(ここでは自我の確立)がベースに在ったものと推察される。また構築性重視の裏には、決して画面上の課題としてだけではなく、作者の思想的な裏付けともいうべきバックボーンとなるべきものが不可欠である。という事を指摘したかったのではないかと思う。

實りのあった昭和30年代

昭和30年頃から前衛美術集団として、吉原治良氏が立ち上げた具体美術協会(グタイ)が関西を中心に華々しく活動を展開した。大阪の自由美術のメンバー(先輩たち)三名がスカウトされた。私は彼等との交友を続け活動を横目に、展覧会、パフォーマンス等を出来るだけ見るようにしていた。

ミッシェル・タピエ氏というフランスの批評家で展覧会などもプロデュースも出来る人物が来日。これを契機に戦後のヨーロッパのアンフォルメルが紹介され、その展示会が大阪のデパートで開かれた。フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスなどで、今まで眼にしたことのないショッキングなタッチの熱っぽい抽象絵画群であった。日本の具体美術の人たちの作品も同時に展示されており、こちらも表現方法は多様で偶然性に頼る面もありながら、結果的には独自なスタイルを生み出し生命のほどばしりが伝わり魅せられた。

井上さんも東京で、アンフォルメルに触れられたと思われ、西欧の諸作品に対しては「アブストラクトを古典派に見立てるなら、アンフォルメルはロマン派に相当する」と評価。それに対し日本の諸作品には「粗暴な悪戯が作品を装っている」と酷評。これは作者が知的な操作を潜らず、ただ偶然性や思いつきに頼った発想そのものを、否定的に見られたためではないか。ここでは私との見方にずれが生じた。

また或る時、井上さんに「新人画会」について少し聞いてみたことがあったが、ネーミングは、当時、東大の学生運動家グループが、「新人会」だったので字間に「画」を挿入したのだそうである。年長の彼がリーダー格で総勢8名、松本竣介は麻生さんがつれてきたとのことだった。「1930年協会展」出品の頃、靉光と二人で数点ずつを大八車にのせ搬入締切日のぎりぎりに滑べりこもうと、受付けに飛び込んだが、係の若衆が受け付けてくれず困惑していると、奥から声が掛かり2人の絵を引き取ってくれたのである。声の主は佐伯佑三であり、然かも展覧会では二人揃って奨励賞をもらうというおまけまでついての喜びであったそうだ。

会員の大量退会のあとさき

私はというと神戸で個展を年1回の割合いで開いていた。近代美術館も博物館も未だなかった。閉廊後、毎夕のように友人とだべり合い、何の遠慮もなしに絵の話などし合った時代であった。

会員になった昭和36年は、前年、三池、安保と政治と経済が結合し、労使が対立して、まともにぶつかり日本国中を巻き込む空前の大闘争を繰り広げた時期でもあった。

昭和39年、東京オリンピックの年、自由美術も会員が大量に退会する事件が起こった。

この前後、すぐれた作家群が一斉に去り、戦後の熱気と魅力に溢れた時代は幕を閉じた。離脱の理由については、表向きは「主義主張の距り」が挙げられていたが、それぞれ個人によって違っており、麻生三郎、糸園和三郎、難波田龍起、浜口陽三、浜田知明、小山田二郎氏らが去り、森芳雄、吉井忠氏らは新しい会派をつくった。関西圏では、京都の野島氏(故人)が神戸へ相談にきた程度で団さんの去就が心配されたが結局は残留し、大した動揺もなく自由美術協会(旧名 自由美術家協会)と改称し新しく発足した。井上長三郎、鶴岡政男、上野省策氏らが残留された。

「この昭和25年から40年ぐらいまでの15年間は何となく風通しのよい敗戦後の脱力感が存在していた」と思想家の内田樹氏が述べておられるように、肩の力がスーッと抜け、貧しいながらも何の打算も遠慮もなしに互いに認め合えた最高の期間だったのではないかと思う。当協会の分裂現象だけでなく、具体美術の運動の最盛期も含まれており、振り返ってみるに戦後70年のなかで「稀有の時代」だったと呼べるのではないか。

天王寺に地下ギャラリー新設

昭和50年代のある秋、池袋で井上さんと上野(省策)さんと3人で焼肉屋へ入った事があった。座るなりお二人は、自由美術の組織のあり方からの、お互いの作品評へ、時間とともに言葉が荒ぶってくる。遂に夫々の実生活にまで踏み込んでのバトルとなってしまった。両者一歩も譲る気配はない。私は気遅れしてしまい割って入ることなど出来ず呆然としていた。深夜になっても激論は続き、結局、上野さんの狛江のお宅に泊めていただき、翌日帰神した。

その後、一度お二人の和やかな会話を眼にしたときは、ほっとし、時には、あんな事もあるんだと思った。

大阪支部では昭和57年から「自由美術関西」という機関紙を年1回発行、第1号のみ何故か活版刷りだったが、2号からはザラ紙に「ペン書き」、次第に「ワープロ打ち」となり、少しずつながら体裁を整えていった。費用は3千円程度であげていたと思う。制作の相間につくっていたが、おもに展覧会評、回を重ねながら作者紹介やエッセイを紹介、その後、京都支部のみなさんとの合同作成となり、よろずふきこ、勝谷龍亮さん、植田良章さんたちによる多彩な編集企画に救われ、マンネリ化を避けながら今日に至っている。

昭和54年、故長谷川匠氏の呼びかけで「1931年展」が始まる。互いがこの年に生まれ、同世代としての価値観を共有しようという事で結成したグループで、赤木幸輝、藤沢喬(いずれも故人)、佐々木正芳、藤島清平氏、それに吉見が加わり、毎回、銀座、東和画廊で5年間続けられた。会期中に俳優の花沢徳衛さんが来られ藤沢氏の絵を買っていかれたこともあった。

天王寺大阪市立美術館は、昭和12年に建てられ、大阪の公募美術展の会場として、大阪文化の砦としての存在感を発揮し続けていた。

自由美術家協会時代で、初期の創立直後も、ここで開催しているから歴史は古い。それが昭和62年2月、一方的な通達によって貸スペースが縮少され、利用団体の半分は館から30分以上(歩いて)かかる開発ビルへの移動を強いられた。(自由美術は残留組だったが)これらの復権運動に28団体が参集。大阪洋画団体連絡協議会を結成し、数年にわたり大阪市との交渉を続けた。市民に訴えるため、大阪駅前や私鉄ターミナル駅前で反対署名、ビラ配り、募金と運動を繰り広げた。当時は世論の圧倒的な支持、マスコミの強力な応援もあって「追い風」が吹き、しかもバブル前という経済的にも恵まれ、遂に新しい地下ギャラリー建設が現実のものとなり利用団体全員の努力は実を結んだ。

震災記録画を描く

平成7年(1995年)には阪神大震災が起こり自宅は全壊、私は昭和20年の神戸大空襲以来、再び焦土に立たされた。避難所で女房が倒れ、加古川の友人宅で1カ月をしのぎ、その後神戸の垂水の文化住宅で1年4カ月の仮住まいをした。そして被災前の自宅の跡地に新居を再建することができた。

被災から2カ月後の三月初め、東京の森健さんが大量の紙などを送って下さり、励ましをいただいた。困難な条件のなかだったが、彼の友情に支えられ記録画制作にとりかかった。現場には被災し非業の死と云う形で亡くなられた方々の霊が渦巻いており、私はその真只中で制作していたため、夜になると唸される日が続いた。しかし、翌朝になると霊たちに招かれるように再び現場に向かっていた。また「みんなが困っているところで、何で描くんや」と云う非難を受けたときもあった。それでも八月までの半年間、緊張の糸を切らすことなく制作に没頭できたのは幸せであった。

震災時には、全国の会員のみなさんから、温かいご支援をいただいたことに、改めて感謝申しあげます。

活力を取り戻したい

振返ってみて、良くも悪くも自由美術とともに生きた60年間であった。自らの活力、集団の活力、ともに往年とは比較にならないぐらいの衰えようである。嘗ってなら、互いが相手に対し譲れないだけの主張を持ち続け、決別や分裂を繰返しながらも、集団としての活性化という手段は手離さないできた。これは集団の持つ「主体性」でもあろうか。敗戦直後から可成りの間、持続していたコンセプトが次第に薄れてきていることは確かだろう。自由美術創立後、80年の歴史のなかで、会は沢山の画家を育て、また、打ち捨てることも多くしてきた後の現状なのだが・・・。時代の趨勢、社会の変貌、価値観の多様化etc.と、いくら理由らしきものを並べ立ててみても、それで事は片付く問題では無さそうである。

「活力」を如何にして取り戻すのか・・・。

個々人が、自らを奪いたたせ真摯に現実に立ち向かい、描き続ける以外方法はないと思っている。

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