自由美術協会

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川﨑文雄

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「まだ飛べるのか?」

戦後10 年が経った福岡県の南部の八女市とい う田舎町で生まれ育った。川に和紙の原料の楮の 皮が晒してあり、阿蘇山の火山灰が堆積した凝灰 岩を彫って作る石灯籠の作業場や、仏壇の細工物 を彫る工房が近くにあった。小高い山々を背景に 川に沿って開けた田畑の広がる風景。点在する古 代の竪穴の墳墓跡。これが私の原点となった故郷 である。肥後守(ひごのかみ)という折りたため る小刀とマッチをポケットに入れて、山で鳥や小 動物を捕まえたり、川で魚採りして遊んでいた。 蝶の採集に熱中したこともあった。近くの崖に地 層の見える場所があり、そこでよく粘土を掘って 何か作るのに熱中した時期があった。焚き火で焼 いたり、粘土で原型を作り紙を貼り重ね張り子を 作った記憶がある。勿論絵を描くのは好きだった のだが。

どうして自作を語るのに、自分の幼少期の話か ら始まったのかというと、なぜ絵から立体作品を 作るようになったのか、自分の立体作品の中心が 土を焼いた作品になったのかという原点が、そこ にあるのかも知れないと最近感じているからであ る。自由美術に初めて出品した「牡牛」という作 品も信楽の土を焼き締めて緋色を出したような作 品だったし、木彫作品を2回出品、ミクストメデ ア作品を2回出品した以外は、自由美術には、土 を焼いた作品を出品してきた。土を焼いた作品も 最初は焼き締めた焼き色にこだわったものを制作 していた。作品が大きくなるにつれ、焼き締める ことにより収縮が大きくなることと、タッチが硬 すぎるのが気になり、いわゆるテラッコッタ作品 (900 度くらいで焼成)を制作するようになった。 30 歳代から40 歳代前半はテラッコッタ作品を中 心に発表していた。柔らかいタッチで古代的なイ メージの作品を制作していたが、この古代へのあ こがれといったモチーフの原点も生まれ故郷の古 墳群にあるのかも知れない。40 歳代後半から黒っ ぽい釉を掛けて1200 度以上で焼き締めた作風に 変化するが、作品のテーマが社会的なもの、「ひ と」の内面が中心となり、形態が構成的で硬質な ものに変化したからである。焼き締めることによ る、収縮をいかに抑えるか、光沢のない彫刻に合っ た釉をどうやって作るか、試行錯誤したことを思 い出す。まあ、次から次へブロンズにできるだけ のクライアントや財力があればそんな苦労はしな かったとは思うのだが、望むべくもない。この時 期は、N ・Yの9. 11 テロ事件、アフガン紛争、 イラク戦争そして3年前の3. 11 東日本大震災と あまり明るくないことの続いた時期でもある。作 品も「犠牲」シリーズ、「廃墟」シリーズ、「孤独 なるもの」シリーズと暗いテーマが多くなって いった。

幼いころ大自然の背景にどこまでも広がってい た平和な大空の向こうでは、紛争、戦争は絶えず、 地球の環境すら危ない状況になっていた。繰り返 される人間の営み、その美しさも醜さも「ひと」 のありようとして表現できればと思ってきた。ひ との姿を「孤独なるもの」という題名で制作して きたが、ふと、自分をかえりみて2012 年の自由 美術展に「まだ飛べるのか」という題名の作品を 発表した。ある意味「自刻像」ともいえるこの作 品は、体の大きさに比べると飛べそうもない小さ な翼がついているが、まだ飛ぶことを諦めた訳で はない。蹲ったまま、何かを考え、飛ぶ機会を狙っ ていることと思いたい。体力は年齢と共にだいぶ 衰えてきたが、自分なりの「ひと」の姿を表現し ていきたいと思っている。所詮どんな権力者も一 市民も同様に土に還る。今、日本が集団的自衛権 をめぐり大きく動いている。私たちはどういう時 代に生きているのか、きちんと見極めながら、自 分の描く「ひと」型を土に託して表現していこう と思う。