自由美術協会

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カトリック長崎大司教区記念碑の制作報告

彫刻部 M・A・池田 宗弘

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2010 年以来思考を重ね、本年2月27 日設置完了した作品の正式名は下記の様になる。

『日本の信徒発見150 周年記念事業・聖トマス西と15 殉教者顕彰庭園整備』。場所は長崎駅に最も近い由緒ある中町教会境内に決定*註1。タイトルに表わされた如く、日本のキリスト教の信仰の歴史にとって重要な二つの出来事を表現しなければならない*註2。この二つの間には二百年余の時の隔たりがあるものの、実際は全く同根の樹木と言える。我々美術家が美を信じ渇望し生涯かけて制作するごとく、天の神の教えの下に与えられた現世の人生と来世を信じて過ごした人々の(心の根)が滅びる事無く生き続けていたからこそ、斯様な感動的な事実が150 年前に長崎の街であったのだ。

*註1中町教会
旧大村藩の長崎屋敷跡地。1889 年(明治22 年)島内要助神父の担任で工事着工。1896年(明治29 年)完成。

*註2二つの出来事
キリシタン禁教時代に潜伏していた信者を支えて活動をしていた、日本人伝導士バスチャン(1665 年殉教)の予言。そしてその予言が現実の出来事となった1865年の大浦天主堂でのプティジャン神父と潜伏キリシタンの人々との邂逅。

聖トマス西と15 殉教者とは徳川幕府の禁教により厳しい弾圧で命を落とした日本人9名、スペイン人4名、イタリア人、フランス人、フィリピン人各1名の計16 名のドミニコ会の熱烈な信仰に生きた聖職者と信者の方々だ。

信徒発見150 周年とは、1865 年3月17 日の世界的なカトリック信仰の奇跡と言われる大浦天主堂のプチジャン神父に面会にきた浦上の潜伏信徒達との歴史的な出来事を指す。

この二つの主題は同じ長崎ではあるが、時代と場所は離れている。各々の人物の立場も全く異なる。16 名の殉教聖人は江戸時代のキリシタン信仰の落日の頃の人々*註3。そして発見された信者達は新しい夜明けの時代に身を置いている。これらを如何に具体的に造形化し良い作品にするか……?

*註3
キリシタン信仰の落日と夜明け…1587年(天正15 年)豊臣秀吉の伴天連追放令以後の弾圧と殉教の時代と1858 年(安政5年)開国、その後も差別と弾圧があったが西洋諸外国の手前1889 年(明治22 年)憲法によって信教の自由が認められた。

まず設置予定の場所を見る為に長崎に行く。更に16 殉教者の入手可能な資料を求める。2010 年8月末、現地に着き他の候補地の2カ所にも足を運ぶ。それぞれ殉教の歴史に深い関わりのある重要な所で土地は広いけれども市街地からは遠い所にあり、世間に顕彰するための事業地としては不便さを感じた。結局、相応しいと思ったのは諸聖人の殉教の地(西坂)に最も近く、今後の来訪者の交通の便の良い長崎駅近くの中町教会の敷地だった*註4。境内の候補地には既に大きな石の碑がありそれを囲む様に植え込みと、ドミニコ会のカルペンティエール神父の切り抜き作品が並び、タイトルを表記した石碑の右隣接地にはプレハブ二階建ての物置きが建てられていて全空間の半分を占めていた。この物置きを撤去すれば石碑を中心にして彫刻設置場所が倍増し全体が良い空間になると思われた。そこに植えられている植栽は出来る限り活用したい。我々の作業の為に永年その土地で生きてきた植物を死なせるのは罪作りだ。

(これは工事期間中植木を避難させて作品の設置後に造園作業が行われた)。中央の石碑の形も全体の空気と目的に即したデザインに変更したい。このような大筋を決めてから敷地全体と個々の聖人のイメージの追求に着手。与えられた仕事の量と限られた時間と費用、テーマと内容等々考察するに先ず己自身の緊張感ある日課を再編成し長期制作に耐えられる身と心の置き様をととのえた。(結果としては大成功だったのは言うまでもない)

*註4  西坂殉教地

多くのキリスト教徒達が命をおとした刑場で、海を見下ろす丘にある。現在ここには彫刻家・船越保武氏のレリーフが設置されている《日本二十六聖人殉教地・記念館》が建てられ、海外からも聖地としてここを訪れる人は多い。

歴史に関係した人物の群像(16 人)の個々の形は、大きさ(身長)・国籍・衣装・身分等を考慮し画一的にならない様に注意しつつ制作するが、全体は統一のとれた静かな上品さを無くさぬ様にかなりの労力をかけて探究しわずかに残された貴重な資料を読み込んで、一人一人の人物が目の前に出現し動く姿が見えるまで精神を集中させる日々であった。そうする為には友人、知人とは出来る限り交際を断って自分自身の世界で(極端に言えば時空を異にした)生活をする様にした。有難いことに聖山のエルミタは最適の作業場でありここに身を置くのはこの様な作業を実行する為に永年かけて用意されて与えられた、天の恵みの賜物の様な気がする。

本来作家という人種は己の美の理想を具体的に作品で証明すべく生涯かけて実行する。それ故より良い作品の制作に必要な多くの栄養を自然界と人工の傑作、名作の中に謙虚に求め学び参考にする。作家は一生追求するテーマを若い時期から持ち自らの道を歩いている。前人未踏の世界を独り行くには不撓不屈の意志と労働意欲の持続がどうしても必要になる。これがあれば困難にぶつかっても簡単に崩れることはあるまい。このような人種は他の世界では学問、スポーツ、信仰の分野に生きている人達に見ることができる。

実制作に入るにあたり全てに手順がある如くいきなり結論にはたどり着くことは出来ない。

全体の完成予定図をある程度決定しなければならない。これにはかなりの日数がかかった。施主から与えられた条件は除幕式典の年月日が2015 年3月16 日・17 日。聖人像は実物の人物像の7〜8割の身長で、という事で契約書の出来た段階(2012・2・6)から逆算して鋳造、仕上げ、設置作業の日数をマイナスすると原形制作は32 カ月以内でしなければならない。更に16 人の人物像のほかに中央の記念碑の作成の労働もかなりの負担となるのは目に見えていた。最初の話から決定・契約までの18 カ月の間に個々の聖人のイメージは出来上がっていたのは幸いだったが、一体につき50 日で原形を作り続けるにあたり精神と肉体に掛るであろう負担の大きさにはさすがに恐怖心を感じたのも事実だ。久しぶりに〈人の倍働く〉という若い頃からの生活を2012 年の真冬から始めた。朝5時起床、夜中12 時就寝、1日2食。やむを得ず来客に会う時や外出をする車中は身体を休ませる時と心得る。コーヒーと武術のトレーニングは随時。天から戴いた仕事中に体が守られないわけがない。朝晩エルミタの祭壇に祈り制作に集中、この間ただの一度も疲労感や筋肉の痛みも感じた事は無く、熟睡と爽やかな目覚めでまるで幼児期に戻った様だ。本当に不思議な事と自分で驚いている。

【実制作】

群像作品、単体作品に関わらず何を表現し、それで何を見せ、何を伝えたいか、という事を決めなければならない。特に立体作品の場合は遠距離で(平均的視力の人に)真っ先に目に入って来る形は何かと言うことを意識して必要な形を定着させる事が肝要だ。これが考慮されていない屋外の具象作品は設置場所に馴染まない。更に中距離で最も見える形を(遠距離で目に入った形を壊す事なく)作り、この段階の作業が終わったら近距離で見た場合に目に入る細かな形を追求する。この原則にそって考察を重ね町中のビルの壁と不定形の植物と庭園の付属品の中に設置する人物は森林の中の太い木の幹が真っ直ぐに垂直に立つ強い姿の存在感や、教会正面入口に柱状に並び立って美しい統一を見せるロマネスク作品の原理を活用し、全体の釣り合いと個々の聖人の立ち姿と環境との一致を求めた。ブルデル以来の具象彫刻の構成の大切さと見方を学生時代に清水先生に教えられ、さらに自由美術展では峰先生の作品でその効果を実見してきた。30 代の頃からスペインロマネスクの勉強を続けている事が今回のモニュメントの制作にも大いに生き、且つ役立つ事は何よりも嬉しく、すべてがこの作業の為に準備されて来た様な気がした。教義的に言うならば『お前はこの仕事を為せ』との召命を受けたのではないのか?との思いと、その反面『そんなわけがないだろう、自惚れるな、注意せよ悪魔の悪賢さに…』とも考えて居た。

【聖人像の寸法】

限られた設置空間を少しでも広く感じさせる為に人物像の大きさを当寸大の8割位に設定する。本来実物より何割か大きめの寸法で作る事によって屋外の広い空間でも存在感を萎縮させられない様にする。実物の2割引きの寸法は彫刻家にとって難しくその実力が試される大きさなのであまりやりたくない物だ。この大きさで当寸或いはそれ以上の大きさを感じさせるのは思っているより、かなり難しく工夫と努力を要する。今回の作品は最終的にはブロンズに鋳造するのでさらに原形より収縮するのだ。しかし結論は大きさを感じさせる良い作品となった。

16聖人の国籍、性別、身分にそって各々の体形や衣服の形や寸法を変化させる必要があるが全ては生物学的な寸法比にはこだわらず、あくまでも主題にとって必要な形の追求と定着に力を注いだ。作品と並んで写真を写すとその寸法比がよくわかる。

【技法】

従来の彫塑の立像では作れない形の多い物なので素材と技法を根本的に考え直し、独自の方法で行う事にした。今まで自分で工夫し数多く制作してきた真鍮の溶接と彫金の延長線上では絶対に鋳造は出来ないし、この大きさの人物像を作るのには二ヵ月で一人のペースでは出来るわけがない。そのうえ制作経費の事を考慮すれば実行不可能だ。全面的に新しく考え、模索し独自の方法をとることにした。彫塑の原形の制作で使用する重量を支える為の補助支柱は使わない。その代わり真鍮で骨組みを準備しその上に人体を作り、その外側に衣服の内部から外部に向かって衣類を重ねて作っていく。この手順は私のオリジナルの真鍮技法と同じなのだが、鋳造の型を作成する時の為に細かい部分に分解出来る様に先を見越してつくらねばならなかった。

【素材】

骨組みは真鍮のパイプを使って地山の平面の鉄の箱の所定の位置に垂直に立てる。足元から肩までは木材の組み合わせ、頭部は粘土の原形を石膏になおし彫刻して組み立て、全身の調子を整える。

中央の縦長の墓石の竿石に相当するタイトル表示の上下の蛇腹飾りは引き型と回し型の石膏原形をこしらえた。頂上部に立てた十字架像は木彫原形に真鍮技法の茨の冠と銅板の鍛金の後光を着装、等々必要に応じて使える技法を自由に活用した。言うまでも無く、全て私一人の手仕事で行うので時間に追われる日々であった。

【個々の聖人像】

殉教した聖人の当時の姿や形は一切残されてはいない。処刑された遺骸は直ちに灰にされ長崎港の沖に運ばれ海に捨てられ、遺物も骨もその痕跡を抹消されたのだ。像を具体的な形にする為の資料は文書に残され正式に認定されている二冊の本のみであるが一人一人の生涯と業績が表記されていて当時の記録が遠いローマに報告され残されていることが驚きに値する。

それらを繰り返し読み込み、精神を集中していると聖人の姿形が見えてくる。それを像として定着させたのが作品だ…。

設置は向かって左1番から右端16 番に殉教した年月順に並ぶ。左1番は1633 年8月14日、穴吊りの刑で殉教したドミンゴ・エルキシア神父(スペイン)で2012 年の自由美術展に展示。左6番は1633 年10 月19 日に穴吊りの刑で殉教した少年・ロザリオのマテオ小兵衛修錬助修士(日本)で作品は2013 年に自由美術展に展示した。右16 番の京都のラザロ(日本)とだけ伝わっている信徒は1637 年9月29 日殉教したが水責めの拷問をうけている姿が素人のスケッチで残されていた。

左1番の聖ドミンゴ・エルキシア(司祭)の出身地・レヒール村の所在地のバスク地方の男は伝統的な力比べの競技で心身を鍛えた頑健な体と強靱な意志力を有する。遠い異郷の地に布教の旅に出かけた彼等は並外れた強い信仰と意志を持っていたのだろう。労働者の様な手を胸前に突き出した合掌に前進の意志を、天と地を一直線に結んで揺るがない立ち姿に造形上の基本の垂直線と、天と人々を結ぶ使命を背負う司祭の有り様を衣装の襞等で強調した。

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左2番の聖フランシスコ・正右衛門(修道士)エルキシア司祭に付いて教えを受ける修業中の日本人修道士の立場なので髪型の髷は切らず民間人に近い立場を表わし、衣類もマントは着けさせない形で司祭の立場には至っていないことを示す。即ち聖職者と民間人の中間の人を表わす為の工夫として欺様にした。1633・8・14・穴吊りの拷問で殉教死。

左3番の聖ミゲル九郎兵衛(信徒)

信者達には良く知られていたと伝えられている彼はヤコボ・朝長神父の傍らで教えを受けつつ弾圧下で活動をした。民間人の姿の方が市井の人々の中でも目立つことも無く、聖職者の為の生活の必需品の仕入れや連絡もしやすい。服装と髪型は当時の屏風絵、その他の参考図を元に形を決定、胸の前の布の包みの中には大事な書物か食料が入っているイメージ、腰帯の下には信者の証の革帯を着けた形にした。顔は迫害に負けない信仰心からくる強く厳しい表情にした。水責めの拷問の後、1633・8・15・穴吊り刑を受け殉教死。

左4番の聖ヤコボ・朝長(司祭)

大村藩の高位武士の家に1582 年に誕生す。両親もキリシタンで幼少より司祭の道を志す。人物像のイメージはその家柄の良さと意志の強さと共に評される彼の穏健さや慎み等聖職者の美徳とされる空気を如何なる形で表現出来るかと、かなり難しい人物像だった。見開いた眼力と強く結んだ口元の表現に神経をつかい、天を見上げる眼球の制作にも工夫をした。1633・8・17・西坂にて穴吊り、落命。

左5番の聖ルカ・スピリト・サント(司祭)1594 年スペインの北西部のカラセイド村で誕生。日本の風土に共通した空気の農村の人達は穏やかで勤勉な気風で名産のワイン・煙草・パプリカ等を作っている。彼が日本に来て東北地方にまで足を運んで宣教をしたのも故郷と共通する良さを感じていたからかもしれない。村で出会い、お世話になった現地の人々を思い出しつつ原形を制作した。1633・10・19・穴吊りの刑で殉教。

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左6番の聖マテオ・小兵衛(修道士)の作品は自由美術展に出品した。1615 年誕生の少年でルカ神父の教えを受けていた。作品では彼の初々しい姿と品性を前面に出す様に贅肉のない細身の身体で素足に革のサンダルをはかせた。修業中の少年の寒さを少しでも和らげる様にと婦人会の誰かが作ってくれたフードを身に着けた姿にした。後にドミニコ会の制服を与えられたと伝えられる。師のルカ神父は(ロザリオのマテオ修士)と書き残す。1633・10・19・棄教を拒否し殉教。

左7番の長崎の聖マグダレナ(修道女)

1610年頃、共に殉教した両親のもとに生を受けた。修道女としての制服を授与されていたが厳しい弾圧の世間で師のヨルダノ神父をはじめ多くのドミニコ会の人々の便宜の為に働く時には目立たぬ衣服が良い。作品ではその日常の姿を想像してこの様にした。この像は師が西神父と共に逮捕されたのを知って自らキリシタンの修道女であると奉行所に出向いた時の姿で手には手書きの聖書と十字架を誇り高く正面に掲げる。長期の拷問の末。1634・10・15・殉教。

左8番の大村の聖マリナ(修道女)

1623年に来日して活動をしていたルイス・ ベルトラン神父に教えをうけて修道女となりヨルダノ神父(イタリア人)が彼女の伝記を記述し、日本で最も勇敢な女性と賞賛されていた。原本は無いものの、ポルトガル人の多くが伝記を読んだ。彼女は迫害の時代に多くの外国人宣教師の手助けと支援を実行した。目立たぬ様に活動をして居たが1634 年に捕えられてしまった。人像は小柄な日本女性の健気な姿と謙虚さが表現出来ることを考えこの様なポーズにした。当時の信者は自分の名前を記した布を首から下げている。文字はO とM の組み合わせ、肩をすぼめて慎ましく立ち腰には革のベルトを着けさせた。1634・11・11・79 人のキリシタン処刑が西坂で行われ彼女は火炙りで殉教。

右9番の聖トマス・西(司祭)

1590年生まれ。篭手田家の代官ガスパル西玄可とウルスラ・そいの両親と長兄又一は1609

年棄教せず殉教。その後1626 年日本人最初のドミニコ会司祭になる。人柄は穏やかで多くの人々に良い影響を与えつつ潜伏生活の内に、宣教と指導につくした。立姿にその様な人間性が感じられる事を願いやや肩幅を広く作った。霊名の聖トマスは建築家・大工・物作りの職人の守護聖人とされ、持ち物はコンパスや定規で表わす。それに由来しこの像では1571 年長崎の《岬の教会》と言われたサン・パウロ教会の建物の一部を手に乗せ神の家を建てる己の使命を

指し示す。1634・11・17・西坂で穴吊りで殉教。

右10 番の聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭)

1598年イタリーのシシリー島の貴族の家に生まれた。1622 年司祭としてマニラでは病院と教会で人々への奉仕活動に励み皆から福音の使徒として慕われたという。日本には1632 年に到着、宣教の間に著作等も行うも、1633 年病に倒れた。手には優れた数多くの芸術作品のある母国イタリーを思い起こさせる、大きな十字架を右手で捧げ持ち、更にその腕を左の手が支える。地中海の明るい空気を全身に漂わせ、信者達の心に活力を与える様な人物像をめざした。西神父と共に逮捕された。1634・11・17・西坂の地で殉教。

右11 番の聖アントニオ・ゴンザレス(司祭)1593 年スペイン北部の古都レオン市に生まれた。この町はローマ軍団の駐屯地として築かれた城壁やスペイン・ロマネスクの宝庫と言われるサン・イシドロ教会と付属美術館の所在地で有名だ。(偶然にも私も研修の時美術館の館長の職にあったのは、この聖人と同名の修道院長でスペイン・ロマネスクの研究者として著作も世に知られていた。この聖人を制作し始めた時、30 年来の御指導を頂いてきた師の訃報が美術館から届いた。聖人像の手には書物を持たせ、風貌は師の面影をその地の顔として形にした。(本の表紙のドミニコ会の紋章の天地は逆さまになっているが、悪魔の悪巧みの証拠として敢えてここに残した)1632 年日本宣教を望み、1636 年7月10 日琉球に到着、即逮捕、長崎で水責めの拷問を受けて9月23 日牢内で死去。

右12 番の聖ロレンソ・ ルイス(信徒)

フィリピン人の最初の聖人として国民の多大な尊敬を受けている。生年月日は不明。中国人の父とフィリピン人の母の間にマニラで生まれ子供の頃から熱心に教会に通う。身に着ける衣装は南国の気候に合わせた正式の晴れ着。髪型は後頭部で結ぶ当時の形にした。天から与えられた運命に対する感謝の形として右手を上に掲げ、胸に置いた左手は不動の誠の信仰の熱い心の有る事を示す。他の神父達と共に1637・9・29・殉教した。

右13 番の聖ギョーム・クルテ(司祭)

1590年フランス・モンペリエに生まれた。高潔な人柄で多くの人々の指導と修道院の改革に力を注ぐ。像はフランス人の長身痩躯の形とゴシック建築の垂直性を意識して制作。垂直線を活かす為にはそれと交わる水平線の置き方を考察しなければならない。この聖人像の顔の下の金の十字架の構成が全身の構成にもなる様に考えて作った。1636 年日本に向けてマニラを出港。しかし到着時に逮捕。翌年長崎に移送。拷問、死刑の宣告、市中引き回し、穴吊りの刑、の責め苦にも耐えたが1637・9・29・斬首の刑で殉教した。

右14 番聖ミゲル・アオザラザ(司祭)

スペイン北部・オニャテ村出身、生年は不明、1598 年2月7日に受洗。1636 年マニラ出港、前記のゴンザレス神父やクルテ神父と共に琉球で逮捕され、長崎に移送され拷問をうけた。その拷問の挿絵(銅版画、オランダ・アントワープ出版)では指先全てに太い針を差し込まれている。作品では彼の痛めつけられた手の上に子羊(キリストの殉教のシンボル)を乗せて救いと慰めのしるしとした。宣教活動をすること無く、殉教の為にのみ来た。1637・9・29・穴吊りの後斬首された。

右15 番聖ビセンテ・塩塚(司祭)

長崎生まれ。生年は不明。9歳頃よりセミナリオで絵や音楽を学びその才能を発揮させた。作品の設置位置を考慮して全体の右端に縦の線を表わす形を加えるにはどうしたら良いかとの工夫でこの形を与えた。持っている飾り柱はバスチャン修道士の予言の七代を7つの蕾で、信徒発見の1865 年3月17 日を柱全体の寸法で表現、頂上の聖母子像の形は垂直性を意識して古い様式に作る。柱の長さは86.5 センチ、聖母子像の地山の厚さは3センチ・人物像は17 センチ、柱全体の形は数字の1である。他の聖人の、動きを抑制した形に対して、庭園に吹き込む風の流れの有ることをマントの形で表し見終わった者が心情的に窮屈さを感じない様にと少しばかり配慮した。彼は1636 年マニラから祖国日本に向かう途中で逮捕。1637・9・29・長崎で斬首され殉教。

右16 番京都の聖ラザロ(信徒)

伝記等詳細は不明、一度はフィリピンに居た彼は塩塚神父、ロレンソ・ルイス、クルテ神父、アオザラザ神父と共に日本に向かうが、途中で逮捕され、長崎に護送された。ラザロと言う霊名を付けられた彼は不幸な不治の病にかかっていたようだ。作品の姿は粗末な着物と手製の十字架、手首には病んだ肉体に巻かれた布が見える。木の杖にすがって立ち、天を見上げる彼の表情は悲惨だった現世に別れて旅立つ喜びを見せている様に形作った。1637・9・29・西坂で穴吊り刑で殉教。

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「殉教者・聖ドミンゴ・エルキシア像」

 

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