自由美術協会

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私と1970 年代の自由美術

大 野 修

70 年から80 年にかけては沖縄が返還され、ベトナム戦争と文革が終わり、中国と国交が回復、グアム島やルバング島から日本兵が出てきたり、やっと戦後のいろいろが清算された時代だった。

自由美術も1964 年に大量の退会者(平面会員190 人の内80 人が退会)が出た。数で言えば半数弱だが、退会者の多くは戦後、会を強く支えてきた独自の作風をもった優秀作家達だった。退会の理由は展示の問題など種々あるのだが、作画上の論争は皆無で、ここにも日本の美術団体の融合集散の典型があった。芸術論争の末の分裂なら慶賀なことだが、過去、現在、ニッポン国でおめでたい話は聞かない。

自由美術も賞など作って一からやりなおし、やっと70 年代に入って先が見えてきたのだが、有力作家が抜けたあとは百花繚乱とならずスケールはよほど小さくなった。退会者が立ち上げた主体美術も会場獲得や諸々で自由美術で培ってきたものが薄くなり得るところ無しとなり、世評の美術団体不要論に最後の軍配をあげさせた。美術団体が分かれて何かを成すという時代はとっくに過ぎていた。

これが私の話の前段で、その後の我が会の70 年代になるのだけれど、2017 年の今と比べて、良となったものについて次の様に思う。 1)から4)までにまとめてみた。

1)会員審査の問題

2)複数作品の展示者について

3)二段掛け三段掛けの展示

4)会の運営、運営委員の選出について

1)について自由美術は出品者と同様、会員も厳しくやっているという会員相互審査が売りで、会員作に対して出席者がボタンを押してA ランク、B ランク、C ランクに分別し、C ランクは陳列されないことにもなった(多い年は15 人ぐらいあり初日にならなければ自作が展示されているのかいないのかが判らず、案内状を出せない人もいた)。
 絵の良否など神様でも解らぬものを、考えてみれば乱暴なことなのだ。出品者の審査も無いのが理想だが、会風と展示壁面が有限だから今の方法しか考えが及ばない。作品の評価について私は小論文になるので書かないが、ボタン押しの独自性は内外に宣伝された。しかし世間一般、独自性と客観性は別物で、もしそうでなければ我が会の作品群は世界に誇るものになっていただろう。

2)会員の落選者が出る反面2点、3点の展示者が約70 人、選出の基準も藪の中で、主体との分かれの原因も会員作を大きさと展示点数にふるい分けをすることへの反発があった。

3)限りある壁面に優遇作者ありで、そのため壁面がますますせまくなり二段掛け三段掛けが多くなった。二段、三段作者はお互い作品が見にくくなるのは自明の理だ。あの頃の展示をなつかしく思う懐古趣味の人がいるが、上段に展示したことが無かった人だろう。今のように一人一点展示はわかりやすく気持ちが良い。自由美術のように出品者も含めて一段掛け展示がなされている会は無く、私達が過去から学んだ大きなことだと思う。

4)現在、会の運営は全てが明解になったわけではないが1997 年から隔年ごとの選挙で運営委員を選んでいる。70 年代は極めて気分的、曖昧模糊としていた。今、種々問題はあるにせよ過去と比べると光はすみずみまで照らされつつあるのではないだろうか。

退会者が出た60 年代は危機感をもった個々の会員は作品の研究会や小グループを作ったりして盛んに発表をし、各地域をみても特に秋田、静岡、中部、広島、大分の活動が盛んで70 年代は復元の時であったと思う。

私はあの頃から今まで優れて敬服する自由美術の作者は100 人ぐらいすぐ上げられるが、70年代復元丸の主たる航海長を3人挙げたい。一木平蔵、上原二郎、西八郎の各氏だ。

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一 木 平 蔵           F100

一木さんはいわゆる抽象派とみられているが、そうではなく守備範囲が広く、エコールを越えて欲張った百貨デパートのようだと作品を見ていつも思う。確固としたテツガクが超自信を裏打ちしていて、氏の批評を拠り所とした人をたくさん知っている。反面正直に批評をして嫌われたことも多かったのではなかろうか、作品は論より証拠で、発想、センス心情、形、色彩、マチエール、空間構成などなど、年令を重ねてもむずかしいことを背負って捨てず、絵が野放図にならなかった希有な人だ。昨年、会の小誌に一木さんを偲んで一文を書いたので詳しくは再読していただけるとありがたい。

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上 原 二 郎   60 号

上原さんは主体との分裂の立役者でもあり、あのころ上原さんの影響を受けた自由美術の作者は誰よりも多く、上原にあらずば人にあらずの感があった。上原さん諧謔と風刺の画家で通っているが、それは全体のほんの一部分で、言葉も好きな人でもあった、集めると優に一冊の本になる。失礼だが読むと面白い。以下少し抜粋、<私の絵は表現派だ。呪われた芸術。せっかちで美しくない芸術。あのドイツ表現派たちは私の兄だ>

<若イ人トクチヲキイテハイケマセン、美シイ女ハオソロシイ、コドモハ残忍ダ、> <見つけられるとすぐに叩き潰されるゴキブリが私なのだ。私の絵はグロテスクでひとを不快にし何の益もたらさないきたないもの。この哀れな絵たちに私は何と言ってやったらいいのだろう? >

<墓ノナイ者モ棺ニハ、イレラレル、魂ノナイ肉体ヲセメテ花デカザル、残サレタ者ノ宴会ノニギワイ、>これみな反語であり本質はこの言葉を裏返した世界だ。聖なるものと俗なるものをあふれるばかりに持った人でその二つの拮抗の上に画面があり美しく、私はしばし作品の前から離れることができなかった。立体、版画、日本画も描き多作の人で昔火災で初期の作品およそ300 点が焼けてしまったけど、身体から沸き上がってくるもの常人より多く、作品は次々に生まれ多作で、100 号なら2、3日で描けてしまうのではなかろうか。多作とスピードはこれ才能の現れで、画集から別紙に絵をなぞってみると極めて巧緻に計算されている。

私の絵は表現派というのは氏一流のてらいであって、ただ気持ちのまにまに筆を走らせているのとは全く訳がちがう。

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西 八 郎(60 号)

西絵画は日本の幻想傾向の作品にあって特異な光を放っている。シュールが日本で流行った時、日本作のほとんどが軽薄な絵空言であったが、西さんは現実の矛盾を直視、鋭く切り込み、幻想絵画の枠をはみだしレアリズム絵画で、ちまたにあふれた諸作の中の白眉と思う。上原さんが機関銃手だとしたら、西さんは一発秘中の狙撃手で画面からピリピリする息詰まる怖さがある。人それぞれ屈託があるがいつも西さんに絵を描くたのしみとかなしみが見えていて、時に私は絵を描きながら西さんを想う。

3人は作品の傾向も性格も絵に対する考えも全く違う。どれだけお互いを認めていたか、これもなかったであろう、仲がよかったとはお世辞にも言えない。でも共通項がある。それは井上長三郎星という恒星の周りを惑星のごとく回っていたこと、会以外でも3人は評価されていて(まだ70 年代は新聞、雑誌、美術批評といわれるものが僅かではあるが残っていた)それもあって自分の仕事に強力絶大なる自信を持っていた。又加えて戦闘的でカリスマ性がありその引力で人を引き付けた。70 年代この3人がいなかったら、自由美術は穏便、微風の風が吹く今とはずいぷん違った会となっていただろうと思う。

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