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自由
美術

2018

目次
50年前の思い出
北 村 隆 博・・・・・・・ 1
 
父と私の「自由」
西 中 良 太・・・・・・・ 2
(人 と 作 品)
赤荻賢司氏と私 ~アルモ工芸社を通して
小野田 勝 謙・・・・・・・ 5
 
鬼頭障氏の思い出
伊 藤 朝 彦・・・・・・・ 7
 
鬼頭嘩の生きた時代
ミ ズ テ ツ オ・・・・・・・ 9
 
大成瓢吉さんの明快
大 野 修・・・・・・・ 10
 
空中散歩館を訪ねて
手 島 邦 夫・・・・・・・ 13
 
田所幸一さんの人と作品
窪 田 旦 佳・・・・・・・ 16
 
U展の43年
加 藤 義 雄・・・・・・・ 19
佳作賞展をみて
竹井佑子さん・前田珠紀さん
宇 野 之 雅・・・・・・・ 21
 
濱野春美さん・越川道江さん
相 良 由 紀・・・・・・・ 22
 
立体
下 倉 節 子・・・・・・・ 23
展覧会より
鶴岡政男展を見て
田 中 秀 樹・・・・・・・ 25
 
伊藤朝彦個展雑感
市 川 秀 光・・・・・・・ 27
 
編集後記
(表紙 小西 熙)

50 年前の思い出

北村隆博

 
50 年前に自由美術で彫刻をした人々を回想すると、皆若かったしお互いがと言うより先輩は先輩で切磋琢磨され、後輩を導いてくださっていたと思う。また若い者達も自分の作るべき目標に向かって頑張っていた。大分記憶は薄れてしまったが、峯孝さんを筆頭に大村清隆さん新田實さん井上信道さんそして、年は少し若いが木内岬さん等がそれぞれの作品を造り、公園や学校等に作品を設置されていた。この先輩の姿を見て自由美術の仲間にしていただいたことを嬉しく思っていた。
彫刻部会があると殆どの人が寄り、お前の作品はどうかね、僕はこう思うよ・・・。もっとここを強調したらどうだろう・・・。と作品は目の前に無いのに良く見て下さっていて助言を頂いた。また若い者も論評した。作品を評することによって自分の作品がより立体的に見えてきた。先輩後輩というのではなく、彫刻を創作する仲間としてお互いが思うことを言い合い、飲みに行ってはどこでも話し合ったと思い出す。
当時の自由美術は日展の気持の眼と手で作る作風を貴しとせず心と手、思想、そして写実の眼、新しい世界を感じさせる感性で作ることを強く押し出していたと思う。このことは今の自分を支えてくれている。
前述の先輩諸氏は日展の出展を辞め、自由の地に制作の場を置かれたという。自由の思想はこの先輩達が作ってくれたものと思う。集会があれば会員としての責任を感じ、運営に協力した。事務局を担当してみると大変なことがある、でも協力しよう、しなければという会員としての、仲間としての気持ちが強かったので大変助けられたことを思う。
余談になるが、飯沢喜七さんの肝いりでペルーに出かけたりインドのラダック地方に曼荼羅探しにも出かけた楽しい思い出もある。 

父と私の「自由」

西中良太

 

60 年。私が直接的あるいは間接的に「自由美術協会」に関わった年数である。

私の父、西中博は1931 年(昭和6年)に生まれ、終戦後北九州の小倉に引き上げてきた。高校、大学時代と、肺を患い療養所にいた数年を合わせ10 数年、この地で過ごしている。学生時代と療養所時代から本格的に絵を描いていたようで、おそらく平野遼氏ともこの時期に出会ったらしい。その当時の小倉には糸園和三郎氏が「自由画室」を開いておられたらしいが、そこに父が行ったという話は記憶にない。いずれにせよ小倉に住んでいたことが自由美術との出会いの大きな要因であることは間違いないだろう。その後、岡山に転居し1958 年(昭和33年)第22 回「自由美術家協会展」に初出品をする。平野氏はこの年に会員になっている。翌年、父は2 年目の出品で会員に推挙された。父曰く、「どの会員ともつながりの無い人間だった」ので決まったらしい。当時の審査は、それこそ個々の作家の主体性と、存在をかけた戦場のような場であったと聞いている。そのころの父の絵は、アンフォルメルに影響されてか、内なるエネルギーを画布にたたきつけたような画面に、理性的な思考の痕跡を刻み込んだような作品だった。

1961 年(昭和36 年)私の誕生を機に大阪に居を移した。大阪にも「自由美術家協会」に関わる作家が何人もいた。物心つくころまで父のアトリエに訪れる「自由」の先輩諸氏の膝の上と、油と絵具が浸み込んだ床が、私の居場所だった。

1964 年(昭和39 年)の協会分裂時、父は会に残ることを選んだが、「自由美術家協会」から「自由美術協会」となった事については、「何故(家)をとってしまったのか。作家とは自由でなければいけないという大きな意味が変わってしまった。」ことを嘆いていた。

20 代から40 代(1950,60,70 年代)の美術界は、日本の美術史においても、父自身においても空前絶後とも言うべき濃密で、魂の揺さぶられる激しい時間だったはずである。わが身を置き換えて想像してみても、おそらく必死で時代に喰らいつき、潰されまいと如何に自己を主張するべきかで日々が走り去っていく。無我夢中の時間になっていたはずである。当時の話や、文献を読むにつけその時代を体感できなかったことをつくづく残念に思う。

1972 年(昭和47 年)第36 回「自由美術展」出品を最後に、翌1973 年退会する。父42 才、私はまだ12 才。現役時代を知らずに引退した野球選手の子供のようなもので、後々折に触れて当時の話を聞くようになるのだが、様々なエピソードが重なって、結局のところ何故退会に至ったのか、その真意は曖昧なままである。ただ、「協会と自らの主張の違いや乖離、人間関係」などではなく、父自身の絵描きとしての立ち位置の変化からくる、父なりの決意と、けじめの形であったのだろうと思っている。

実際、様々な昔話の中で「自由美術」に対する批判は一度も聞いたことがない。むしろその熱かったころの話を聞いて育ったからこそ、私も「自由美術」を選ぶことになったのだから。

父は生まれながらの絵描きではない。九州大学で哲学を学び、「評論を書くために絵を描く必要があった。」と言って絵描きになった、なろうとした。思うに、死ぬまで「絵描きとは何ぞや」と考え、命を削って絵描き足らんとし、まさに意図して絵描きであった。

その中で「絵描きとはアルチザンでなければならない。私はアルチザンになりたい。」という思いから「自由美術協会」を去る決断にいたったのではないかと思う。

退会してからの30 年間、生活の為でもあったが腕の折れんばかりに絵を描き続けた。花、山、川、海、街、人間、どんなものでもモチーフにしたが、それら全ての作品は「自由美術家協会」に出品していた頃と全く同じ視座で描かれた、まさに抽象画といえるものだ。

私が彫刻家を志し、もがいていた青年時代は、このような父の背中と共にあった。それ故、若いころに周りから聞こえてきた、作品を売ることへの蔑視すら感じる反感(作家自身の内なる矛盾と葛藤からくるものだろうが)には感化されずに育ってこれたことは、非常に有難く思っている。

私といえば学生時代、他の公募団体展に一度出品したが、そもそも旧態依然とした上下関係とヒエラルキーの上に成り立っているような団体の雰囲気には馴染めないところがあり、当時の恩師からも「君にはこの会は向いていないよ。」と言われた。10 年ほど公募展とは距離を置き、個展中心に制作をしていく中で、やはり、他の作品の中に身を晒すことで刺激を受けたいという欲求が強くなってきた。自分が出すべき「場」を考える上で、これまでの「自由美術」との縁(えにし)は特別なものではあるけれど、やはり決めてになったのは、父の友人でやはり元自由美術の富田氏から紹介された、峯孝氏の人柄と、「自由美術の中に「先生」はいない。」と聞き及び、ここしかないと思ったからである。私の周りには「自由美術」を離れた絵描きさんが何人もいたが、同じく批判めいたことは聞いたことはなく、私が出品することにも好意的な人ばかりだった。

1997 年(平成9 年)36 才で初出品。2003 年(平成15 年)第67 回展で会員に推挙される。私は父が退会した年齢と同じ42 才。父は翌年1 月、それを見届けるかのように73 才で逝った。もしかすると私はバトンを受け取ったのだろうか。

2018 年、私の会員歴は14 年間となった。父は14 年で会を離れたが、今ところ私が会を離れる理由は見当たらない。このタイミングでこのテーマの文章を書く機会を得たことに、あらためて何かしらの縁(えにし)を感じ、有難く思っています。

赤荻賢司氏と私 −アルモ工芸社を通して−

小野田勝謙

 

彫刻家・赤荻賢司氏が58 歳の若さで亡くなってから今年で28 年になる。30 代の時、赤荻さんの経営するアルモ工芸社にお世話になっていた私も63 歳。今振り返ると改めて赤荻さんの存在の大きさを実感する。

アルモ工芸社には武蔵美や和光大出身者が数名勤めていて、自由美術立体部会員も出入りしていた。私も彫刻を続ける為に、理解ある赤荻さんの元で働く事になったのだが、技術も知識も無い私にアルモ工芸社の人達は丁寧に仕事を教えてくれた。それが今の私の仕事を支えているのだから本当に有難い。

又、3 時のお茶の時間には皆で仕事や芸術などの会話を楽しんだ。そんな中、赤荻さんが彫刻家・木内克さんの弟子になりたかった事を聞いた時は、本当に驚いた。学生時代から木内克の彫刻に感動し、敬愛していた私にとって、こんなにも身近に、木内克のアトリエで制作を手伝った人がいるという事が嬉しく、大いに刺激になった。(実際、アルモ工芸社の庭には木内克の巨大レリーフ「コロナ」の型があった。それの小さいサイズの作品が現日本画廊の外壁に設置されている。)

年代は違えど、赤荻さんも私も具象彫刻から金属の抽象彫刻に移行した。赤荻さんは木内克の作品に魅了され武蔵美に入ってからずっと裸婦像を主に制作していたが、その後「自然界における右と左」という本を読み、一気に抽象にきり変わる。私の場合は、最初は金属彫刻を制作したかったが、大学で木内克作品に感銘を受け人体のおもしろさに惹き込まれてゆく。赤荻さんも私も武蔵美の学生時代から具象彫刻を自由美術に出品し始め、やがて金属彫刻に変換した。この共通点を考えると改めて赤荻さんに親近感を覚えるし、又、改めて赤荻さんの制作してきた作品の数々に敬意を払いたい。赤荻さんの金属作品は、右と左の特質・性質が絡みあって空間構成されていて独自のテーマを深く追求したものであり、他に類を見ない。赤荻さんの晩年には私も金属彫刻を手がけており、制作のお手伝いをさせて頂いた。赤荻さんの彫刻は非常に数学的で、緻密・繊細でもあり、それでいてできあがるとスケールの大きいものになる。今、赤荻さんが生きていらしたらどんな作品ができていただろう。そして私の作品をどう評してくれただろう。

現在も赤荻賢司作品は「内と外」(帝国ホテル)、「ストライプアーチ」(美ケ原高原美術館)、「歴層」(目黒・現代彫刻美術館)等、数々の場所で輝きを放っている。これからも時々赤荻作品に会いに、赤荻さんに会いに行ってみよう。

 赤荻賢司 略歴
1932 茨城県結城市に生まれる
1955 自由美術家協会展に出品、以後毎年
1957 武蔵野美術学校彫刻科卒業
1960 自由美術家協会会員となる
1975 第11 回現代日本美術展出品
1977 個展(ギャラリーオカベ)「右と左の空間」
1979 第1 回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞受賞
1979 自由美術賞受賞
1980 第14 回現代美術選抜展出品
1982 第14 回日本国際美術展出品
1982 第2 回個展(ギャラリーオカベ)「右と左の空間」
   野外彫刻とテキスタイル展出品(玉川高島屋)
1983 第3 回ヘンリー・ムーア大賞展 美ヶ原美術館賞受賞
1986 東京野外現代彫刻展招待出品
1987 個展(銀座兜屋、名古屋兜屋)
1989 現代茨城の美術展(茨城県近代美術館開館記念展)
1990 永眠 享年58 歳
1991 10 月 遺作展(茨城県民ギャラリー)

鬼頭 曄氏の思い出

伊藤朝彦

 

鬼頭曄氏についてと依頼されましたが、とても思い出せません。

卒業制作に、大作を皆の前に置いて見せてもらったことがあります。美男子の彼は自家用車をもってあっちこっちと個展を見て廻り話ずきの方でした。私が自由美術の会員になった頃、彼は卒業しパリに仕事をもちに出かける頃でした。帰国後紀伊国屋、西武美術館などでいろんな話があった様です。上野旧美術館での活動はパリから帰国してからのことで、個人の個展をよく見ていたし、酒も飲み大ゲンカをしたことなど、私の頭から抜けません。

細密な描写は日本画を学ばれたせいか小さいマチエルで小品でも驚くばかりの表現を見せられたものです。達者なフランス語で田賀亮三氏とペラペラしゃべっている雰囲気はそばにいた我々にも大きな刺激となっています。酒を飲み車の運転をするのですから、今なら大変な「違反」者といえましょう。

彼の葬儀では自由の仲間が多勢来ていました。かわいい娘さんと若奥様の姿を見て、あまりにも早い葬儀に残念な思いをさせられました。美校時代の同級生に八幡健二さんもおられたし自由の仲間を大切にし互いに励ましあったことは忘れません。

私の年から思い出して四、五十年たった回想でとても記憶と言えることはないのですが、楽しかった自由美術を又生み出し語りあいたいものです。

 鬼頭 曄 略歴
1925 東京世田谷に生まれる
1948 東京美術学校日本画科卒業
1949 ~ 1952 自由美術家協会展出品
1949 自由美術家協会会員となる
1952 フランス政府保護留学生
   パリ国立美術学校スーヴェルビー教室
   在仏17 年
1969.70 西武百貨店画廊(渋谷、池袋)個展
1972 ~ 自由美術展出品
1976 自由美術賞受賞
1994 永眠 享年69 歳

鬼頭 曄の生きた時代

水島哲雄 ミズテツオ(画家)

 

にこりとした。女の声のつややかなこと。

鬼頭 曄が日本で死んだ時

私はイタリアに滞在し、絵画制作に没頭していた。

死んだことは後から知った。

 

彼の口ぐせ画家は絵で食ってこそ画家であり

それ以外は皆すべて素人だ。

そういうパリ帰りの彼にあこがれ

 

彼を愛した女房どもは、

彼は画家よ、やだー男よ、可愛がってくれたわ。

そうね 何もかも命がけだったわ

 

あのカウンターのちょっと年のいった女、

いいな ねてみたいな

真冬のことだ。彼は上着をぬいだ。

老人ぽく見えた。

六十には時間があるように思えた。

彼は絵に対するエネルギー、

しぼりあげる生命力は

画家としての宿命を背おった

 

いつも 三ツぞろいの背広

ステッキ

すべてのエセ画家を馬鹿にするひとみ

そのひとみはかわいく 私はすきだった

 

誰がみても彼の絵とわかる、革命…。

画家なら女を利用するが彼はそのことに関して

は天下びと

パリの男と同等の役目をなし、芸術でも一歩

ぬきんで、日本の感性の美しさをみつけて

帰国

時々 ある時代には

そういう男が世に現われ

幸福をばらまき

哀しき男を演じ

選ばれし男は

世にいうピエロ

カフェの片すみ

女と男の生きてゆく

60 年は

0.5 秒の肉体は

求め合うほど

絵画は深みをまし

品性はほうかいし

リアリズムの

おとし子に 

変ぼうし

死は

一つの

格言をつくり

ゆりかごの

子等に

道をとく

あゝ

鬼頭 曄

さよなら

そして

アンシャンテ

 

 二〇一八・八・一六

 アマティにて

大成瓢吉さんの明快

大野修

 

編集部から大成瓢吉さんについての原稿依頼をうけた。大成さんは自由美術は勿論のこと他の世界でも活躍され、その影響を受けた人はたくさんいるが、今の若い方の記憶にないかも知れないので、簡単画歴を記すと1927 年岡山県生まれ、東京美術学校入学、1960 年自由美術協会の会員となる。

紀伊国屋画廊など企画個展、グループ展など多数、安井賞展、読売と日本アンデパンダン展に出品、平和賞を受賞、講演会や音楽、舞踏の発表会にも参加し主宰もされる。2006 年逝去。過去、東京の自由美術の会員でつくられたグループが沢山あった。濁、証言、視群、黒の会、列、三人の会、むさい、などなど、一家言ありの猛者がいてその数40 人は下らない、紙面を食べるから名前を列挙することは出来ないけど、大成さんは濁というグループを率いて運動を引っ張った。私は大成さんほど多方面で創作活動をした人を知らない。絵画はもちろん、立体作品、写真、映像、舞踏、音楽演奏。ピアノ、ドラム、シタール、ギター、笛、シンギングボール−−−−をともなうパフォーマンス、大成論の講演会、少しその様子を垣間見ると、朝日カルチャーセンター主催のパフォーマンスを企画された時、

その六夜にわたったタイトルをあげるので想像してほしい。舞台には大成さんのさまざまな影像が投影され現代a r t の話しからはじまる、第一夜>映像をバックにベースと踊り 二夜>落語、お囃子−−−お祭り気分 三夜>音楽に合わせて自由なポーズ  四夜>天上的な気分を楽しむ  五夜>教室は別世界になった  六夜>アフリカ気分を満喫。新宿の朝日カルチャーセンターでは音楽、映像を伴った身体をぶっつける気迫の講座は断トツの人気で、その講座から自由美術に出品した人、会員になった人も出た。それらの活動についてはたくさんの評者がくわしく書いて発表されているのでそちらに譲るが、私は大成さんの創作活動は一番絵に集約されていると思うから、絵を反芻したい。

初期は牛、野菜などを描いたタッチが踊った軽快な作品で、暗い絵が多かった自由美術の作品の中で目立っていた。それに自由美術の作品を反面教師的に見ていたように思う。しばらくして抽象的表現になるのだがその姿勢は一貫していて、形と色彩が不可分のものとしてあり、①形は意志が通り明快でなくてはならぬうじゃうじゃ気分的にごまかすな、②色彩の純度を高めよ暗くて味っぽい色から抜け出せ、③マチエールの先追いをするな、④音楽的要素ムーヴマンを心がけよ、⑤カラッと行け深刻作品はダメぞ! −−−大成さんの作品の変転は年月と共に徐々に培われたものだが、その経過の中でも、38 才の時にキューバの世界青年友好祭に日本美術会から派遣されたメキシコなど南米の旅。48 才中近東ヨーロッパ遊泳。51 才中南米美術研修旅行。54 才インド、スリランカの旅。56才ニューヨークでの現代アメリカ美術の研究。など日本を外からみたその見聞を経て作画の確信を強く持たれたのだと想像する。

美術出版社が出した 大成瓢吉の空中散歩という大部の画集があるが、その中に、<私にとって線は大事な要素だ。五感に何かを感じたら、ほとんど動物的な衝動に駆られて手を動かす。テンションを高め、わくわくした線を引くことができれば、線は自在に動いていく、自然の中で、宇宙の振動に身を任せて描いてゆきたい>という言葉がある。又<色も音も波で出来ていて、基は同じだ、音のように色彩を使いたい>という、音楽的で明朗で天上的な作品が生まれる。大成さんは他人に気を使う屈託のない人だが、それは氏の何十分の一側面でどのような人であったかを私は述べる資格はない。しかしこれだけは言える。奥様の節子さん(自由美術の会員)お子様の恵さん、教え子、友人、知人−−−−これほど人に恵まれた人はいない。

惜しむらくは自由美術を奥様と共に退会された。これは我が会に問題非があり、子細は述べないが歴史はくり返してはいけない。

私たちの作品の大方は私をふくめてdream island に行くのであるが、箱根、湯本に空中散歩館を建てられた。そこには瓢吉、節子、恵さんの作品が展示され、ピアノをはじめ種々の楽器がおかれ、くつろげる空間となっている。ここに大成さんの一文がある。<このアートスペースは生活空間の中にあり、制作・発表・収蔵を直結させる構想を実現させたものです。空中散歩館と名づけたのは、私の作品のテーマが浮遊感覚と生きる喜びや開放感といった内容だからです。ここの自然環境の中で作品を見る、動かす、触る、音を出す−−−好きなようにゆっくりと時間を過ごして下さい。アートはあなたのすぐ隣りにあります。常に進行形で、今日的な美術館であることを希っております>

私にとって大成瓢吉さんの世界は、深い洞窟の底から青天を望むがごとく、あこがれの彼岸でありうらやましく思う。 (下線大野記)

 大成瓢吉 略歴
1927 岡山県に生まれる
1944 上京、川端画学校に入る
1946 東京美術学校中退
1949 杉並区荻窪にアトリエを建てる
1952 自由美術家協会展出品 84 年まで
1958 ~ 86 大成絵画教室を主宰
1960 ~ 80 日本アンデパンダン展出品
1960 自由美術家協会会員となる
1969 自由美術展平和賞受賞
1974 朝日カルチャーセンター(新宿)の講師となる
1976 ~ 86 紀伊国屋画廊個展(7 回)
1984 自由美術協会を退会し、無所属となる
1988 湯河原に転居、空中散歩館が完成
2006 永眠 享年79 歳
2007 1 月 大成瓢吉展(紀伊国屋画廊)

空中散歩館を訪ねて

手島邦夫

4 月27 日午前9 時半、東京駅ホームで西村さんと待合わせ、東海道線で湯河原駅へ。途中の車窓から間近に見える海が美しい。駅からバスに乗り終点鍛冶屋で下車、静かな畑の道を5分程歩くと右側に見えてくる大きな倉庫のような建物が空中散歩館である。入口の扉を開くと高い天井、白い壁の開放的で広い空間が広がる。右側の壁にはオレンジ色が美しい200 号の「讃歌」(1992)、その隣に黒と青の「旅立つ青」150 号(1995)。正面には節子夫人の120 号~60 号の淡いグレーの作品が数点。大小の作品のかかる壁面の前の床には、次女の恵さんの立体作品などが直に置かれている。部屋の角にはグランドピアノ。館の左奥は作品の収蔵庫になっており、その1 階・2 階には大きな作品がぎっしりと詰っている。

昨年開かれた第70 回日本アンデパンダン展の企画展示「春を待ち、闘った、激動の60 年代美術」に出品された大成さんの「乳房」は、膝を折って憩う雌牛の姿を画面一ぱいに描き、その強く的確なリアリズムの表現は会場の中で一きわ異彩を放っていた。恵さんによるとこのような描き方の時代はとても短い一時期だったとのことである。

恵さん姉妹お二人から昔の話をいろいろとうかがった。大成さんは22 歳で荻窪にアトリエを建て、結婚・相次ぐ子供さんの誕生と続く中、昼の間は生活の為の仕事に追われ、制作はいつも夜中であったこと、夫婦で開いた絵画教室は評判で生徒の親御さん達から多くの支援・援助があったこと、とにかくいつでもどこでも多くのスケッチを欠かさなかったこと等。また荻窪から湯河原に引越す際、古い作品をかなり処分してしまったそうである。

お二人が収蔵庫の奥から苦労して取り出して見せてくれたのが掲載写真の作品である。恵さんがタオルでふくと、黒い画面がはっきりと現われた。手製のキャンバスと木枠による60 号P型。裏に出品票の貼付はないが、チョークでの4 桁の数字と○印が認められるので自由美術に出品をはじめて間もない頃の作品であろう。古い出品目録によると大成さんの初出品は1952 年16 回展の「椅子」で、17 回展「作品」18 回展「立つ人」19 回展「出来ごと」と続いている。この作品は19 回展出品の「出来ごと」ではないかと思われる。当時の作者の置かれた状況の痛みが具体的・切実に笑いさえも交えて表現されている。最近このような作品を見ることはなくなってしまったとの感慨にひたり、しばらくの間見入ってしまった。その後「船」を経て「崖の根」「這う根」「根塊」「落ちる木」「落ちる根」「土塊」「風景」など従来あまり絵にされてこなかったものを主題とした連作へと続いている。

1970 年代以降新宿の紀伊国屋画廊、吉祥寺の画廊駱駝館での個展で作品は具象的なものから次第に色彩鮮かな抽象作品へと変化して、その後は映像・音楽・舞踏との交流を深め、パフォーマンスを多く手がけるようになる。私も淡路町画廊の個展の暗くなった会場で、大成さんの手に持つ鮮かな色彩光線に照らされた記憶がある。大成さんの初期から晩年までの大きな軌跡を、例えば葉山の神奈川県立近代美術館のような広い会場で通して見てみたいものだと思う。

西村さんが古い「アトリエ」のコピーを持参してくれた。その中に心に残る一節があった。少し長くなるが引用させていただく。

初出品の頃 大成瓢吉「当時食う為の同じ仕事をやっている仲間から自由美術のこと等も知り、又他の人にも奨められ公募展には初めて出した。1952 年16 回自由展で初入選、もう25歳、二児の父親となっていた。身近かな人達の絵を識って見ると、それらの作品は自分達の立っている地盤からの“仕事”であることを感じた。私は同世代のように仲間で飲み、語り、ひたすら勉強を続けた青春ではなかった。生活は一刻も待ってくれず歯ぎしりの連続であった。遅ればせではあったが自分の経て来たこの生活を土台として、ギリギリの中での手製のキャンバスに描きえのぐが厚くなると裏からお湯をかけて剝しそれを繰り返しながら、黙々とやる他はなかったのである。」(1969 年2 月アトリエ№ 504)

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空中散歩館 
神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋813-7 ☎0465-63-5283
www.facebook.com/walkinthecosmos  ※クリックで拡大
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田所幸一さんの人と作品

窪田旦佳

 

田所さんとの最初の出会いは、浦和の県立図書館ホールでのグループ展だった。図書館ホールは県立図書館の入口近くにある展示室で、小さなグループ展ができる程度の広さであった。そこに150 号ぐらいの大作2 点を搬入してきたのが田所さんであった。はたして展示できるろうかと思われる程であったが、無事展示して、その後何回か図書館での展示が続いた。

会期中に埼玉会館の建設の準備中だった設計者が展示を見に来て、埼玉会館の中に展示室を計画していると話していたが、1966 年に埼玉会館が完成し、1967 年から使用が可能になった。埼玉平和美術展などがその広い会場を使って毎年開かれた。田所さんも私も出品して、田所さんと親しくなり、搬入搬出をお願いしたり、お互いの家にたびたび訪れ、行き来するようになった。

田所さんは、高萩市の大きな書店の9 人兄姉の末っ子で、屈託のない大らかな性格で、すぐ親しくなった。武蔵野美術大学時代に学生結婚の奥様もやさしいおだやかな方であった。奥様は福井県の出身と聞いて、私も福井県生まれなので何となく親しみがもてた。

田所さんの家は、浦和の郊外の小高い台地の中の住宅地にあった。浦和のさぎ山も近く、さぎの絵も多く描いている。近くの見沼用水の歴史にも関心があったようで、平凡な風景にも歴史があり、住んでいる人達の心にもさまざまな感慨があり、それらを感じながら絵を描くことが楽しいと語っていた。

田所さんの風景画は、この浦和郊外の田園風景がモチーフになっている。朝もやの中に浮かぶ黒々とした樹木、白い空間に広がる田畑の起伏や、川の土手や道の傾斜など、平凡な風景の中にも様々な変化を見つけると同時に大胆に単純化し、白い背景にはけにつけた墨一色で樹木や丘を描いて、極度に単純化されたモノトーンの印象深い画面を創りあげている。

1970 年には、シェル美術賞2 等賞を獲得し、芸術生活画廊コンクールにも入賞して、同画廊で個展を開いた。この画廊での個展は風景画をはじめ、人物像、さぎの絵なども並び、この時期の秀作が並んだ充実した個展であった。

その後、フランスに渡り、1977 年まで約2年程滞在して制作を続けていた。ヨーロッパ各地を旅行してスケッチをしたり美術館等を巡り、充実した日々を送っていたようである。パリの公園のベンチにたたずむ老人達を描いたのはこの時期で「しんぶんおじさん」「ハトおばさん」「ふたりのおじさん」等、何かペーソスを感じさせる人間味あふれる連作が生まれた。その後、モロッコまで足をのばし、異色ある人物画を残している。

1978 年には、作品「かさおばさん」で自由美術賞を得ている。この作品は白いベンチに丸いかさをさすおばさんと、三角のかさをさしているおばさんを並べて描いた造形的にも印象的な作品であった。この年には、「樹下の人」や「読書する人」などグリーンが効果的に使われている作品も目立つ。

1979 年には、シェル美術賞一等賞となり、文化庁主催現代美術選抜展や、翌1980 年のシェル美術賞歴代受賞作家展など多くの展覧会が続いた。

田所さんは、健康には特に気を使っており、毎日適度の散歩をしたり、酒やタバコにも縁がなく、いたって健康そうな日常であった。しかし、腎臓を患うようになり、透析に通うようになってしまった。病院に行く時は自分で車を運転していたが、帰りは疲れて奥様に運転してもらったようである。

2007 年の4 月、突然田所さんの訃報を聞いて驚いた。丁度私自身入院中で葬儀にも行けず残念であった。退院してすぐ焼香にうかがったが、奥様が傷悴しきった様子で気のどくであった。

U展の会期中に埼玉県立近代美術館の階段を降りて行くと、控室で快活に話す田所さんの声が聞こえてくることが多かった。その言動はズバリと本質をつき、卒直で明快であった。作品もその人柄そのものと云えると思う。

志の高い田所作品の数々は、清澄なエスプリにあふれ、その人柄とともにいつまでも心に残っている。2007 年4 月没   享年69 歳

 田所幸一 略歴
1936 茨城県高萩市に生まれる
1961 武蔵野美術大学西洋画科卒業
1960 ~ 77 日本アンデパンダン展出品
1961 ~ 82 平和美術展出品
1967 ~ 82 埼玉平和美術展出品
1968 ~  自由美術展出品
1970 シエル美術賞展2 等賞  芸術生活画廊コンクール入賞
1971 自由美術協会会員となる
1971、73、74 シエル美術賞展佳作
1975 ~ U展出品
1978 自由美術賞受賞
1979 シエル美術賞展1 等賞 現代美術選抜展出品
1984 現代茨城の美術展出品
2007 永眠 享年69 歳
2009 4 月 遺作展(埼玉県立近代美術館)

U展の43 年

加藤義雄

 

この文を書いている1 週間ほど前U展の仲間と飲んだが、それがもう半年前の飲み会のように思える。とくに最近は時間が遠ざかる速度がいやに早い。ところが遠い昔のことは、そんなに遠ざかっていない。鮮明な記憶が残って自分の中の1 ページを飾る。若い時代は感じる力が強いからであろうか。

43 年前の創立のとき、参加者全員が浦和会館に集まった時自分は「オオオー」と声を上げた。それは仲間の女性陣がまれに見る美人ぞろいだったためだ。若かったからでなくタイプの女性ばかりで、幸運をさずかったようでうれしかった。その時、故田所さんがこう言った。「カトーさんが喜ぶと思って人選した」と。今はこういう言動はツツシマナイトいけないとはさびしいことである。そのあとも不思議といわゆる閨秀作家が変わるがわる参加してくれた。そのハナヤギが43 年間のU展を支えた。

ところでこの43 年間で一番大変な思いをしたのはやはり3.11 の東北大震災であった。U展は3 月~ 4 月の展示スケジュールのためすでに案内ハガキ・ポスターなど発送ずみで、中止の応対がむずかしかった。出品者へ中止決定の通知や、主な来館者にも中止のハガキを送付したりでなんと18 万円の赤字を出し、泣いた。

大地震はやむを得ないとしても、原発事故で美術館が開けないというのは納得いかなくて、天然ボケの自分もこの時は天を仰いだ。

もう一つ、どこかで書いたかもしれないが忘れられないことがある。2006 年の多摩信ギャラリーでの林ヒサさんの遺作展である。田所さんが全作品を貰い受け、水街道のトイレの水も出ないぼろマンション(水街道で水が出ないのです)に収納。会場への搬入直前に田所さんが倒れて、急遽故原田映爾さんに運送を頼んだが、集合の南浦和駅前に1 時間待ったが車がこない。電話も通じない。小雪まじりの寒い日で、後日彼は雪が降り出し中止と思ったと言った。2 ~ 3 日して連絡がとれ、水街道に出かけたが雪がマンション前に残り滑った。風がとても強くて、100 号の作品を何点も3 階のせまい階段を降ろして飛ばされそうになりながら車に載せるのに往生した。展覧会は自由多摩グループの皆さんの協力で成功した。

1999 年、テレビ埼玉の「美術の窓」という2時間番組でU展の全作品を放映してくれた。その冒頭でU展の紹介と挨拶をした。まだ田所さんや石川さんも元気だったが、自分がやることになった。テレビで3 分間話をするのがこんなに大変だったとは知らなかった。

原稿を書いて控室で何人かの仲間を前に暗記した。励まされてカメラの前に立ったが案の定上がってしまった。2 つ下の弟がビデオを見て「ふだんペラペラあることないこと調子に乗っている人間が、まったく肝心なときダメなんだからヨシオは!」と嘆いた。しかし世の中はおもしろいもので、故赤木さんがそのビデオを見て「しらなかったよ、カトーさん、ほんとは真面目な人なんだ」と言って「自由の本展の会計をやってもらいたい」とオダテラレて引き受けてしまった。そのあと展覧会部長も引き受けてしまった。

U展で、いつごろから合評会を開くようになったかは定かではないが、上原二郎さんと原田映爾さんが元気なころは、ハニコロモヲキセヌ話しぶりに女性の出品者が泣き出したことがあった。自分が司会をやっていたのでよく覚えているが、「だいじょうぶ。作品について話しているので、貴女が悪いわけではないヨ」と取りもってみたが、ヤメテヤルと云い出したらどうしようと心配した。しかし今はそれも懐かしく、逆に自分を鬼にして(していたかどうかわからないけど)まで自分が感じたことを卒直に発言することはとても勇気がいることだ。

現代ではソンタクとか空気を読むとかがハヤリのようで、自由美術もそのハヤリヤマイにかかり何か無風にただようような感じである。

43 年間にはここに書けないこともあったことを述べるにとどめて、報告かたがた思い出というか記憶の断片を書きとめた。

今回の埼玉での展示においでくださった自由美術の幹部の方々から「もったいない。こんないい展覧会を終わりにするなんて」とおシカリを受けた。やはり展示を見て仲間の若い人たちには続けたいの声もあり、まとめてくれる人の出現を待っているところだ。

作品集の中のあいさつで述べたが、自分自身を含め体力の限界がみえてきて、本展出品作もおぼつかないようであるが、最後に本音を白状すればU展の加藤一党体制を一度解体して新しい風が吹くこと願ってのことだとキレイゴトをならべて終りにします。永い間、ありがとうございました。

展覧会より

鶴岡政男展を見て

田中秀樹

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夜の群像 1949 油彩板 130.5 × 162.0cm

大変お恥ずかしい話であるが、私にとって鶴岡政男の作品をまとめてみるのは今回が初めてである。自由美術の会員としてはありえないような話であるが、なぜか機会に恵まれなかった。10年ほど前、神奈川県立近代美術館で展覧会が開催され、自由美術でも大いに話題となったが、様々な都合から出掛けることができず見損なっていた。今となっては返す返すも残念としか言いようがないが、それだけに今回の鶴岡政男展には大きな期待があった。

私が自由美術を知った頃、鶴岡政男はすでに伝説の人であった。以来それほど詳しいことを知ることもなく“鶴岡政男なくして自由美術は語れない”といったセオリーのみが常に頭の片隅にあった。そうして迎えたこの日であったためか、会場を一回りすると十分な手ごたえを感じて胸が熱くなった。

個人的には彼の代表作とされる“重い手”周辺の作品が好きで、今回も“夜の群像”が魅力的に感じられ,作品の前で足が止まった。そこに描かれた人物の形や動き、そして色合い。また粗目のタッチとそこから生まれる絵の具の重なり…。どこをとっても私には申し分のない感動的な内容であった。画面そのものの魅力とともに全体から発せられる当時の抑圧された社会へ向けての精神的な主張に非常に深いものが感じられて引き付けられた。そのままかなり長い時間作品の前に佇んでいたように思うが、作品を見ながら鶴岡政男の精神性を見てとろうとの意識が強く働いた。おそらく彼の生き方から来るものであると思われるが、作品を見る場合もその精神性を意識してしまう。“夜の群像”に限らず彼の作品には精神面を強く意識させるオーラが感じられる。

一巡りしてまた入り口に戻り最初から見直した。今度は、鶴岡氏ご本人の娘さんたちを描いたというガラス絵と、“転がっている首”と題された塑像に目が止まった。ガラス絵はどの作品も単純化されて絵本にでも出てくるような可愛らしい女の子の絵である。塑像は、細かな形には一切こだわった様子がなく、文字通り転がっているといった風の作品であるが、その力強い塊の感じが実に心地よい。いずれの表現もなんと自由なことか。立体については彫刻家の木内克に手ほどきを受けたとされるがそのあたりからも鶴岡政男の自由な精神が感じられる。

釣り好きな私にとっては、“獲物”“蟹( デッサン)”あたりの作品も非常に興味深かった。そうした作品を見て進みながら、はてはご本人自作の釣竿である。そこにいたって思わず笑ってしまった。ここまでやるかと…。さらに、釣りに出かけて大漁の際には友人に配ったというから面白い。戦争、友人の死、そして自らの生活苦等多くの苦労があったかと思われるが、そうした苦労をみじんも感じさせないおおらかなエピソードである。このおおらかさは、彼本来の自由な精神と、表現あるいは制作そのものに向かうことで得られる充実感によるものであったろうか。

繰り返し会場を巡りながら何よりも驚かされたのは彼の表現の多様さとその変化の有り様である。さほど長くはない期間に表現がどんどん変わる。そのめまぐるしさに圧倒された。鶴岡政男の絵のスタイルにおける旺盛な変貌ぶりは繰り返し言われてきたところであるが、これほどまでとは思わなかった。しかし、その作品はどれも不思議なリアリティーを感じさせる。様々な文献を見る限り、また彼が残した多くの作品を見る限り、彼は何物にもとらわれない自由な精神の持ち主であった。絵に於いてもまた日常生活に於いても羨ましいほどに自由であった。そしてその自由さが事の本質に向けて、或いは真実に向けて掘り下げずにはいられない彼のエネルギーへと紡がれていったのであろう。結果の良し悪しはともかく、表現スタイルを次々と変えながら、その一つ一つに彼なりの必然性があり、そこにのめり込むようにして集中していったに違いない。自分を、周囲の人々を、そして社会全体を鋭く見つめながら内に込み上げてくるものを正直に彼独特のリアリティーで表現したものが今、目の前に並んでいる作品群なのだ。

私自らの姿勢に大きく響き渡る、実に充実した一日であった。

 

伊藤朝彦個展雑感

市川秀光

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永眠 F50 号

都美術館改修前のことだから、もう 20 有余年にもなる。自由展の会場に至るロビーで、日も暮れかかって、薄明るい空間に、連れ立った家族の群れる景色が脳裏に焼きついている。荒涼とした原野に、親鳥が羽ばたいて、逃げる小鳥をしゃにむに追いかける様に似て、浮き浮きと喜びに溢れていた。彼の口からは、家のことなどは聞くこともなかった。妻や子、孫に、いかほどの深い情緒を注いだ景色かと思われる。

作品番号8「永眠」F50 号

春の日の明け方、潤いに包まれた中で、妻は、布団から、裸足を出して床についている。周りで鳥が囀り、猫がねそべっている。一寸、微笑みたくなる絵だ。妻の決別を内に秘めて、筆を走らせる。何を伝えようとしているのか。

作品番号1「家族」

陽光のふり注ぐ中、人、人、人が、天空に向かって腕を突き上げている。力強い躍動感に満ちた絵だ。何処かに、光明を求めた作品だ。新しく生きる力を感じさせる。

伊藤さんの作品を長い間見ていると、人の生きる原形を家族の実相の中で、辛抱強く思慮を重ね、「生きること」の意を、追い続けたと思われる。このことは、人間そのものへの思考を深め、敬愛と尊厳を昇華させる道程のように思われる。さらなるご活躍を。

何とも貧弱な感想で申し訳ありません。敬愛の祈りをこめて。

◆ 編集後記◆

1970年代 初日の朝 自由美術展の会場に入るとピリピリとした緊張が伝わり気持が引きしまったものである。

当時今も深く記憶に残る作品を描いた作家ですでに故人となった人も多い。

その頃からマスコミでは次第に団体展を扱わなくなった。現在その遺作にふれる機会はほとんどない。また残された作品の散逸も心配される。作家の記録を残し、その作品に再び光があたる日のくることを切に願うものである。その土壌から自由美術の次の作家達が出てくることを期待したい。

このたび編集部に多胡宏さんが参加して下さることになりました。

中尾知子さんの遺族の方よりおたよりをいただきました。阪神淡路大震災の折、愛犬シェパード2頭が予知、難をのがれ以後犬を描くようになったとのこと、また終生独身でした。