自由美術協会

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父と私の「自由」

西中良太

 

60 年。私が直接的あるいは間接的に「自由美術協会」に関わった年数である。

私の父、西中博は1931 年(昭和6年)に生まれ、終戦後北九州の小倉に引き上げてきた。高校、大学時代と、肺を患い療養所にいた数年を合わせ10 数年、この地で過ごしている。学生時代と療養所時代から本格的に絵を描いていたようで、おそらく平野遼氏ともこの時期に出会ったらしい。その当時の小倉には糸園和三郎氏が「自由画室」を開いておられたらしいが、そこに父が行ったという話は記憶にない。いずれにせよ小倉に住んでいたことが自由美術との出会いの大きな要因であることは間違いないだろう。その後、岡山に転居し1958 年(昭和33年)第22 回「自由美術家協会展」に初出品をする。平野氏はこの年に会員になっている。翌年、父は2 年目の出品で会員に推挙された。父曰く、「どの会員ともつながりの無い人間だった」ので決まったらしい。当時の審査は、それこそ個々の作家の主体性と、存在をかけた戦場のような場であったと聞いている。そのころの父の絵は、アンフォルメルに影響されてか、内なるエネルギーを画布にたたきつけたような画面に、理性的な思考の痕跡を刻み込んだような作品だった。

1961 年(昭和36 年)私の誕生を機に大阪に居を移した。大阪にも「自由美術家協会」に関わる作家が何人もいた。物心つくころまで父のアトリエに訪れる「自由」の先輩諸氏の膝の上と、油と絵具が浸み込んだ床が、私の居場所だった。

1964 年(昭和39 年)の協会分裂時、父は会に残ることを選んだが、「自由美術家協会」から「自由美術協会」となった事については、「何故(家)をとってしまったのか。作家とは自由でなければいけないという大きな意味が変わってしまった。」ことを嘆いていた。

20 代から40 代(1950,60,70 年代)の美術界は、日本の美術史においても、父自身においても空前絶後とも言うべき濃密で、魂の揺さぶられる激しい時間だったはずである。わが身を置き換えて想像してみても、おそらく必死で時代に喰らいつき、潰されまいと如何に自己を主張するべきかで日々が走り去っていく。無我夢中の時間になっていたはずである。当時の話や、文献を読むにつけその時代を体感できなかったことをつくづく残念に思う。

1972 年(昭和47 年)第36 回「自由美術展」出品を最後に、翌1973 年退会する。父42 才、私はまだ12 才。現役時代を知らずに引退した野球選手の子供のようなもので、後々折に触れて当時の話を聞くようになるのだが、様々なエピソードが重なって、結局のところ何故退会に至ったのか、その真意は曖昧なままである。ただ、「協会と自らの主張の違いや乖離、人間関係」などではなく、父自身の絵描きとしての立ち位置の変化からくる、父なりの決意と、けじめの形であったのだろうと思っている。

実際、様々な昔話の中で「自由美術」に対する批判は一度も聞いたことがない。むしろその熱かったころの話を聞いて育ったからこそ、私も「自由美術」を選ぶことになったのだから。

父は生まれながらの絵描きではない。九州大学で哲学を学び、「評論を書くために絵を描く必要があった。」と言って絵描きになった、なろうとした。思うに、死ぬまで「絵描きとは何ぞや」と考え、命を削って絵描き足らんとし、まさに意図して絵描きであった。

その中で「絵描きとはアルチザンでなければならない。私はアルチザンになりたい。」という思いから「自由美術協会」を去る決断にいたったのではないかと思う。

退会してからの30 年間、生活の為でもあったが腕の折れんばかりに絵を描き続けた。花、山、川、海、街、人間、どんなものでもモチーフにしたが、それら全ての作品は「自由美術家協会」に出品していた頃と全く同じ視座で描かれた、まさに抽象画といえるものだ。

私が彫刻家を志し、もがいていた青年時代は、このような父の背中と共にあった。それ故、若いころに周りから聞こえてきた、作品を売ることへの蔑視すら感じる反感(作家自身の内なる矛盾と葛藤からくるものだろうが)には感化されずに育ってこれたことは、非常に有難く思っている。

私といえば学生時代、他の公募団体展に一度出品したが、そもそも旧態依然とした上下関係とヒエラルキーの上に成り立っているような団体の雰囲気には馴染めないところがあり、当時の恩師からも「君にはこの会は向いていないよ。」と言われた。10 年ほど公募展とは距離を置き、個展中心に制作をしていく中で、やはり、他の作品の中に身を晒すことで刺激を受けたいという欲求が強くなってきた。自分が出すべき「場」を考える上で、これまでの「自由美術」との縁(えにし)は特別なものではあるけれど、やはり決めてになったのは、父の友人でやはり元自由美術の富田氏から紹介された、峯孝氏の人柄と、「自由美術の中に「先生」はいない。」と聞き及び、ここしかないと思ったからである。私の周りには「自由美術」を離れた絵描きさんが何人もいたが、同じく批判めいたことは聞いたことはなく、私が出品することにも好意的な人ばかりだった。

1997 年(平成9 年)36 才で初出品。2003 年(平成15 年)第67 回展で会員に推挙される。私は父が退会した年齢と同じ42 才。父は翌年1 月、それを見届けるかのように73 才で逝った。もしかすると私はバトンを受け取ったのだろうか。

2018 年、私の会員歴は14 年間となった。父は14 年で会を離れたが、今ところ私が会を離れる理由は見当たらない。このタイミングでこのテーマの文章を書く機会を得たことに、あらためて何かしらの縁(えにし)を感じ、有難く思っています。

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