自由美術協会

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展覧会より

緑想試論

−黄緑色三昧− 平澤重信展

山口雄一郎

2019年4月3日㈬~22日㈪  山口画廊(千葉市)

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黄緑色社会 −トリ− 2019

平澤さんの個展は、今回で15 回目となる。当店では最も早くからお付き合い頂いて来た作家の一人であり、その間作風も多様な変遷を見せつつ今に至る訳だが、こうして振り返ってみると、時々の表現がどんな変化相を見せようとも、全く変る事のない基調音が、制作の根底を高く低く貫いている事に気が付く。ちなみに、このような現象を喩えて「通奏低音のように」という言い回しが散見されるが、これは言葉の誤用である。バロック音楽をお聴きの方ならご存知の事と思うが、当時は和音の根音(一番下の音)だけを書いておいて、その上の音は数字で指定するという略譜が、広く行われていた。演奏者はそれを見ながら、即興的に和音の伴奏を付けてゆくという具合で、その数字の付された根音がいわゆる「通奏低音=コンティヌオ」であり、現在で言えばジャズやロックで用いられる「コード」と、ほぼ同じ意味の言葉だ。よって「通奏低音のように」という言い方は、全く比喩になっていない。昨今は新聞の論説委員までがそんな誤用をして恥じないが、それを言うなら「持続低音=オルゲルプンクト」であり、広義には「ドローン」という言葉が、最もその意味する所に近いだろう。脇道が長くなったが、それを踏まえつつ話を戻せば、上記の文章は「変る事のない基調音が、根底をドローンのように貫いている」云々と言い換えても、比喩として問題はないのだろうけれど、あえてその言い方をしなかったのは、根底を流れるその基調音が「低音」には感じられなかったからである。「ドローン」とは長く持続する低音を指す訳だが、平澤さんの絵から響いて来る持続音は、決して重く鈍い低音ではない。それはもっと柔らかな中音域に在って、そこはかとなく微かな風のように、耳を澄ませば何処からともなく聞えて来る、醇乎に透き通った和音の響きだ。哀しげでありながらほの明るく、重く沈むよりはむしろ軽やかで、言うなれば短和音に長和音が仄かに混和したような、不思議な色彩を醸し出す響きである。例えるなら、ドビュッシーの楽曲を形成している、あの短調とも長調ともつかない、自在に調性の狭間を浮遊する和声。視覚的にその色を挙げるとしたらどうだろう、これはあくまでも私感に過ぎないが、今回の展示会タイトルにもなっている黄緑色に、淡い灰青色をミックスしたような、端的に何色とも言えない陰影を湛えた、極めて微妙な色彩である。今までの案内状を顧みると、初期の青緑色を主体とした画面から、徐々に黄褐色系の画面へと移行し、近年は様々な色系が混在する画面へと、現実の色彩はその画面上で、様々に変化を遂げて来た訳だが、その根底を貫いて来た潜在的な色彩、それを精神の色調と言って構わないのであれば、その色調=基調音は全くと言っていいほど変っていない。正にその基調音こそ「平澤重信」という画家のアイデンティティーであり、揺らぐ事のない芯なのだと思う。それはいつも多様な展開を見せるカンヴァスの下で、透き通るように淡い哀しみを、今日も密やかに放ち続けている。

別に平澤さんの芸術を分析しようなどと、そんなおこがましい事は考えてないのだが、こうして浅見を書き進めていたら、もう一点書くべき事が出て来てしまった。どうせ愚考のついで、それについても触れておきたい。

平澤さんの作風を語る場合、上記の「基調音」と共にもう一つのファクターがあって、その両者が微妙な均衡を保つ中から、あの独自の瑞々しい詩情が生起する、まずは大枠として、そんな構図が考えられる。よってそのファクターは「基調音」と同等の重要性を担う訳だが、端的にそれは「時」である。とは言ったものの、さてどうにも捉え所のない概念なので、早くも腰が引けつつあるのだけれど、ここでは時間の定義云々といった哲学的詮索はさて置いて、画家本人が用いる「時」という言葉から、もう一つのファクターを考えてみたい。「時の裏表」「時の庭」「時のしぐさ」「時の窓」「時の待ち合わせ場所」「時の間」「時の消息」、まだまだ有るけれど、これらの言葉は全て、平澤さんが自らの作品に冠したタイトルである。実際「時」という言葉は、平澤作品の至る所に散見されるので、それだけでも画家にとって「時」という概念が、重要な意義を持つだろう事が分るのだが、ここで一つ問題となるのは、平澤さんは「時」という言葉を、通常の意味では使ってないという事だ。言うまでもない事だが、通常私達が「時」という場合、それは過去から現在を通って未来へと流れる、一本の河を無意識裡に思い描いている。だから「時の流れ」という言い方があり、速くなったり遅くなったりする事はあっても、それはあくまで私達がそう感じるに過ぎず、流れそのものは一定で不変だろう、というのが通常の感覚と思われる。しかし平澤さんが「時」と言う場合は、明らかにそのような通常の意味とは、異なった用い方をしている。少なくとも平澤さんにとっての「時」とは、上記のタイトルから推し量る限りでは、色々な「しぐさ」をして「待ち合わせ」までしたあげく「消息」を尋ねられるような事まで仕出かすのである。これは一体どう解釈したらいいものか……と、しばらく困っていたら、このまま困っていてもいつまでも困ったままだろう、という事だけは分ったので、この際考える事は已めて、改めてその絵を見てみると事にした。例えば「時のしぐさ」、思えばかつてこの絵と出会った事が、平澤さんと付き合せて頂く契機となった。思い出の作品である。画集では背景が淡いベージュになっているが、その時の美術誌には、得も言われぬ灰緑色で印刷されていた。たぶん後者の方が近いだろう。縦位置の画面を一本の樹木が貫き、その周囲に平澤さん特有の、様々なキャラクターが配置された画面。飛翔するカラス、振り返るネコ、煙突から煙をなびかせる家々、階段に鉄棒、それらの合間を歩き回る人物、加えて何かの具象を成す前のフォルムだろうか、諸所に散りばめられた未定形の断片達。こうして見ていると、それら多彩なキャラクターの一つ一つが、作者の内奥に我知らず刻印された、諸々の記憶の欠片のようにも思えて来る。それぞれの欠片が、それぞれの仕草を為して、それらが微妙に響き合いながら、総和としてある独自の時空が形成される……、そう考えてみると平澤さんの言う「時」とは、その時その時の小さな記憶、つまりは「記憶の欠片」の総体を指すのかも知れない。そんな欠片が画面上に絶妙のバランスで配置された時、そこには最早「古い」も「新しい」もない、或いは「遠い」も「近い」もない、全てが同一平面上に置かれる事によって、過去から未来へと流れ往く時間の概念も消滅し、代って様々な「時」が自由に交感する、あの開かれた「場」が現出するのである。それが平澤さんの用いる「時」の意義であり、前文の「基調音」と対を成す、もう一つの重要なファクターと思うのだが、どうだろう。

 

ここで、簡単な座標系を考えてみたい。横に伸びるX軸は「基調音」の座標、ここでは仮に「音軸」と呼称するとして、即ち画家固有の或る響きを表している。数値には、表色系の明度を割り当てよう。一貫して同じ色相の響きであっても、その時々によって響きの明るさは異なる。その明るさの度合を座標値とすれば、左から右へと移動するに従い、響きの明るさも徐々に変化を見せるだろう。縦を貫くY軸は「時」の座標、前者に倣って「時軸」と呼んでおくが(平澤さんの旧作にも同名の作品があった、参考までに)、但しこれは前述の通り、過去から未来へと向う通常の数値ではなく、浮上する記憶の彩度を表している。遥かな過去の事でも、まるで昨日の出来事のように鮮明な記憶も有れば、つい先日の事であっても、何やら遠い昔日のように思える記憶も有る。更には、最早夢とも現とも判じ得ない、曖昧模糊とした残像のような記憶も有るだろう。時軸に振られる目盛りは、そのような記憶の鮮やかさの度合いである。よって下から上へと移動するに従い、朦朧とかすむ記憶は徐々にその霧を晴らし、やがては明確に焦点の合った鮮明な像を結ぶ。こうして仮想平面上に、縦の「時軸」と横の「音軸」が十字に交差する、直交座標系が出来上がる。この時空こそ「平澤重信」という画家の領域であり、その世界を形成するフィールドに他ならない。ちなみに画家は作品の中に、何かの「場」を暗示するような円状のフォルムを描く事があるから、名付けるなら簡明に、それを「広場」とでも呼ぼうか。以上から、作品に登場する様々なキャラクターは、全てこの座標系=広場の何処かに、必ずや位置する事になる。このしなやかに開かれた広場では、無数の小さな記憶の欠片が軽やかに遊び戯れ、時を超えて自在の交感を為している、あの微細な色合いに染まる持続音が、淡く透き通るような哀しみを響かせる中で。世に言う「平澤ワールド」の完成である。

 

僭越にも「平澤重信論」めいたものを書き連ねてしまい、ここまでお読み頂いた皆様からも、無論画家ご本人からも、多大なる顰蹙を買っているだろう事は分るのだが、話が未だ眼目に到らないもので、この際は平にご容赦を願いつつ、今しばらくお付き合い頂けたらと思う。

前段で「音」の軸と「時」の軸が交差する座標領域を「広場」として提示させて頂いたが、これはあくまで平澤さんの世界を構成する要素を、勝手な理屈で整理した仮想図に過ぎない。主題はその先に有る。つまりその自らの「場」で、画家は何を顕現しようとしているのか、それを知り得て初めて、私達は「平澤重信」という画家の本質に、迫る事が出来るのだと思う。今までこの通信上で、何度となくこの言葉を使って来たが、やはりそれは「アトモスフィア」という単語に尽きるだろう。直訳は「空気感」「雰囲気」といった所だろうが、平澤さんの場合「空気感」では即物的すぎる、「雰囲気」では何かが不足だ、ここではもう少しその意味を敷衍して、漠然とした或る気配、そこはかとない風情、とらえどころのない陰影、それとなく滲む情緒、広くは未だ生起しないものへの予感や予兆までをも孕む、言葉にならないような茫漠の概念、それらをひと言に「アトモイフィア」と言って良いのなら、平澤さんの芸術の真髄は、正にその言葉の内に有る。そう考えれば、さながら前述の広場は「基板」であり、配置される数々のキャラクターは、基板上に設置されたそれぞれの「部品」であり、それらによって構成された画面は、類例のない「回路」であると言っても過言ではない。それはあの独自のアトモスフィアを喚起する、感性の回路なのである。故にそれはいつも絵の内奥に、密やかに潜在して見えない。しかし、それが画面という次元に視覚化され、あのユニークなキャラクターの遊ぶ広場として具現化された時、作品の前に立つ人はその絵肌から、必ずやあの不思議なアトモスフィアが、そこはかとなく生起する様を見るだろう。

 

さて、やっと眼目らしき所に到った辺りで、紙面も尽きようとしている。論とも言えないような論で、この度は紙面を埋める成り行きとなったが、学究でも評者でもない者の浅慮として、大目に見て頂ければ幸いである。思えば4月の開催は初めての事だ。今までは秋の開催が恒例だったので、春に響く「基調音」は未知数なのだけれど、折しも展示会タイトルは「黄緑色三昧」、季節に相応しい色合いを、見せてくれるのではないだろうか。

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