jiyuu2014.jpg

自由
美術

2014

制作とその周辺
栗本浩二 今野 治 斎藤國靖 ・・・・・・・1
自作を語る
森山誠・・・・・・・・・・・・・・17
國定正彦・・・・・・・・・・・・18
日名子金一郎・・・・・・・・19
田川久美子・・・・・・・・・・20
小野精三・・・・・・・・・・・・21
後藤拓哉・・・・・・・・・・・・23
兵藤寛司・・・・・・・・・・・・24
美濃部民子・・・・・・・・・・25
隈部直臣・・・・・・・・・・・・27
川崎文雄・・・・・・・・・・・・28
竹永亜矢・・・・・・・・・・・・29
森 真・・・・・・・・・・・・・・・・31
エッセー自由美術
三つの会場・技巧の完熟・美術の爛熟 大野 修・・・・・・・・・・33
「奇想への系譜」 小川リヱ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
錯綜する思惑 長谷部 昇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
その頃のこと 伊藤和子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
自由美術 地方展一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
自由美術北海道グループ展
自由美術・秋田 50 年の軌跡
自由美術富山グループ展の活動
栃木自由美術展
自由美術群馬研究会の今
U展の紹介
第3回東京自由美術展を終えて
第36 回静岡県自由美術展
第65 回中部自由美術展
中部自由美術版画グループ展
第22 回自由美術岐阜グループ展
「うつなみ画会」展
自由美術京都作家展
第33 回自由美術大阪支部作家展
第52 回自由美術関西展
第56 回東中国自由美術展
「グループ黄人」展(広島)
山口自由美術展
自由美術・香川展
大分自由美術展
 
表紙作品 栗本浩二「陽光の前で」油彩綿布200F, 2014年

制作とその周辺

栗本 浩二 / 今野 治 / 斎藤 國靖(司会)

自由美術本展2014_img_4.jpg
栗本 浩二:「陽光の前で」, 2009 油彩・綿布, 2009年
斎藤:今年の自由美術誌の特集に、「自作を語る」をテーマとして、12名の作家に制作とその周辺を記述していただきました。その一環として、若手のホープである30代の今野さんと、今年のベストセレクション展でも注目を集めた50才になる栗本さんに、制作とその周辺を多面的に話し合っていただきたいと思います。先ず、今野さん、栗本さんが用意してくれたポートフォリオのなかにそれぞれの制作意図が簡潔に記されています。それを紹介することから話をすすめたいと思います。
『興味や関心を持った対象や自然に対して、それらを見ていた時の自分の何気ない行為(例:歩きながら、走りながら、横目に見やりながら等)も含め、身体的かつ複数の視点によって向き合いたいと思っている。ふと現れては遠ざかる親しくも唐突な自然や日常の差異を、油彩の重層的な構造を生かし、プロセスの継起性や偶発性をも取り込み表現したいと思っている。』(今野 治)
斎藤:この今野さんの文章を読むと、近代と現代の美術が追求してきたキュビズムの問題や見ることの身体性、知覚の在りようがリンクしてベースとなっていると思えます。今野さんのコメントにあるように、「対象や自然に対して身体的かつ複数の視点によって向き合う」とき、従来までの一点透視図法への批判が生まれてきます。そこで絵画における奥行きをどの様に考えているのか聞かせて下さい。
今野:奥行きと言われれば、まずアルベルティの一点透視図法が思い浮かびますが、その形式が現実空間に基づく正確なものだという認識は長い間存在しました。アーウィン・パノフスキーによって20世紀に書かれた『象徴形式としての遠近法』という本は、その一点透視による空間把握が、あくまで数学的に測れる量として秩序付けられた「象徴的な形式」であり、私たちの現実の知覚とは一致していないことを述べています。リアリズムと言う観点でも、セザンヌを始めキュビズムが追求した多視点的で空間が連続していく一視点だけではない構造性の方が、私たちを取り巻く日常に合致していると感じます。この多視点と言う手法に関しては、何も20世紀の絵画にのみ見られるものではなく、ビザンティン美術の壁画を例に見ても、パースを無視した奥行きや、複数の時間と視点のよる表現が存在していました。ビザンティンの壁画に関しては聖書の逸話をより合理的に図式化するという目的から表現が行われています。
ピカソによって創出されたキュビズムは、西洋絵画の従来の空間表現が現実に対し行き詰まりを見せていた時に出てきました。絵画の可能性を突き詰めた結果、ピカソはアフリカの彫刻や古代エジプトなどの古典的表現から色々なヒントを得ていたようです。美術の長い歴史の中では、一点透視による空間把握の方がむしろ特殊な一例なのではないかという認識はピカソにもあったと思います。
斎藤: アルベルティ以前の中世絵画やビザンティン美術も、形が輪郭で括られ、その内部が平面的に彩色された画き割り的表現となっています。キュビズム絵画では、地と図の関係は徹底的に意識化されていますが、ヴォリューム表現は抑制されています。この様に西洋における多視点的な絵画は、フラットな表現になっています。
自由美術本展2014_img_5.jpg
今野 治:「地にかえる」油彩キャンパス2012 150号
今野: 多視点にするとモデリングしづらく、平面的でフラットな表現にしないと物の連続性が画面上で保てない様に思えますが、例えば中国北宋の郭煕の『早春図』を見ても、「三遠法」という手法で複数の視点が組み合されながらも、山や岩には量感があり、ある連続した空間を感じさせます。複数の視点と物の立体感が両立されており、西洋の立体的な物の把握にも引けを取らないものだと感じます。物の立体感というのは、僕にとって事物をその周囲から切り取って触るような知覚、感覚からもたらされるもので、本来事物の動きと立体感は一つのものだと考えています。風景や光景が時間や空間の移行の元で、ある一つの層や面として現れる感覚と、周囲から切断し掴んでくる感覚、言い換えると、全体的な視野と部分的な視野ということになると思いますが、この両方が日常の差異を形作っているのだと思います。
斎藤:栗本さんは、次の様なコメントを記されています。
『作品テーマは、生命の力の表現です。作品制作のきっかけは、私の日々の生活の中で、空気や植物などの自然の存在が気になります。一つの事柄に目を配り凝視していると、いろいろな発見が見て取れます。気づかなければ私の中を通り過ぎていく感覚達、そういう物事の中にこそ、本質的な未知の力や新しい法則を感じることがあります。それは自然界の中にある多くのものから、色彩や形態、事物を再発見することで得られます。そして、制作の動機は、様々な事柄から共通する規則性や繋がりを発見し、それを再構築することが私の制作手段になっています。具体的には、色彩と有機的な形を使って油絵具の物質的な強さと色彩の強さを使って、日常的な場の見え方を変え、新しい刺激を生み出します。現在の作品は、陽光の前で広がる生命の力をテーマにして、現在目の前で起きている様々な想いを表現した作品を制作しています。』(栗本 浩二)
斎藤:栗本さんの作品は、鮮やかな色彩と強い明暗のコントラストで、有機的な形態が形成され、エネルギーが溢れた様な表現になっていることは、今までの作品に一貫して感じられます。しかし、現在の様な作品以前は、平面性が強調された絵画が周囲の環境や空間の中でどの様な影響や関係を持つかと言う視点が大きかったと思います。絵画の要素やヴァルールは画面には収まり切らず、上下がアンバランスな状態をあえて作ったりしていました。今はどちらかと言うと、画面の中での一つの世界の表現になって来ていると感じます。
栗本:最初はいわゆる従来の形の「絵」ではなく、空間性みたいなものが主眼で、その中で色彩の持つ強さや力を空間と共にどう繋げて表現するかという意識でした。数枚の作品をある一定の間隔で展示することによって周囲の白壁や空間も巻き込み作品を造るという表現です。埼玉県立美術館のパブリックスペースで行った展示では、作品を単に並べるのではなく、ギャラリー会場の空間自体を変えてしまうというコンセプトの元で、20本の縦長の作品をある一定の感覚を保って羅列し、壁一面が一つの作品になることを目指しました。しかし、次第に既定の空間の在り様によって自分の表現の発展性が広がらないことや、見る人との間に理解の差やズレが出来ることに対して、次第にもどかしさを覚え始めました。また、表現としての展示スタイルであったにも関わらず展開や絵画作品の内容に関しての意味に手ごたえを感じなくなってきました。その状況に不満を抱えながら、新しい展開を目指して自由美術に出品するようになり一枚で完結したものを見せるという絵画の在り方を意識するようになりました。
世界で起こっている様々な現象や日々の出来事を取り込み、見る人により強く働きかける際に、具象性や物語性は自分にとって重要だと考えています。昔、ある公募団体で重油の海への流出事件を基にして描かれた絵を見たことがありました。油を浴びて汚れた鳥なんかを直接的に描いたりしているのを見て、なんでこんなものまで描くのだろうと思いました。しかし、震災があった後、自分は震災をテーマに実際に作品を描いたことがありました。その昔、重油の海を描いた作家の意識と繋がりました。客観的に見れば、なぜその題材を選んでいるか分からなくても、本人には切実なものがあるのだ、という見方を多く感じます。名もない花や、忘れ去られてしまった何気ない出来事などにも様々な物語が存在しています。作品づくりには、個人的な焦点がありつつも客観的、俯瞰的に自己を見る部分とのやり取りや往還が重要だと思っています。
斎藤:栗本作品の展開は、いわゆる美術史的な流れとは逆方向に展開していることがユニークだと思います。大雑把な言い方ですが、かつての古典絵画では奥行きのある空間のなかでテーマやメッセージのある絵画が描かれ、近代においては絵画を色と形の問題と捉える思考がひろがり、現代に至っては平面や絵具の物質性に注目してきたという流れがあると思います。それに対して栗本さんの2000 年頃の作品は、現代美術的な視点で把握した障壁画的な空間に近いものがあると思います。近作では画面の中に具象的形態を思わせる有機的なフォルムが展開し、徐々にテーマ性が深められるとともに画面の奥行きへの深度が増してきたように思えます。色面と色面の移り変わりは、シャープな部分から無限に溶け合う様なところまでスフマートの巾があり、それは肉眼で対象を見た時のスフマートの巾を超えていて、アニミズムを感じさせる超現実的な世界としても見えてきます。ところで栗本さんの画面の随所に見られるシャープな部分とスフマートされた部分の表現には、規則性というか法則の様なものがあるのですか。
栗本:意図的にと言うか、どこに焦点を置くか、描きながら決まってくる部分があります。絵具の垂れや、大きなアクション、滲みやボケた感じなどを自分の感情を通して描きます。すると、それらの痕跡が現れその痕跡をじっと凝視していくと様々なものに変化していきます。絵がしゃべり出す感覚ですかね。その言葉を聞いて制作することが多いです。ですから焦点は一枚一枚異なってきます。また、絵からは、かなりの頻度で形や質、色の誘惑があります。その誘惑を聞き過ぎると後で修正できなくなってしまうので緊張感が重要です。ただエスキースの段階で作品の明暗の対比は気を使っています。色彩の明度と彩度も共に意識しないと画面が壊れてしまうと思っています。色はたくさん使いたい方なので、そういう事をしっかりやっておくと、描いていると画面上で色が響きあう瞬間、例えて言うなら、音がハモる様な状態がやって来ます。
作品のオリジナリティーとは何か
斎藤:この座談会を始める前までは、いわゆる一般的な意味で言って「抽象」を描く今野さん、具象的な私(斎藤)、そのちょうど中間の栗本さん、と漠然と思っていましたが、用意してもらった二人の資料と話を聞いてみて思ったのは、ある意味で一番具象的なのは今野さんで、一番抽象的、概念的なのは私かも知れないです。今野さんの絵は一見抽象に見えたとしても、それはいくつかの具体性を重ねた結果であろうと思います。昔は、再現的な作品は「具象」、色と形を中心に進めるのが「抽象」という風に結構分類できました。今はそういう文脈では成立しなくなってきています。
自由美術本展2014_img_6.jpg
斎藤 國靖:「仮説としての絵画」油彩綿布, 金箔, 120P+120S+120P
栗本:具象と抽象という差は表面的な部分での話で、僕自身は具象を描きながら抽象を描いているという意識です。僕は描いてあるものを見せるのではなく、その中にあるものを見せたいのです。だからある意味記号ではあると思います。花であるとか抽象的な動きを裏付ける取っ掛かりを作りたいと思っています。自分には精神的な部分や感覚的な部分で言いたいことがあって、こういう気持ちを伝えたいというのがあり、それをどういう切り口で提示していくのかが重要です。
最近仕事の関係で「表出」と「表現」の概念について考える機会がありました。「表出」は第三者がいない部分で現れる部分としてあって、例えばアウトサイダーアートの例にも見られる様に、利害関係も無く心から直接出てくる純粋な表現に当てはまる概念です。それに比べて「表現」は何かに向けてのメッセージを整理して提示するものと言えます。作家の中でもこの「表出」と「表現」の部分がどう関係しているのか関心が出てきています。
今野:作家は多かれ少なかれ「表出」に憧れる部分はあると思います。実際には作家と言うのは、一枚ではなく連続して制作し差異を読み取っていかなくてはならない立場ですので「表出」だけでは繋がっていかない部分が大きいと思います。始めに意図を設定するからこそ、その枠組みの中に入り込んで「表出」を引き寄せようとするのが本来あるべき姿なのだと思います。僕の場合は、始めに作品意図としてメッセージ性の様なものを作品に込めるのかどうかと言われれば、自分はメッセージ性に関しては希薄な方だと思います。僕の場合、制作意図があったとしても「悲しい」とか「楽しい」と言った明確に一つの言語が当てられない感覚や感情にこそ興味を覚えます。僕が視点として持ちたいのは、例えば「あの通りを歩きながら見た時の、あの木の感じがとても印象に残っている」みたいな観点です。一つの視点から関心を集中し囲うようにして捉えた対象ではなく、ある一定の長さや持続をもった一連の行為の総体、全体がモチーフだったりします。今新たに進めている作品は、自分が住んでいる5階のマンションの階段を昇り降りする時に見える風景を元にしています。いつもエレベーターではなく階段を使っていますが、階段の昇り降りによって螺旋を描きながら眼下の木々が次第に頭上を覆っていく感じだとか、足元を見ながら目の端っこの方に見える木々の光の印象だとか、そういう事物の流動性や多視点的な在り方を今までやって来たことを元にしてもう一度見つめ直したいと思っています。
斎藤:今野さんはアクションペインティング風の筆触でぐいぐい描く。栗本さんはフォルムに制限を与えて描いているのに比べ、筆触そのもので画面を作っていく印象です。
今野:筆触で探って行きながらも地と図の関係と言うのは意識してフォルムは作っています。筆触を顕在化させるのは、絵画のプロセスを目に見える形で辿れる表現を目指しているからです。物質としての絵画が与える構造やプロセスは、物と物との関係によってイメージや自己を拓いていく際に重要なものだと考えています。例えば『地にかえる』という作品では、意図的に膠塗りのキャンバス地を残している部分があります。その膠塗りキャンバスの質や色を、筆触を組織する際の起点として、またイメージを展開する際の取っ掛かりとすることで制作を進めました。
栗本:今野さんの絵を見るとフランシス・ベーコンとの関連性が気になります。そこら辺も少し聞きたいです。
写4.jpg
栗本 浩二:陽光の前で 〜何処へ・彼方へ〜, 油彩・パネルに綿布 180× 227cm, 2011 年
今野:一時期感銘を受けて絵画的な処理や画面の組み立て方などから影響を受けたことはありましたが、自分としては最も影響を受けたのは野見山暁治です。自由美術の名前を知ったのも彼の図録などの経歴を見て、若い頃出品していたのを知ってからでした。作品との最初の出会いは東京国立近代美術館での大規模な展覧会の時ですが、その得体の知れない動きのある絵画空間は、「絵画とはなんであるのか」と言う問いを突き付けてくる画面で一気に引き込まれました。彼からはとても大きな影響を受けましたが、この前の東京自由美術展の出品作では、今までの影響からは画風を切断させようとして描きました。偉大な作家ほど影響が深すぎると厄介なものもなくて、野見山暁治もその一人です。かつて日本の画家がセザンヌの描き方に影響を受けてそっくりにタッチを真似して悲惨な状況になっていましたが、野見山絵画も同じ様に気をつけないと危ないと思っています。セザンヌと野見山暁治に共通しているのは、特に描き方、プロセスが画面上で可視化されている点なのです。野見山暁治は白いキャンバスに黒い絵具という、とても単純な要素から入っていって、その上から寒暖対比の筆触や線の強弱で画面を構築していきますが、セザンヌの方も最初から最後まで同じ幅の筆で全体的に手を入れていきます。どちらも特別に技巧を凝らしているわけでもなく、やっていることだけ見ればとてもシンプルなもので、画面上で一つ一つの行為を目で追い、拾い上げることが出来きます。両者共に「自分もこう描いてみたい」または「自分にも描ける」と思わせてしまう程、絵画の形式や文法の上で共感を覚えるところがあるのです。両者とも、見る側は絵を描く側の立場でモノを捉えることを要請する側面があるのだと思います。
斎藤:野見山暁治の影響は自由美術のいい流れの一つであって、脈々と存在しますね。今野さんの絵もそういう意味で自由美術的だと云えると思います。
今野:そういう影響って模倣とも違っていて、モノの見方や捉え方に共通性があるから自然と入り込んでいるとも言えると思うのです。であるが故に同時に怖いとも言えますが、、。自分としては東洋の物の見方や、先ほど話があった油彩との体質的な相性などをより深く探って行くことで、いい意味で先人の影響を生かしたいと考えています。具体的には東洋の水墨の世界や紙と水の表現と、油彩の吸収性下地である白亜地の表現に体質的に繋がりを見出せるのではないかと個人的には思っています。
栗本:他の作家からの影響という事に関してですが、ピカソの絵をそっくりそのまま模写の様に写して、『ノン・ピカソ』と題したマイク・ビドロという現代美術の作家を思い出しました。その作家は確か、現在において完全なオリジナリティーは存在しないという考えのもと、実際の風景を見ながら制作することは自然の模倣であるし、ピカソの絵を模写するのも写しているという意味では同じであると扱い、オリジナリティーとは何かと言う問題提起をしている作家だったと思います。自分も若い頃は好きな作品や作家はたくさんありましたが、現在影響を受けている作家は特にいません。見方を変えれば、作品を見ていても、風景を見ていても、何かしていても、作品制作に繋げて考えてしまいますので、逆にあらゆることから自分は影響をいつも受けているのかも知れないと思えます。今は化学や生物や、フラクタルの問題にも関心があります。影響を受けるという事なしでは画家は制作できません。
外国では影響を受けるという事が画風だけでなく、理論やコンテクスト、美術の文脈や理論の解釈に連続させたり、より発展させたりすることが自然体として行われていくところがあると思います。独りよがりではなくみんなが共有するものとしての作品、と言う意味合いがより強いのだと思います。そのような海外に比べ日本には表現を成り立たせている思想や考えをあまり重視しないで、形だけ取り入れる器用さが目につくところがあると思います。
自由美術本展2014_img_9.jpg
今野 治:「手前、奥」油彩・キャンパス50 号 2012年
斎藤:栗本さんの指摘のように、私たちは影響関係の流れの中で生きているわけですから、「作品とは、様々なものから引用された織物である。」と語ったロラン・バルトの言葉は的を得ていると思います。かなり以前に読んだ本に『ピカソ:剽窃の論理』(高階秀爾著)というのがあります。ピカソの描いた多くの人物像が、他者によって描かれたもののパクリ、引用であることが図版で詳細に解説されていました。美術史家は文献や図像学的な側面から研究を積み重ねていますが、エカキは、描き方から見ることができるわけです。形の成り立ちから美術史を見れば、中世からボッティチェリに至るまでのテンペラ画の時代は、輪郭線(色面を分断する線と一方の色面に帰属する線の2種類)で形を決定し、その内部を彩色することがテンペラ絵具の特性を生かした最も合理的方法でした。ルネッサンス期から多用され始めた油絵具は酸化重合のために乾燥が遅く、現実には存在しない輪郭線を描かずに、隣接する色面の強弱で形を成り立たせることが容易となり、ダ・ヴィンチからアングルに至るまで、油彩画から輪郭線が無くなった訳です。これらのことを総合してみると、形は線(2種類)と色面の隣接(強弱2態様)の計4種から成立しています。さらに、それぞれが図として描かれている場合と地として成立している場合があり、合計8種類の描き方がある訳です。ピカソのキュビズムの代表作『アヴィニョンの娘たち』の描き方を見ると、8種類の描き方がすべて網羅されており、美術史上に顕れた形の描き方すべてを引用しています。かつてピカソは、 44 44 「絵画とは破壊の総和である」と語っていました。私が若い頃は、アヴァンギャルドの言葉として受け止めていましたが、その後美大で学生と一緒に古典技法の研究をして気づいたことを補足すると、「絵画とは、古典絵画を破壊44してその造形要素を総和44したものである」と言う事ができ、これはそのまま『アヴィニョンの娘たち』の形の成り立ちの説明になる訳です。この作品には、セザンヌの影響とされる多視点による見方ばかりではなく、マネやゴッホの線の研究成果も引用されています。
最近の展覧会について
斎藤:近年の日本では、外国からの名画の展覧会が数多く催されていますが、どんな展覧会が印象に残ったでしょうか。私は、一昨日『ジャポニズム展」(世田谷美術館)を観てきました。浮世絵などの日本美術が西洋に影響を与えた訳で、影響した浮世絵とその影響を受けた西洋の作品が並覧された展示でした。ボストン美術館が所蔵する作品が中心でしたが、その中にゴッホの『ルーラン婦人』が一点展示されていました。この作品は30号位で、ゴッホはこの絵の他に同寸でほぼ同じ図柄と色の『ルーラン婦人』を4点描いています。腰かけているルーラン婦人が黒い輪郭線で描かれているところまで4点の『ルーラン婦人』には共通しています。各作品にはその線が人物に帰属するものと、人物にも背景にも帰属しない場合の他に、両方の線が抑制気味に用いられている場合(今回の展示作品)といった、線の表現に違いが見られます。浮世絵の線は版によるものなので帰属しない線です。ゴッホは線の重要さを浮世絵から学びながら西洋古典のテンペラ画時代の線を4枚の『ルーラン婦人』で再現的に研究したのだろうと考えられます。これらの作品はゴッホが耳切り事件を起こした後、死の前年に描かれた作品です。ゴッホの狂気な表現が辛気臭い程のベーシックな研究に支えられていると思っています。この線の解釈は、先ほども述べた『アヴィニョンの娘たち』にも継承されていると思います。
栗本:最近観た展示では、それ程好きな作家ではないですけど、『バルチュス展』は良かったと思いました。あの画面の絵具の付きは向こうの人特有のものだなとは思いました。
今野:僕はどちらかと言うと後期の方が良いと思いました。あからさまな表現が後退しているからと言う訳ではなく、後の方がより人物の存在や佇まいを捉えようとしている気がしました。意識が全く異なっていると思いました。
斎藤:後期の線的な頃はカゼインの使用過多でとても脆い画面です。日本画的な線的な表現をする様になって、発色がマットなカゼインを使用するようになりました。バルチュス展ではピエロ・デッラ・フランチェスカのバルチュスによる模写が展示されていましたが、バルチュスの時代の少し前にロベルト・ロンギによるピエロの再発見がありました。透視図法に熱中したピエロの時代はまだダ・ヴィンチのスフマート技法が登場していない時代で、画面上の床や壁の平面的な部分と人物などの有機的な立体表現の部分とが画き割り的。ダ・ヴィンチのスフマートをすでに知っているバルチュスがピエロのプリミティブな表現に惹かれて彼の作品に応用したと思います。
栗本:最近観た展示で他に気になったのは、『イメージの力』と中村一美展ですかね。
今野:中村一美は学生時代から好きな作家でして、まとめて作品を観られた良い機会でした。中村一美という作家は、主に初期はアメリカの抽象表現主義からの影響を受け、そこから絵画の可能性を独自に切り開いてきた優れた作家だと思います。中村一美のスタイルは東洋思想に着想を得たり、日本のやまと絵や古い絵画が持つ空間性への関心が根を下ろしています。先ほど名前を挙げた野見山暁治はフランス滞在期に東洋の水墨画の魅力に気づき現在のスタイルに移行しましたが、中村一美の方は抽象表現主義から東洋に至ったという点で共通点も感じられ興味深い点が多いです。
栗本:中村一美の絵画は色彩がすごく感覚的です。会場の壁面まで作品の一部にしてしまう演出はとても新鮮で会場全体が作品になっている感覚が斬新だと感じましたね。の方は、 『イメージの力』民族学博物館から持ってきたもの、土着的なお面や人型の造形、お墓などをキュレーターが違う切り口から展示し、人間の意識による造形を歴史的に捉えるというものでした。最後のもの派を彷彿とさせる展示は疑問に感じるところもありましたけど、、、。
斎藤:この座談会で先ほどから出ている絵画の多視点という問題で、アントニオ・ロペスの『トイレと窓』と言う作品を思い出しました。二人ともアントニオ・ロペスの展覧会は見に行きました?
今野:何回か観に行きましたね。
斎藤:この作品では、窓を見る視点の画面と、下の便器を見る視点で、画面自体を別けて描いている。一点透視法でその二つを描いてしまうと不自然になってしまうので上下2枚の作品に描き分けています。この様な場合視点を連続して繋げて表現しているセザンヌの表現(例:『赤いチョッキの少年』)と比べると大きな違いが出てきています。『グラン・ヴィア』なんか観ても、透視図法を厳守しながら近寄って見ると印象派みたいな震える様な筆触ですね。フォルムは確固とした、一眼レフのパースペクティブに則ったもので、視点軸を用意して定規で計るなど、デューラーと同じ様なことをやっています。それに対して色彩は感覚的、ロペスの制作方法は二元論的な振れ幅があります。
栗本:やはり写真ではないんですよね。作品として描いているところに意味があると思います。きっちりした枠を設けて、誰にも文句が言えない様にしておいて、遊び心として盛大に好きなことをやっていると思います。
自由美術本展2014_img_10.jpg
今野 治:「発つ風景」油彩・キャンパス50号 2012年
今野:『グラン・ヴィア』では、場所はもちろん季節や時間を区切って何年もかけて描いています。筆触も印象派の様だけど、それは時間によって移り変わるものにも忠実であろうとした結果であり、時間を置いて加筆する時には、今目の前にある対象と共に、以前に置いた色やタッチとの関係で全体を考え直さざるを得なくなってきます。結果的に厳密さを追求することで過剰に積み重なってくる部分と、逆に厳密であるが故に放棄せざるを得ない部分が別れずに混じり合う多層的な表現になっている様に感じます。少し飛躍しすぎかも知れませんが、まるでジャクソン・ポロックの画面の様に、筆触や質、細部が全体を組み換えていく視点が感じられてとても興味深く感じました。今日本で溢れている写実とは全くの別物で、しっかりとキュビズムや現代美術の提示する問題も含めた上で写実と言う手法を選択しているのだと思います。
斎藤:ロペスは、日本人の描く絵はたとえ写実的に描いていてもスピリチュアルに見えると言っています。私たち東洋人の体内には水性絵具の伝統が根を下ろしていると言えます。それに加え油彩の技法や知識に関しては、歴史的に見てもしっかり受容されてきた訳ではないのです。現在になって、西洋古典絵画における先端的な技術や知識のレベルではやっと西洋と同じになったと思いますが、やはり厚みが違うのでしょう。しかし悲観的になることはないと思います。油絵具は原理原則に即して使えば、日本人的な油彩画でも良いわけで、さらに日本にはみずゑの伝統があるわけですから。
絵画の物質性について
栗本:私は学校で教えていて思いますが、油絵具は日本人に気質的に合わないのではないかと思っています。
今野:日本人の気質という事で、最近美術史を勉強し直す機会があって気になっていることがあります。中国や、特に日本には、いわゆる「レリーフ」って言う表現が少ない、もしくは全くないと思います。油彩の重層構造による造形感覚は、例えば「レリーフ」に通ずる立体的把握であると言えます。画面の手前へ、形や立体がせり出してくる西洋のレリーフ感覚は、表現としては中国や日本には根付いていない、もしくは感覚的に希薄な部分ではないかと思っています。東洋や日本の絵画空間は、画面のこちら側に出っ張る空間ではなく、紙の表面より下の層に浸透する様な空間が重要で、そこら辺の感覚を掘り下げて行くと油彩を体質に合わせ生かすことも可能なのではないかと考えています。
斎藤:確かに油絵具の重層彩色の場合は、絵具が支持体の上に積み重なってきます。しかし、古典絵画で最も厚く油絵具を盛り上げたレンブラントを見ても、絵画空間はフレームの奥に成立させています。重層彩色とレリーフは、なんらかの文脈の中でその関連を読むことができるかも知れませんが、直接的な関連は遠近図法の相違と解釈にあると思います。東洋や日本にもレリーフは少ないのですが、西洋でも各時代に平均的に造られていた訳ではなく、古代ギリシアにかなり集中しています。それは建築上の需要も多かったと思いますが、図像学的な違いもあったようです。一点透視図法における見かけの大きさは眼と対象との距離に比例するとの考えが一般的ですが、古代ギリシアでは、見かけの大きさは対象を捉えるときの視角の大きさによると考える「視角の遠近法」を用いたとパノフスキーは指摘しています。定規とコンパスを用いて作図する「視角の遠近法」は、湾曲する網膜像とも一致し、手前にもせり出してくる立体の作図法として適していた様です。一方、一点透視図法は、視線のピラミッドを平面で切断し、そこに投影された像として見るために平面絵画に応用しやすいものでした。しかし、単眼を前提条件とするこの作図法は幾何学的に正しくとも人間の肉眼で見る空間とはズレもできます。このことは透視図法を利用した画家たちが、早い時期から気づき時代や地域によって異なった主観的な改良を加え、高空間、近空間、斜空間などが誕生したようです。しかし、いずれの空間描出にしても絵画空間をフレームの奥に設定したことは共通しています。私の知る限り唯一の例外はカラヴァッジョの中期の作品です。彼の代表作であるサンルイジ・フランチェージ教会の三部作は、フレームの奥と手前に空間を設定しています。アメリカ現代美術の作家であるフランク・ステラは、カラヴァッジョを研究し、その空間設定を自分の作品の中に応用しています。この様に見てきますと、カラヴァッジョからステラ、その延長上には手前にせり出してくるマテリアルの存在も考えられるのではないでしょうか。
写7.JPG
栗本 浩二:Southem Beach Hotel & resort 壁面画
一方、中国や日本の伝統的な水墨画の場合は、塗布された墨の多くが和紙に吸収されることで、描かれたところと白紙のところとの間にマチエールの差が少ないために、“余白”が成立すると考えます。もちろん水墨画の絵画空間は、等質で連続的な一点透視図法による絵画空間と異なることも要因です。
栗本:かつて芸大の試験では、水彩と油彩両方描かせていました。紙の地を生かして描く水彩の表現と、物質として存在感が強い油彩の表現、その両方の捉え方を確認するためだと思います。余白を生かしていくのが東洋、絵具を重ねていく西洋、この問題は物質主義なのか精神主義なのかという事とも関わってきて、例えば死後の世界の捉え方にも繋がってきます。日本には死者は共にあり、「死んだお爺ちゃんはいつも見ている」という感じなんです。一方、エジプトを始めヨーロッパでは、死者を骸骨やミイラとして具体的な物質として存在させておく文化です。道具から見方や捉え方が変わるという意味では、毛筆文化とペン文化という点も表現に関しては重要だと思います。日本の絵画表現には西洋で言うような奥行きはなく面の連なりがあるだけです。これだけ本質的な文化の違いがありながら明治以降、西洋的な捉え方で立体を描くことが重要とされてきました。ただ思うのは、今の若い人は油彩という物を自分なりに解釈して使っているという事です。外部から入った技法なり表現もどこか日本人的な感性で捉えていると思います。ちょっと前に流行ったピントがぼやけた様な絵画も、元は海外の現代美術に多く見られた表現でしたが、実は実体のない幽霊の様な、東洋に典型的な美意識やものの捉え方にも通ずるものがあってそれらは受け入れられた所があると思います。表立ってこないけれども日本人の心の中に引っ掛かる様な表現は継承されていると思います。
今野:ところで西洋では有色地や色画用紙が割と一般的ですよね。それに比べ日本人は白いままの紙を好む傾向にあります。日本人の趣向的には、素材そのものを生かすという感じもあるとは思いますが。
斎藤:有色地を使うと仕事が早く進みます。これは人間の目は暗い所よりも明るい所の方が緻密に見えるという視覚のメカニズムに合致しているからなのです。このことが油絵で実現するのは、ヴェネチィア派以後で、フランドル時代は板地の上の白亜の明るさを生かして暗部を彩色していました。当時は流動性の強い油絵具を使っていましたから。この技法がヴェネチィアに渡って大作を描く必要から支持体を板から帆布に変えて、油絵具は硬練りにすることで被覆力と可塑性が得られるようになり、早い段階から白色絵具を使いやすくするために、褐色系の有色地としました。これ以後、19世紀の中頃まで有色下地が続きました。今では当たり前になっている白いキャンバスから絵を描き始めるのは印象派以降のことです。
今野:日本に油絵が入ってきて一般的に拡がったのは印象派以降のことですよね。油彩だけでなく日本美術は古来から常に受動的に外部の様式を取り入れて、自国内で洗練、発達させてきた部分が大きいと思います。中国絵画と差別化させるために生まれた「やまと絵」という概念に関しても、中国的な主題や形式を日本の風土や情緒性に適応させて徐々に形成された訳ですが、その時の「和様化」に際して重要だったのは、やはり日本の家屋の造りへの考慮や関係性でした。ところで栗本さんは長谷川等伯の襖絵や屏風絵の空間性みたいなものに影響や関心があると以前お聞きしましたが、そこら辺の事を詳しくお聞かせ下さい。
栗本:長谷川等伯は、大学の時に訪れた古美術研修旅行で、改めてその美しさや形式美に触れました。私の1990年代の作品形態は、やまと絵の障壁画や屏風に見られる縦長形の作品にも影響を受けて制作しました。障壁画は、絵画の優美さや力強さがあり、一枚の絵を数枚の画面に分割して成立させていますが、一枚ずつの作品として見ても成立していると感じました。この二面性の関係は、作品が持つ繊細な組み合わせや画面構成によって表現されています。そこで自分の作品においては、一枚の作品としての在り方と組み合わせたときの在り方を、全体と部分の関係や、色彩と室内空間との関係、といったそれぞれの作品の意上で色味が室内空間に影響し、新しい要素として成立する空間を表現していました。
saitokuniyasu2012.jpg
斎藤國靖:「誕生」油彩, 綿布120P
今野:栗本さんの作品は特に色彩が固有の魅力を発していると感じますが、色彩に関してはどうですか。
栗本:色彩に関しては、障壁画ややまと絵の金箔を使った表現にも魅力を感じ、いくつかの作品で金箔と黒鉛を使った作品を制作しましたが物質としての主張が一方方向で広がりが出ず、うまく使いこなせず諦めました。金はトーンの変化が反射によるものでしかないため、画面の形態や構成要素として表現に取り入れていましたが、色調の変化で見せる方が自分には合っていると感じました。
今野:油彩の物質感や表現についてはどうお考えですか。アクリルや油彩を使用している様ですけど。
栗本:一通りアクリルで描いてから油彩に入りますが、やはり油彩の発色、物質感はピカイチだと思います。アクリル絵具は扱いやすく下地としてラフに使えるところが気に入っています。質的には問題点もありますが、仕事が早く進むことやイメージを逃さず制作できるところが良いですね。色彩にはエネルギーがあり、その強さから感化される力に魅力を感じます。また、色彩には外へ広がろうとする彩度の高い色と、内へと潜ろうとする彩度の低い色があり、そのバランスで一線が保たれているのですが、あえて彩度の高い色のみで強烈なエレルギーを噴出する様な絵画を造ろうと試みたこともありました。その強烈な力を支えるのが余白の白い壁と隙間の空間でした。そこから次第に色彩の強さを強調した作品から色彩の調和を取り入れた作品へと変わっていきました。色は無数の諧調を作ることができ、イメージさえ合えば歌い出す様な表情を見せてくれます。特に油絵具は物質的で、絵具と言うよりは粘土に近いものに感じます。粘調度も自由に変えることで様々な表情を見せてくれますし、混色も何十種類もの変化を楽しめます。絵具を重ねたり並列に置いたりすることで生じる相互作用は、イメージとの関係で色々な感情を表現できると感じています。アナログであればあるほど、描き手の意志によって表現ができるのが油絵具だと思います。
斎藤:栗本さんの今の話を、ベストセレクション展に出品した栗本さんの作品を思い起こしながら聞けましたので実に良く分かります。他団体の優れた作品が並ぶなかで栗本さんの色彩はパワフルで新鮮に見えました。ところで、この展覧会は初めて見る様な団体名もありましたが、どの様な主旨の展覧会なのですか。
栗本:今回行われたベストセレクション展は、東京都美術館が主催し全国の美術公募団体の中から選抜した27団体による合同展覧会で、2012年より開始され5回の開催予定で今年3回目となる展覧会です。趣旨は芸術活動の活性化と鑑賞の体験を深める場という役割を担うということです。まず、東京都美術館が主催していることが非常に興味深いし、芸術に関しては、私のイメージですが公共の企画で公募展に対して展覧会を行うことは嬉しく感じます。27団体の作品展示に関しては、各団体の特色が拝見でき有意義なものであると感じました。
今野:確かに様々な団体の特徴ある作品を一度に観ることができる貴重な機会だと思います。見比べたりすると各団体の特徴が良く見えてきて面白いと感じます。
栗本:今回ベストセレクション展に参加して感じたことですが、この企画の意図は様々だと思いますし賛否両論あるとは思うのですが、もっと美術を広げていくために活用できる要素になるのではないかと感じています。特に絵画においては、個人的にはまだまだ可能性を持っているし、新しい時代とともにどんどん形を変えた表現が生まれてくるものだと考えています。もちろん不変の美も存在しますし、歴史に残る偉大な作品も存在しますが、さまざまな作家の「今を表現できる場」として感じた展覧会でもありました。自由美術の作品は、他の団体と比べよい意味で自由な表現作品が目立ちました。みなさんがそれぞれの自己表現で制作していると感じました。
自由美術本展2014_img_13.jpg
斎藤 國靖:「絵画または引用について」油彩・テンペラ, 120S
今野:会期中にアーティストトークという企画がありましたがいかがでしたか。
栗本:なかなか緊張して話をするのが大変でした。そこで感じたことは、以前からの自分の問題でもありましたが第三者に自作を言葉として語れるか、ということです。このことについての経験は少なかったと思います。作品は表現ですので作品に語らせることは大前提ですが、そこからの展開も考えていかなければと感じました。
画家が語るとは
斎藤:最近の展覧会では、アーティストトークやギャラリートークという形で画家が語ることが多くなりました。画家は絵がすべて、という考えもあり、語らないことが美徳と言った風潮もありますが、制作行為は連続していくものですし、一枚の作品制作の中でも言葉は無視することができないわけです。先ほどの表出と表現ということから考えても制作の考えを明瞭にすることは大切でしょう。アーティストトークの延長線上には、社会問題に関する発言も含まれてくると思います。トークして声を上げる様な時代状況になって来たように思います。今野さんはデモに参加されたようですが、、。
今野:この前集団的自衛権の閣議決定に反対するデモに初めて参加しました。
栗本:各世代で温度差が凄くあるのが気になります。特に若い人の間ではどちらかと言うと賛成みたいな空気があります。無知なのか、大きなものに巻かれてしまっているのか、分からないのが怖いと思います。
今野:今の政治や時代の流れは、自分にとってはとても危機的に感じます。今回の件については、民主主義の原則からは大きく逸脱する手順で重要な事柄が次々と進んでしまったので、このままでは見過ごすことができないと思い、選挙に行って投票するということ以外の方法で態度として一度示したいと思ったのです。それに加え自分以外にも同じ様な意見を持つ人がいることを肌で感じ取りたかったということもあります。昔と同じ様な「戦争」という形には必ずしもならないとは思っていますが、今はもうすでにテロの時代に突入しています。今回の閣議決定はそのきっかけとなるものが出来たのだという認識は持たなくてはならないと思っています。少し前に起きた秋葉原の通り魔事件やボストンでのマラソン大会での事件は、自分にとってホームグロウン・テロの例を具体的に生々しく提示するものでした。これからテロリズムは世界中で確実に増えていくと思います。美術や芸術にある程度深く関わっている人間なら、その土台となる社会の中の大きな枠組みや、個人にも浸透してくる政治的な動向には敏感にならざるを得なくなってきます。
斎藤:強圧的な政治権力者による非民主的な行為はテロリズムであるし、グローバルとかの格差社会で、追いつめられた個人が、刃物をふりかざし、爆弾をしかけることがホームグロウン・テロリズムなのでしょう。このようにテロ主体が、権力者であったり、個人だったり、集団の場合もあるわけで、それらが連鎖的にたちあらわれてくる今日の状況を、今野さんはテロの時代に突入したと指摘されたと思います。
権力者によるテロは、言わずもがなですが、秋葉原のこと、ボストンのことは、倫理的には強く批判されるべき側面と、もしかしたら、もう一人の自分自身の仕業であったかもしれないという想像力は残るのではないでしょうか。刃物や爆弾を絵筆に置き換えれば、テロ行為と表現行為は通底してきます。非才な私の能力を超えた牽強附会な倫理かもしれませんが、
かつて自由美術は左翼団体と思われていたようです。自由美術の多くの仲間がデモにも参加しています。当時のことを本誌の「エッセー自由美術」で伊藤和子さんが記述されています(40ページ)。食糧さえも充分でない困難な時代なのに、未来に向う明るさが感じられます。教条主義的に言えば、革命が歴史的必然と考えられ、目の前の支配階級を打倒すれば未来は開けると考えられた時代だったように思います。そこが今日の八方塞がり的な状況との違いではないでしょうか。
栗本:政治や美術にしても一人だけではなく多くの人を巻き込む様な場がもっと必要だと思っています。僕が自由美術に入った頃は、展示会場で色々な人の絵をたくさん見て、この自由美術と言う共同体として何か出来ることがあるのではという思いがありました。色々なイベントを行なおうと掲示を作成して貼りだしたりしましたが、一人だけの思いだけではなかなか実現が難しいことも知りました。自由美術の展示も東京展ぐらいは何か実験的な試みをしてみても面白いと思います。例えばキュレーターを入れて具体的に展示プランを練ってもらうなど、ユニークな展示をしてみたいです。ギャラリーと提携した新しいテーマのもと展覧会を開くとか、、、そういう事をしていかないと活性化していかないとも思います。
今野:現在自由美術の展示作業は少ない人数で限られた日数で行っています。何回か参加しましたがとても大変な作業だと思いました。多くの会員の方がとても苦労をされています。ですからこれからの展示の在り方を考える場合、キュレーターを入れるというのは現実的に考えても良いかなとは思います。本展では難しいかも知れませんが東京自由美術展では実験的に若い学芸員などに声をかけて数人の会員と共同で展示計画を練るということも面白いと思います。これは聞いた話ですが、二紀展の場合は茨城の地方展の会場に、活躍中のフリーの作家で、最近玄人筋でとても評価が高い野沢二郎という作家の展示スペースを作ったそうです。その様な思い切った展示も他の団体でも次第に考え始めています。自由美術の場合は、思い切った小さなサイズの作品ももっとあって良いと思いますし、そういう作品が入ってくれば展示のメリハリもより出てくると思います。
栗本:作家集団である自由美術協会については、これからどこに向かっていくのかなかなか難しいところだと思います。自由美術協会という会でも人によって考え方も違うし認めあえる内容も違ってきます。また運営よりも自作に時間を費やしたいこともあると思います。それでも先ほど話したように東京・自由美術での新しい試みの提案みたいに新鮮なアイディアが出ることにより、個々の作品に対しての相乗効果が得られるのではないかと考えています。
斎藤:今回の座談会は実に多くの問題意識を共有できた貴重な機会となりました。栗本さん、今野さん、色々な話を長時間に亘りありがとうございました。
自由美術本展2014_img_15.jpg
斎藤國靖・栗本浩二・今野 治

森山 誠 「memory 13− 1」  

自由美術本展2014_img_17.jpg
私が自由美術に出品を始めたのは1971 年。自由美術は当時の私にとっていわば美術学校であった。毎年一度北海道から上京して自由美術展に並べられた自分の作品と他の作品をじっくり眺めた。また、自由展の会場やそのあとで集まる居酒屋などで先輩会員の話をこっそりとしかし貪欲に聞いた。そんな場面で具体的な絵の話はめったに出ないが、たまにふと絵について先輩達の考えや技法の話などを聞くことができた。 そんな中でとりわけ印象に残っているのは自由美術に出品を始めて暫くのころ、ある会員から聞いた「絵は平面に空間をつくる作業だ」という言葉。 この言葉はその後、私の絵の方向に大きな啓示となった。 その頃から私はキュビズムの勉強を始める。キュビズムから画面の構成と省略とデフォルメを学び、そこから徐々に私の絵が作られてきたような気がする。 画面のどこかに物(物体)を置くと、置かれた事物がその周囲に空間をつくる。空間とはリアリティであり、事物はどこにでもいる人間であったり卓であったり器であったり、また一本の瓶であったりする。その物体と空間とのバランス、置かれる物の配置、走る線の動きや方向、画面全体の動きとリズム。こんな作業が今の私の絵ではなかろうか。 事物は具体的ではあるが、なるべく説明的になってはならないこと。私の絵は事物そのものを描くのではなくその物を取りまく空間を描くのだから。そこにある存在が確かであればそれ以上のものではないということであろう。 そしてまた、必要な事物以外はなるべく省略あるいは曖昧に処理して、その部分を敢えて残すということ。それによって描かれる物の存在はより鮮明である。 そしてもう一つ、絵に叙事的あるいは叙情的な情景や情感を加えないということでありむしろ排除する。叙事叙情は単純を阻害すると思うから。色彩は画面の中の形や線を主眼とすることから色数は少なく最小にとどめている。 こうして描いては消しまた描いては消す作業が続く。描く時間はその都度短く、描いては離れ間をおいて戻ってまた画面に手を入れる。戻ったときの瞬間の感覚を大事にしている。絵は感覚であると思っているから。キャンバスに油絵具、そして筆と刷毛とペンティングナイフと指先と布と定規を使う。パートの部分とグラッシの部分が交錯する。溶き油は筆洗いと同じ容器に入れた揮発性油を使う。私の絵はとても粗雑な描き方と言われるかもしれない。だから私の絵には完成がなく、いつも未完で出品している。 しかしこうした描き方や考え方の多くは、かつて自由美術にいた先輩作家の言葉や作品から教えられ培われてきたことである。 絵は人それぞれであり、どんな描き方や考え方が良いかは問題外であろう。しかし、正直私のこれまでの絵に対する考えや技法がはたしてよかったのかどうか、制作する中でどこまで考察し反省したかを考える時、忸怩たるものがあるのは確かである。現状に停滞することなく制作の方法や精神にもっと脱皮と破壊が必要であることは絶えず考えてはいるのだが、結局は自己模倣に終わる。制作の中で大切なのは多少でもこれまでの絵から断絶し、新しい方向に踏み出さなければならないということであろう。そんなことを考える毎日が続いている。

國定正彦 「私の絵画とアニミズム」

自由美術本展2014_img_18.jpg
いつからでしょうか、嫋やかに流れ行く雲をボンヤリと眺めているうちに、その形が少しづつ様を変え、その度にそれが様々なものに見えるようになったのは。
木立の木漏れ日が道に影を落とし、風に微かに揺れ動く時、その影の薄い膜が生き物の様に呼吸し、母親が胎児にするそれのように、何かを語りかけていると感じるようになったのは。
雨上がりの濡れた木の幹の木肌が一所乾き始め、だんだん顔の様に見えてきて、それが「その木に住む木霊ではないか」と感じるようになったのは。
遠くの山並みが風に吹かれ、木々が大きく波打つとき、その風紋がとてつもなく大きな蛇に見えたりするようになったのは。
絵画に造詣の深い皆様にも同様の経験がお有りだと推察いたします。
ただ、私はそれらがあまりにも顕著な時、「そういったものが見えるのは私の精神状態が不安定だからではないか」と思った事もありましたが、なんとか、社会生活も続けていられるので、そうでも無いようなのです。では、なぜ好むと好まざるとに関わらず、そんな風に見えたり感じたりするのかを自分なりに色々と考えてみたところ、現時点でのその問いの答えこれは、恐らく私の心が「繰り返される自然や生活の中に神聖なものを見いだそうと求めている」ために、その心の投影として見えている、もしくは見させてもらっているのかも知れない、と思うようになりました。
幼い時からそれらを見たり感じていた気もしますが、善く善く思い出してみると、それらが顕著に見えるようになったその一つの要素は20 数年前に私の家が水害にあって浸水したことが大きいと思うのです。
いつもと変わりない今日であるはずのその日、突然訪れた招かざる訪問者。
文字通り滝の様なもの凄い豪雨と迫りくるカオスの如き濁流、川のこちら側と対岸では全く違った時間が流れていました。
ちっぽけな一人の人間には到底たどり着く事のできない遥かな意思が与えた戦慄、通過儀礼のような体感した事のない恐怖と苦しみ、そしてその後も同じ事象が繰り返されるのではないかという自然への畏怖と、平穏な生活への祈り、その繰り返しの中で少しずつ、先に言ったような感性を体得したような気がするのです。その為に水難に合う運命だったのか、自分で求めたのかそれは分かりませんが、訓練だけでは到達できない、不思議な感性を体得したのかも知れません。もしかすると、それを、アニミズムと呼ぶのかもしれないと思う今日この頃です。
そして、同時にそれは、私に幼子のように自然の持つ命の息吹や美しさを感じ取れる喜びも与えてくれました。
自然が見せてくれている、答えてくれている、様々なものが啓示なのか、錯覚なのか。
自分だけに見えた事に意味があるのか、ただの偶然なのか。
それらと葛藤しながら、少しずつでよいので、頂に近づければと思い今日も訪れるビジョンと格闘しながら描き続けているのです。

日名子 金一郎 

自由美術本展2014_img_19.jpg
「けしき 11 − 4」
絵描きは見えるものを紙やキャンバスに写しとることも仕事ですが、私はこのことから逃げていて、そのためか抽象的な表現の絵を描いています。通常、私の絵は抽象画に分類されますが、具体的なものは描いてありませんから否定はできません。自分では抽象の意識はうすいのですが、具象とも言いきれません。画題を「けしき」としています。画題からすれば具象なのかもしれません。自分のまわりの空間、見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、水や大気のながれ、時間のながれ等々、これまでの経験や体験、自分にかかわる諸々のこと、生きてきたことすべてが「けしき」です。
画題は長い間、" 作品" とか" 制作年の数字" のみの、絵やその制作意図に直接かかわらない、半ば投げやりな不本意な題名でしたので、自分の気持ちに沿う言葉をあれこれ探しておりました。やっと7年くらい前にひらがなの「けしき」にしました。このひらがなの響きが気に入って、以来これに制作年を加えて画題としています。
絵を本格的に描き始めて50 年が過ぎました。この間、絵を描くことをあきらめずになんとか続けていますが、色の変化だけみてもはじめは真黒に近い色から青になり、そして白へと変わっています。変わる時の状況は定かではありませんが、変えたいと思ってもまた同じことを繰り返してしまいます。昨今は、白地にコバルトブルーの短い細い筆跡の集積で絵造りをしています。赤、黄、緑の細線を加えることもあります。筆跡の集積は、手許が狂ったり、筆がふるえたり、力んだり、かすれたり、方向も定まらず、全く不均質となり、膨らみになったり、ゆるやかな動きになったり、いろんな表情を見せます。細線の集積を均質にして、フラットで無気質な平面ができれば、このような感情が入らない違う空間ができるかな、と考えます。
海辺で育った私の原風景として、海、波、大気、雲、空などがあります。これらを具体的に描くのではなく、自分の絵として、今まで誰もやっていない絵を描くことを若いころから願ってやってきましたが、先は見えません。もうそろそろ細線の集積はおしまいにしたいのですが、次がありません。

田川久美子

自由美術本展2014_img_20.jpg
<ありのままの私でありたい>
2000 年を機に長い冬眠を終え動き出した。よ くもまあ制作から遠ざかっていたものだと我なが ら感心する。家族内でのあだ名は" なまけもの" 絵を描かない自分にこれでいいのだと強引に納得 させ生きていたように思う。年を重ねながらこれ でいいのか、何の為に生まれ、生き、死んでいく のか空しく気持悪さを感じ、自問自答の繰り返し の日々を送っていたように思える。
自由美術の存在は以前から知っていたが、展覧 会を見た瞬間に正直引いてしまった。あまりにも 自分が持っていた絵画概念と違い過ぎたからだ。 その一方はっきりと焦りを自分に対して感じてい た。広島の自由の方々と絵の話をしたり、飲んだ りする中で絵の世界に引き込まれていった。まず は描くという行為を楽しんでいこうと筆をとっ た。これに火がつき再デビューが始まる。空虚な 生活が一変し、目標が出来た。今まで自我を殺し 本来の自分を失っていたのだと痛感した。絵を描 き続けたいと素直に認めた時でもあった。小さい 頃から絵を描くことが好きだった。実家の片付け に行った時数枚の絵と沢山の通知表が出て来た。 所見に目を通せば、集団活動に欠ける行動が見ら れると何個所にも記載されていた。「やっぱりね 〜。」と娘が大笑いし、私の原点はこれかと苦笑 した。絵は私にとって空気と水と同じでなくては ならないものだと某記者に語ったことがある。格 好良すぎで反省している。
先日友人の展覧会からの帰りに久し振りにバス に乗った。バスは平和大橋、西平和大橋をゆっく りと走った。この橋は日系アメリカ人彫刻家イサ ム・ノグチのデザインが起用されており、独特の 形状をもつ欄干に目を奪われてしまった。無駄を 削ぎとった美しさがそこにあった。当時ノグチは この橋達に“生きる”“死ぬ”と名付けたらしい。 (現在は周囲の声で別の名付にされている。)生き る。死ぬ。これこそ人間そのものと共感する。
自作を見れば無駄の乱立、欲張りまる出しのも のばかりだ。やりたいように描いて、これでどう よ!! と言いたいが成立していない。組み立て(構成)が必要ということは言葉で理解はできるが作 品に出て来ない。やはり制作、鑑賞不足から来て いると思われる。余分なものの削ぎ取りも必要で あろう。
長い冬眠は周囲からみれば無駄に見えたかもし れないが今思えばこのことがあったからこそあり のままの私を取り戻すことが出来たと確信する。 どう受け止めるかは私次第である。
昔の作品を懐かしむより、無駄を削り取り言い たい事が語れる絵画追究をしたい。
この世で恐ろしいことは自分でなくなることだ と思う。思うがままに生きたい。
多くの仲間に出会うことが出来、自分自身を振 り返る機会をくださったことに感謝する。
 

小野清三

自由美術本展2014_img_21.jpg
<中心を求めて>
私の作品は、はじめにわら半紙に墨で何枚も納得のいくまで描いていきます。
最初に点のようなまるいかたちを画面に描き、これが最初の中心になります。そしてこっちともうひとつのかたちが入り、その二つのかたちがお互いに響き合い、二つのかたちの間に中心が出来ます。三つめのかたちは二つのかたちの関係をみながらこっちにと描き、又、中心が変わります。そのようにしてかたちが増えていき、中心も変わっていきます。最終的に中心が決まり、かたちが出来ると墨の作業は終わります。
<ミクロコスモスからマクロコスモスへ>
全ては、原子よりも小さい一つの点から始まり、球形に広がって行く。
モチーフは常に宇宙的である。
<風景(自然)の写生>
私は風景を描くのが好きで、よくスケッチに出かけます。景色をぼんやり見ている分はいいが、描こうとする風景を目の前にすると、その広大さに圧倒される。そこで私は、どこかに中心を見つけます。そうすると全体が見えてきて、その中心に向かって描いていきます。
<美術館>
美術館の広い空間に作品を置くと、画面の強さみたいなものが必要になります。
私は、彫刻家のジャコメッティの作品が好きです。彼の作品は、中心がしっかりしていて、求心力があります。作品の中心から広がって行って求心力で又、中心にもどる。そうです、呼吸が彼の作品にあります。
美術館の広い空間を作品に引き込む様な強さがあります。
<巨大台風>
今、日本列島に大きな台風が近づいている。よく見ると、巨大な台風ほど中心の目が強大である。
ガキのころ、あたり前の事が出来なくて反発すると、お前のツムジは左巻きと言われたが、台風もまた左巻きである。
今、話題になっている、現政権の集団的自衛権は、平和憲法からいえば、逆向(左巻き)している様に思える。
これが巨大台風の目とならない事を切に願う。

後藤拓哉

自由美術本展2014_img_22.jpg
“自作を語る”・・・・。いつも思うことだが、重いテーマである。しかし、考えようによっては、自分の作品を改めて客観的に見つめ直す機会でもあるようにも思える。
原稿依頼の承諾後しばらくしてから、さてどんな内容で書こうかと思い巡らし、過去の本誌を眺めていたら、ちょうど2年前に同じテーマで寄稿していた自分を発見。“あれっ、また・・・・? ” と思いつつも後戻りできない状態。2年前は「冷たい白と温かい白」というサブテーマで、秋田県人の自身が持ち合わせている日常的な“白”のイメージと、異なる風土などから感じ得た非日常的な“白”の印象の違いから、作品の中に見て取れる“白”という色の持つ温度感や豊かさについて触れていた。
前回とは違った視点から書かなければならないところが苦しいのであるが、自由美術秋田グループで、私の学生時代から現在までの30 余年の作品を取り上げた作家研究会が、2010 年に行われているので、今回はその時の内容からキーワード的なものを拾い上げながら自作について考察してみたい。
<雲と空を意識した作品> ・・・・初期の頃から持ち続けていた風景に対する憧憬は、大空や空を飛ぶことへのあこがれへと拡がった。雲の上の世界、時差の不思議、丸い地球の神秘・・・・、28 年前、初めて海外へ飛び立った時の感慨は忘れられない。
<光の反射への意識と露出オーバーの失敗写真> ・・・・白壁と明るい陽差し、そしてその照り返し、狭い路地から広場へ出たときの" ホワイトアウト" 的な白い世界にわずかに見え隠れする街並みや人影はモチーフとして魅力的に映る。
<ブレた人物> ・・・・旅先でのスナップ写真の背景で佇む見知らぬ人や駆け抜ける人、通りすがりの人々の自然なポーズは、時にブレたりしながら、そのフォルムは興味をそそるものとなる。
<光と影の絡み合い> ・・・・樹木から差す木洩れ日、建物と人物の組み合わせ、光によって生まれる影、影と影あるいは影と陰の結合によるフォルムの変化は光の差し方とともに、画面空間に変化を与え、複雑さを加える。
" 影" は、実体と想像のはざまの不可思議な存在として魅力を感じている。
<建造物の単純化と空気感の増加> ・・・・建物は風景の雰囲気を決定づけるもののひとつといえる。初めは建物の美しさに惹かれていたが、明暗の表現から、次第に風景を包み込んでいる空気そのものの表現に重点を置くようになってきた。
学生時代から数えて、節目節目で環境が変化したり、制作のモティベーションが上下したりしながら今日まで約35 年、自由美術に出品し始めてから23 年という月日が流れた。その間、日常と非日常の中で様々な人やものから刺激を受け、現在の絵が形成されてきたように思う。今後もよろしくお願いします。

兵藤寛司「銅版画考」

自由美術本展2014_img_23.jpg「ファミリー命」
この頃、思考が定まらずに表現力が停止するときがある。銅版画にするねらいを説明してほしいと聞かれて、十分ことばや文章に出来ないことの多さに内心悩むことになっている。運動選手が助走に入る場面ように、こんなとき私は新しい銅版を朴炭でただ磨くことにしている。ここで不思議と元気になれる。いつの頃からか、この銅版磨きの「儀式」が私を待っていて、次はヤスリやニードル・ルーレットの工具類の手入れをすることでエッチングの世界に入る。金属の銅の板は私にとって肉感的ですらある版画表現の「銅版」に変貌する。
エッチングの腐蝕液はずっと硝酸を使っている。塩化第二鉄を使う人が最近多いようだが、私は硝酸が創る腐蝕の線の味が好きなのである。ゴヤやレンブントが使用した腐蝕液の中味を誰かによく聞いて、これで版をつくってみたいと思ってそのままでいる。
私はあの17 世紀のレンブラントの銅版画にこだわっている。当時の油彩画は受注による制作が主流であったが、版画は作者自らの意思で主題を選び、自由に表現出来る手法であった。レンブラントは油彩画の複製手段と見なされていた銅版画を、工夫を重ねて微妙な濃淡の変化や繊細な質感表現まで実現させ、表現力を一気に高めている。線表現の奥が大変深いものを持っている。
そしてまた、5年前の「浜口陽三生誕100 年記念銅版画大賞展」での銅版画による一般公募展の受賞作品群を忘れることは出来ない。浜口陽三は以前自由美術結成者の一人で、カラーメゾチントのパイオニアである。出品作家は国内307 名のみならず、海外62 ケ国から338 名が応募している。彼の記念館(東京日本橋)で展示した大賞、入賞作品は、銅版画表現の多様なテーマ処理を、また多様な技法を教えてくれた。
私は銅版画の今日的課題には、多様な表現技法の追究に眼を奪われてしまうことなく、自己の主題追究・テーマ性への自覚を持つことと考える。多様な技法・新しい製版材料の発掘には興味があり、手にしたときは面白くてすぐに試してみたくなる。これから自分に必要な手法を見つけ、発展させ、自分のものになる様多様性を持って制作にとり組むことになろう。しかし、自己の絵の世界を豊かにする根本を見失ってはならぬのである。

美濃部民子

minobetamiko2013.jpg
「都市伝説−進むべき道」
女子美術大学の洋画専攻を卒業したものの誰れに師事することもなかった私は縁あって自由美術に出品するようになり、自由美術は私の主な勉強の場となった。諸先輩の絵に打ち込む姿勢や考え方は右も左もわからぬ私にとって驚くばかりで絶対値の様に響き、自由美術関係の方々の個展やグループ展に出向きそこに集う人々の語らいを熱心に聴いたりしたものだ。
私は造形的に思考するより言葉や物語で考えることが好きだったので、始めのうちはどうしても文学性の優った作品づくりに傾いていた。自分の造形性の弱い作品を強くするために非対象の作品を創りたいと腐心し線には何故直線と曲線しかないのか?などと思いつつ、自由美術展を熱心に鑑賞し、自分の作品を描いていくとそれらしい作品が何となく出来あがっていった。色々と御批評などいただきながら、だんだんと自由美術風な絵になり今思うと何か不自然な感じではあったもののどうしたらいいのか?どうしたいのかも判らないままに私の30 代は過ぎていった。
室内風景的なものを基にしてモンタージュ的手法で物語性を抹殺し創作に励んでいた時輪郭線と色面をずらして描くことを思いついた。その背景には自由美術諸先輩の線を巧みに使った作品があったからだと思うが、自分にとってはラッキーな救いの手のように思えた。爾来「下手なイラストじみた線は止めろ」「あなたの絵も線がなければいいのにねェ」などとの親切な言葉をものともせず、せっせせっせと画面に線を取り込んで今日に至っている。
線と面とを切り放すことは思いついたものの、今ひとつ自分自身と自分の作品がしっくりしないと悩み続けていた頃にアルマンの展覧会を見た。同じものを沢山集めて固めてみせたりする立体作家だ。その作品が何かしみじみしてて良かったのはもちろんだが、付けられたタイトルがまた詩的で美しかった。それを見て、今まで封印してきた自分の文学好みの面はもしかしたら私を支える強みになってくれるかも知れないと何やら道が開けた気になった。
その頃と相前後して某画廊から個展を開いて下さるとの誘いがあり、売れる可能性のある小品を沢山描くという課題を与えていただいた。全くの抽象はだめで、半抽象的なものをという条件。難しかったけれど何とか10 年位続けさせて頂いた。その半抽象の小品は自由美術展に出品するような大きな作品にも少なからぬ影響を与え、何か以前よりずっと絵が描き易くなったし、どんどん筆がすすむようになっていった。有難いことだった。
半抽象的小品造りがきっかけとなって徐々に自分が描きたいものが明らかになってきた気がした。東京で生まれ育ち、自然に親しむタイプでない両親の元で、土は「泥」と呼び汚く「バイキン」がいっぱい入っていてすぐに洗い落すべきもの。家の中で見かけた虫はすぐさま殺し捨てる(まあ、ハエ・カ・ゴキブリなどが主ですが)といった環境では自然を愛する気持が育つわけもなく、関心は人工的なものに向いていった。
私は自分で描くのとは別にして見るのは風景画が好きなのだが、風景画は普通豊かな自然や農村風景、欧州風景などでたまにある都会の風景があってもそれは都市を否定的に捉えていたりで何か違った。写真家荒木経惟氏が撮る豪徳寺界隈の様な今の普通の東京の佇まいの絵が見たいと思うのだけどなかなか無い。
それなら自分で描いてしまおうと現在は自分の生活している周囲の様子や眼の底に沈んでいるかつての景色を描こうとしている。遅い歩みで我ながらガックリするのだけれど、ようやく自分の描く絵に出会えた気がする。
ささやかな才能とそれに見合う位のささやかな努力とその時々の幸運な出会いと皆々様の御好意に支えられここまで来られたのだと心から思う。感謝、感謝です。

隈部直臣

自由美術本展2014_img_25.jpg
「これから」
2012 年に乾漆彫刻について簡単に書かせてもらいました。今回も繰り返しになりますが内容を少し変えたり補足したりして同じ様な事を書きます。少しでも乾漆彫刻に興味を感じてもらえればと思っています。
乾漆彫刻は、奈良天平時代から平安時代初期ぐらいまで行われた技法です。平安中期藤原時代以後は木造彫刻が主流となり、乾漆彫刻が姿を消していきました。しかし、近代になり乾漆彫刻が制作されるようになりました。自分が行っている乾漆彫刻は、昔の技法とは少し異なっています。石膏型乾漆です。材料は生漆、麻布、木、砥の粉、地の粉、銅線などです。粘土で原形を制作し、石膏で雌型を作ります。そのさい粘土を取り出す為に型を幾つかに分割します。雌型の内側に、離型剤を塗ります。錆漆を作ります。砥の粉、地の粉を水で耳たぶ程の固さによく混ぜて練ったものです。錆漆を石膏型の内側に塗り固まったら錆漆で麻布を貼り重ねて固めます。それを数回繰り返します。補強として龍骨のように銅線を入れ錆漆と麻布で固めます。木で芯棒を作り雌型の内側の作業を終えます。分割した石膏型を麦漆で接着します。よく固まったら石膏雌型を壊し中の乾漆像を取り出します。取り出した乾漆像の表面には離型剤が着いていますので水で洗います。取り出したままで完成させるのではなく、再度乾漆像に、錆漆でモデリングをして形を作ります。そして表面を仕上げ、拭き漆をほどこします。これで完成です。漆のもつ静けさや華やかさを感じられたら幸いです。
漆の特性は、気温や湿度によって固まりが早かったり固まらない場合があります。ある程度の温度と少し多めの湿度が必要です。
一度に厚く多量に塗ったり錆漆を盛ったりすると表面だけが乾いて固まってしまい中は、いつまでも固まりません。硬化不良を起こしてしまいます。一日、一行程ほどしか作業が出来ません。少しづつ根気良く何日もかけて行います。乾漆の作品は時間が経つと色が薄く透けたようになり下地の模様が、あらわれてきます。好みにより良しという場合もありますが漆を塗り重ね濃くしたり錆漆でモデリングしたり削ったりという具合に完成後も作品に手を加える事があります。これも漆の持っている特性を生かすという意味で作品が変化していくのも良いような気がします。
漆の持っている時間の静けさ、ゆっくりと流れて行けばと思っています。

川﨑文雄

自由美術本展2014_img_26.jpg
「まだ飛べるのか?」
戦後10 年が経った福岡県の南部の八女市とい う田舎町で生まれ育った。川に和紙の原料の楮の 皮が晒してあり、阿蘇山の火山灰が堆積した凝灰 岩を彫って作る石灯籠の作業場や、仏壇の細工物 を彫る工房が近くにあった。小高い山々を背景に 川に沿って開けた田畑の広がる風景。点在する古 代の竪穴の墳墓跡。これが私の原点となった故郷 である。肥後守(ひごのかみ)という折りたため る小刀とマッチをポケットに入れて、山で鳥や小 動物を捕まえたり、川で魚採りして遊んでいた。 蝶の採集に熱中したこともあった。近くの崖に地 層の見える場所があり、そこでよく粘土を掘って 何か作るのに熱中した時期があった。焚き火で焼 いたり、粘土で原型を作り紙を貼り重ね張り子を 作った記憶がある。勿論絵を描くのは好きだった のだが。
どうして自作を語るのに、自分の幼少期の話か ら始まったのかというと、なぜ絵から立体作品を 作るようになったのか、自分の立体作品の中心が 土を焼いた作品になったのかという原点が、そこ にあるのかも知れないと最近感じているからであ る。自由美術に初めて出品した「牡牛」という作 品も信楽の土を焼き締めて緋色を出したような作 品だったし、木彫作品を2回出品、ミクストメデ ア作品を2回出品した以外は、自由美術には、土 を焼いた作品を出品してきた。土を焼いた作品も 最初は焼き締めた焼き色にこだわったものを制作 していた。作品が大きくなるにつれ、焼き締める ことにより収縮が大きくなることと、タッチが硬 すぎるのが気になり、いわゆるテラッコッタ作品 (900 度くらいで焼成)を制作するようになった。 30 歳代から40 歳代前半はテラッコッタ作品を中 心に発表していた。柔らかいタッチで古代的なイ メージの作品を制作していたが、この古代へのあ こがれといったモチーフの原点も生まれ故郷の古 墳群にあるのかも知れない。40 歳代後半から黒っ ぽい釉を掛けて1200 度以上で焼き締めた作風に 変化するが、作品のテーマが社会的なもの、「ひ と」の内面が中心となり、形態が構成的で硬質な ものに変化したからである。焼き締めることによ る、収縮をいかに抑えるか、光沢のない彫刻に合っ た釉をどうやって作るか、試行錯誤したことを思 い出す。まあ、次から次へブロンズにできるだけ のクライアントや財力があればそんな苦労はしな かったとは思うのだが、望むべくもない。この時 期は、N ・Yの9. 11 テロ事件、アフガン紛争、 イラク戦争そして3年前の3. 11 東日本大震災と あまり明るくないことの続いた時期でもある。作 品も「犠牲」シリーズ、「廃墟」シリーズ、「孤独 なるもの」シリーズと暗いテーマが多くなって いった。
幼いころ大自然の背景にどこまでも広がってい た平和な大空の向こうでは、紛争、戦争は絶えず、 地球の環境すら危ない状況になっていた。繰り返 される人間の営み、その美しさも醜さも「ひと」 のありようとして表現できればと思ってきた。ひ との姿を「孤独なるもの」という題名で制作して きたが、ふと、自分をかえりみて2012 年の自由 美術展に「まだ飛べるのか」という題名の作品を 発表した。ある意味「自刻像」ともいえるこの作 品は、体の大きさに比べると飛べそうもない小さ な翼がついているが、まだ飛ぶことを諦めた訳で はない。蹲ったまま、何かを考え、飛ぶ機会を狙っ ていることと思いたい。体力は年齢と共にだいぶ 衰えてきたが、自分なりの「ひと」の姿を表現し ていきたいと思っている。所詮どんな権力者も一 市民も同様に土に還る。今、日本が集団的自衛権 をめぐり大きく動いている。私たちはどういう時 代に生きているのか、きちんと見極めながら、自 分の描く「ひと」型を土に託して表現していこう と思う。

竹永亜矢「自作について」

自由美術本展2014_img_27.jpg
現在、彫刻制作と同時に、短期大学保育科にお いて、美術表現分野を担当し、授業やゼミで、学 生と共に塑造制作に取り組んでいる。
私が勤める近畿大学九州短期大学は、昭和56 年より、美術担当者として彫刻家の原田新八郎氏 (1916 〜1989)が就任後、現在に至るまで、歴代、 彫刻出身者が学生の指導に当たって来た。
その為、充実した塑造制作施設と、良質の木節 粘土が代々指導者に受け継がれており、塑造研究 に取り組める環境が整っている。
その様な環境のもと、授業では、幼稚園以来、 初めて粘土を触るような未経験者から、ゼミ生の 研究に至るまで、粘土に触れ、制作する塑造課題 を積極的に取り入れている。
20 歳前後の学生たちは、天然素材に触れる経 験も少なく、初めて触る粘土の感覚に最初は戸惑 う場合も多いが、粘土を体感するうちに夢中に なって取り組みだす。
粘土による造形活動は、素材に触れた時の反応 や、制作に対する熱意や感動がダイレクトに伝わ り、作者の個性や感性が表現される。その事から、 天然素材である粘土を使った遊びや造形活動は、 フィンガーペインティングを活用した心理療法同 様の効果を持ち、心を癒し、活性化させ、あらゆ る人間の造形本能を刺激する活動である事を実感 している。
現在、短大での指導の他、大学の芸術学部でも 粘土による造形表現を担当し、彫刻の基礎学習と して、首、胸像、等身裸婦像の制作指導にあたっ ている。塑造の指導では、学生の作品に手を入れ る事もあるが、作者の個性が素直に反映される塑 造に於いて、その行為は非常に神経を使う。言葉 だけでは伝わらない、立体表現の指導方法の一つ であるが、個々の作品を尊重し、学生と一緒に同 じ課題を制作する事にしている。
有言実行、学生より早く、良い結果を出さなけ れば学生の参考にはならないが、その緊張感の中 での塑造制作は塑造研究の一環として、制作と指 導両面で興味深い結果を生んでいる。
20 分4ポーズで首1本を制作し、壊してはま た作るを繰り返し、学生が一体制作する間に、何 体も制作する。やり直しが何度でも可能な塑造の 自由さを伝える為、デッサンするように、気負わ ず取り組む。長時間かけて制作する意味や目的、 即興的に制作する事で生まれる効果や作品の良さ など、学生は自分の作品制作の傍ら、目の端にで もその記憶があれば、何か伝わるのではないかと いう期待を込めて、毎回、一緒に汗を流す。
効率よく結果を出す事が優先される現代におい て、彫刻制作は、一見無駄な肉体労働に見え、泥 臭く、時代遅れな世界と嫌がられるが、その作業 工程すべてに意味があり、労働の中で、素材と対 話し、彫刻とは何か問いかけながら、おぼろげで 奥深く、見えそうで見えない芸術の本質を探究す る。
同じ道を歩む者として、学生と一緒に、モデル と作品に向き合い、集中して取り組んでいると、 アトリエ全体が真剣な空気と緊張感に包まれた制 作現場となる。
学生との1〜2年の短い接点の中で、基礎学習 としての塑造から、各自の表現活動の研究考察へ と、学生が自分の作品世界を広げるきっかけとな る授業の実践と、卒業後、いつでも戻って来れる 学びの場を作る事が指導者としての私の課題であ る。

森 真「彫刻の仕事」

自由美術本展2014_img_28.jpg
「甘噛み」
つくる上で気を付けていること、良くないこと、 恥ずかしいと思うことを話してみたい。
「発想」何かをつくり始める時、やっかいなこ とは、あたかも確たる構想や論理的な根拠めいた ものに沿って進めようとしたり、発表する時の他 人の目などを気にすることだ。何か不自由な自分 がそこにいることに気付く。まるで風邪のひきは じめ、悪寒におそわれる如き心地だ。良薬もなく 困ったことだ。どうしたら克服できるのか。そこ で、つくりはじめがどんなものか思い出してみる。
「初動」ひたすら粘土を準備する。何日かかけ て1トンくらい練る。不安が消えてゆくのを待つ。 ひたすら何かを待つ。発想めいたものは、どうや ら手が覚えているらしい。
「一粒の土が形を左右することもある。」故
峯 孝氏は、私のアトリエに来ると床に落ちた粘土を 拾ってそう言った。そして小指ほどの横たわって 頬杖をつく少女をたちまちひねったりする。どう してその様なことが出来るのか驚異に思えたが、 実は彫刻家の中には既にデッサンや形があって、 そんなことは雑作もない事だと今は気付いてい る。アトリエの床はコンクリートだが、毎日モッ プがけをするのは粘土を拾うためだ。
「デッサンすること、そしていやなこと」写真、 そこに何も写っていないことは、もう何年も前か ら気付いている。よく、展示した自分の作品の写 真を頂くことがあるが、同一のものかと目を疑う ことがある。同じことで、3Dプリンターのやっ ている、実に正確でおろかな作業もデッサンの対 極にある行為だ。これと同じことをすることが、 いやなことだ。デッサンをすることは、「その様 にみえる」ことをめざすために大切なことである。 デッサン力というものが問われるとするならば、 そこが体内にきちんと出来ているか否かをもっ て、説得力のある形かどうかを分ける。
「恥ずかしいこと」彫刻家と不思議ないきもの たちという題で個展をしてみた。彫刻展などと看 板を出したとたんに、芸術作品の展示会が催され ていますと言ってるみたいなことから、少し離れ てみたい気がしたからだ。芸術という響きは、芸 能とか忍術みたいなものをまぜたような言葉のイ メージがあって馴染めない。ほんとうはそんなこ とはどうでもいいような気がする。
何が恥ずかしいかは、自分の目を信じないこと であって、誰かが決めたことにふりまわされてい るつくり手の存在なのだ。きっと良くない仕事に 駄目を出す勇気が必要だろう。

エッセー自由美術

三つの会場・技巧の完熟・美術の爛熟

大野 修

自由美術本展2014_img_31.jpg
5月、都美術館で開かれたベストセレクション展を見て、日展、院展の日本画の超技巧作品に感心した。その完璧な技巧は永い歴史と研鑚の末、今、極に達していると思った。
胡粉の盛り上げ、彩色、線描、たらし込みの妙、また色料、紙の材質が選りすぐられていて、作品から美香が匂い立ってきて文句無しに美しく、胡粉の盛り上げなど使い方ひとつを見ても、ここまでの修練、加算された時間は大変なことだと想像した。それに画面の構成、構図も隙なく、虫眼鏡で見ることが許されるならもっと快楽を味わうことが出来ただろう、過日私は院展の作家から画材一式をゆずっていただき少し試みたが、陳列された作品との距離は、遥か彼方、銀河を飛び越えてアンドロメダ星雲の果てにある。
洋画と呼ばれる各団体の作品は日本画のように系統だった伝統技巧は未だ無いだけに百画百様、より身近なものとして見られたけれど。画面の大きさがまちまちで、いかにという技巧の競い合いがあり、アクリル、岩彩、ペンキ、樹脂、金属など多才。絵具の量も作品の重さも年ごとに増えつつある。
同時期にバルテュス展と東京自由美術展が開かれていて、バルテュス展はベスト展と対照的で、画面は部分的に泥絵具を溶剤にまぜテンペラ風に意図されている程度でこれといった技巧はない。それだけに世紀末のヨーロッパの爛熱がストレートに伝わってきた。
バルテュスは性癖と実益が一致した幸せな人で(人全て、それぞれ種々性癖有り)秘匿、死蔵され世に知られていない少女画は数多くあるはず。そうでなければあの貴族的生活はなかったろう。私はバルテュスの作品に欧米文化の爛熱を見るのだが。彼の地のこれから先の爛熱の果ては、女権がいっそう強くなり女バルテュスが現れ、あやしく少年の美が描かれるだろうと思う。ピカソがバルテュスを20世紀最後の巨匠と言ったとか・・・・それがそうなら20世紀も20世紀の果ても寂しいことだ。
バルテュスはユダヤ人の血も混じっていて、あのヨーロッパを巻き込んだ戦乱、殺戮のただ中を生きたわけだが、少女と向き合う静かな夢のような日々。作品は見事に煙硝の臭いも血の臭いもしない。私はそこに行き着いた末の、文化の余剰、爛熱を見るのだが、しかしバルテュスのこだわり、主モチーフには少々の不満もある。人間の身体は年令性別を問わず美しい。であっても雛菊や桜の美はわかりやすいが、老松の美はわかりにくい。
裸のモデルといえば大方は美しさが誰の目にもわかる25才前後の女性で、バルテュス描く少女のミステリアスもそのほんの近くにある。バルテュスと制作年代がほぼ重なる20世紀最後の真の巨匠、我が敬服するモランディはさしずめ老松の美だろうか、比べると、そこには無限のミステリーと20世紀の絵画を撃つ、哲学といったら俗になるが大いなる構想がある。
技巧をはなれて、ベスト展をそれでものバルテュス展と比べてみると、大方は内容のこだわりと、偏執的なるもの、狂気、といったものが稀薄で、牧歌的幸せな空気がただよっていた。だから逆に日展、院展の超絶技巧だけが確かなものとして私の中に入って来たのだろう。ただその中で、小倉信一さんが描かれた、昨年の東美展出品作 イノチハコブ−水− に続いての ベスト展出品作 イノチハコブ−キオク− に偏愛、こだわりをもった純水を求める気が満ちていて、感動し、教えられるところがたくさんあった。
自由展の会場ではその特質になかなか気がつかないが、ベスト展で他団体の絵の中に混じると、これといった技巧を凝らしていない技術といったものも見え、技巧の快楽を超えて迫ってきて考えさせられた自作を反芻した。
東京自由美術展とおよそ50年前のバルテュスとの比較はあまり意味がないが、技巧の競い、絵そらごと、浮き世離れした題材が多いベスト展と比べると、決してかっこよくないけれど矛盾に満ちた、我々が今在る存在の反映があって私は身につまされる、又労力多くして見返り少なしの立体作家の全力投球にも脱帽した。
ものを創るには技巧の巧みは必要不可欠なものだけど、困ったことに技巧の快楽というものがあって、往々にして内容と離れて一人歩きをする。又、現代技巧の一種、穴を掘ったり、シートを被せたり、それも結構だけど、結果、行き着く先は地獄の沙汰も金次第で、いつもそれらを見て、もっともっと金をつぎ込んだらすごいのが出来るぞと作品のイデーを越えて思ってしまう。どの様な作品も、万人自分なりの技術、技巧を持っていかに表現するかに尽きるのだけど・・・・
日本には自称絵描きは10万人いるらしい。(某美術雑誌の推測)私も当たらずとも遠からじと思う。1人が絵と人間を知っているのはせいぜい100人ぐらいの井戸の世界で、未知なる999の世界があり、計算を続ければ毎年2、3万点の作品が何らかの形で消失しているだろう、それらも含めて私は外界を知り自作の領域を広げたいと思う。その貪欲さがなくなればすなわちアウトだが、幸い今はネットの時代、大方の概要だけでも知りうるありがたい?時代で、各所のホームページ、ブログ、フェイスブック、ツイッター、ミクシィ、デジブック・・・・油絵の技巧集を集めた動画などあり、虚像ではあるが歩かなくても歩けなくなっても受信と発信が出来る。で便利ネットで私はざっと世界を一周してみた。ヨーロッパの世紀末爛熱の風は我が東洋に写し絵の様に達し、今世紀、神はまだ眠っていらっしゃるようだ。この時代私達は描くこと見ることに加えてもっと多く知ることも大切なのかも知れない。

エッセー自由美術

奇想への系譜

小川リヱ

ogawarie2014.jpg
2014年 「みなもを渡る風」F150油彩麻布
作家の立場からみたマニエリスム
絵は視覚に訴えるモノ、一瞥、瞬時で観る側の懊悩に突き刺さるようなパトス(情念)が在るといい。
1992年、私はベルメールの写真「ドール」に触発され、ザウデク写真の生身の体を融合させて 「裸足林立」(F 130)を自由美術に持って行った。でも、これではないもの「せいうち」(F120)で靉光賞を頂戴した。刺戟的作風の生じる過程において「視覚における快楽」は必ずしも「美」とは言いきれない。
「美」との反語、グロテスクは一般的に「醜悪」と解釈されているが、グロッタという人工の洞窟に仮想動物などが壁一面に埋め尽くされている文様をさす。源泉をたどればルネサンスに遡り、ポンペイをはじめローマ遺跡の発掘によるヘレニズム文化を手本にした様式に端を発する。どこが顔だかわからない石膏で有名なラオコーンもその一つであり、身体を捩じる有機的曲線を想起すればミケランジェロのダイナミックなポーズと類似していることがわかる。
この巨匠を神のごとく中核にすえた手法はラファエロの死後16世紀、ヨーロッパを席巻しマニエリスム様式として敷衍していく。
当時グロテスクも手法のひとつとして宮廷建築の装飾の必須アイテムであった。時代の推移と価値観の変化、美術史で重要視される整合性のみが 「美」でならなければならないカノン(規範)について疑問をもった私は、97年、地元の梨大の修士を受験しマニエリスム研究を始めた。自己制作の位置づけと作品肯定を、論文によって客観的検証するためである。
人間の深層心理には「デジャブ的なある種の恐怖」を欲する感覚がある。一度見たら忘れられない印象、その類例として、ミケランジェロの最後の審判に多大な影響を与えたシニョレッリ(オリビエ―ト聖堂壁画連作)を引用する壁には姿態を通して個人的感情が公的建造物に描き残されている。数百年を経ても常に恐怖と驚異的な表象が顕在している。同様のポーズをとる現代のフォトグラファーのビバンチェの写真と比較すると、メソードとしての美術解剖学もルネサンス期より重んじられ意識されている。さらに理想とされたオリンピア的体躯の身体表現には、エロス(性差)を感じさせない健康的な印象さえ与える。
自由美術本展2014_img_33.jpg
「裸足林立」(F 130) ベルメール「人形」
自由美術本展2014_img_34.jpg
シニョレッリ(フレスコ部分)
自由美術本展2014_img_35.jpg
トム・ビバンチェ(メールヌード)
誰しも、すれ違いざまに思わず振り返ってしまうような好奇心がある。レオナルドの描くグロテスクな顔は、整合性を求める公的な美から、かけ離れた異端で私的な部類である。奇想の生まれる背景を坂本満教授の文を引用すれば「・・反理想的で非類型的な概念系列に立つ、普遍的な理想の円満具足に対して現実はつねに偶然による欠落や過剰があり、それだけに一層個別的であるとなれば、逆に現実のなまな存在感を強調するにはその欠落を明らかにする・・」(別冊みづえ57号季刊冬1969ベラスケス 80頁美術出版社)とある。人間の本来持っている動物的本能は、子供の持つ好奇心と恐怖に対する感情に近い、怖いもの見たさのようなモノ、だが倫理の被膜に包まれて抑制された「美」のもとで、封印しようとする。
2014_img_36.jpg
 ミューラー ギージ レオナルド・ダ・ヴィンチ
私はこの深層にある感情を表現するため、インスパイアされる素材を蒐め、イメージソースを温めている。その一つマニエリスムにみられるエキセントリックな身体表現の系譜について、ラファエロ工房の版画家ライモンディを例にとると、師の作風フィグーラ・セルペンティナータ(捩れた身体表現)をエングレーヴイングでおこし巨匠作品を複製としてあまねく伝播させている。蛇状身体とも呼ばれる人物像はマニエラ「型」とされ理想の形状として、追従の画家群に公式の模写を義務づけたといえよう、しかしながらアルプス以北に渡ると原作から変貌しているのがわかる。ミューラーの前縮短縮法にはマンテーニャの仰視法(ソット・イン・スー)の影響もあり、ギージでも空間に当時流行したグロッタ風の過密な装飾も加わるが、双方とも過剰な筋肉表現が加筆されている。類型による造形要素に風土性をミックスし熟成させたスタイルともいえる。複製品の大量生産、大量消費にこそベンヤミンは「アウラの喪失」を提唱したが、16世紀版画にはオリジナルとは異質の「アウラ」が存在していると考えられる。模写によるプロセスが伝達媒体や拙い技術、あるいは手馴れた次世代などによって、オリジナルが歪められ逆に斬新な「奇想」をもたらせているからである。「奇想」にたどり着く以前、自作で正確な人体表現をめざし長らくピアツェッタにも魅了されていた。ベネツィア派バロックに属し初期ティエポロにも影響を与えている。明暗のコントラストを生かした茶系の絵肌からはカラヴァッジオやベラスケスのキアロスクーロの流れが汲みとれ、限られた明部に白色系マチエールを重ねて筋肉をもりあげる手法は、他の部分を省略することによって逆に緊張感が生じる。しかし画面全体での諧調はむしろリズム感を伴うため息苦しい重さにおちいってない。私はこの作風からヒントを得て、マッス部分にエッチング(銅版画腐食)で偶然できるソラリゼーションを意識し、残されるライン部分を推定して人体の微妙な有機的曲線を構成している。
自由美術本展2014_img_37.jpg
ベルナルディーノ・ルイーニ ブルース・ウェバー ピアッツェッタ
その試作として、レオナルドの影響を受けたルイーニの「水浴する娘たち」とブルース・ウエバーのフォトを参照してマニエリスムのキーワードの一つ「奇想の概念」の具現を自作に反映させてみた。
水を鏡面として扱えるので視覚は様々に歪曲した身体を見出すことができる。しかもルイーニでは女性の臀部と踵骨部分のみ「泳ぐ」という行為で証明され分割が可能となる。波紋の具合によっては身体の部位を引き伸ばしたりバラバラにして組み合わせられる。画面上では10頭身以上のフォルムも理にかなう。素描では陰影と錯視を利用し身体を正確に見せるための演出を画家がほどこすのであって、その方法としてウエバーの奇抜なアングルを見ながら身体のパースペクティブを確認し、コントラストで強調された目立つ部分は触覚的感覚で筋の走行を考慮する。その際ボディをなまめかしい現実(ネイキッド)として捉えるのか、果たして理想化先行で、肝要な部分を看過してしまうのか、その辺りで画家の意図する方向も決定し、ここから技法の域ではなくなる。多様な技術習得に酔った快楽に耽ると、単なる自己模倣、マニエリスムの暗部、つまらない陳腐な繰り返しマンネリに堕ち「アウラの喪失」を招く危険に遭遇する。それゆえピアツェッタの基調色を青系にしたり現代のピンクの配色に転換させ挑戦を図る。経年制作を重ねた結果、身体表現を通して俯瞰した美術とは現象であり、アニメ濫觴の現代日本でもルネサンスにおいてでも、共通因子である普遍的要素(美術解剖学など)が内在する作品には、東西の民族も時間さえも超越できると確信している。
結果的にみれば美術史は経済史でもあり、時の為政者や貴顕階級の嗜好とそれをつなぐ文化人とおぼしき解説者でかたちづくられてきた。マニエリスム隆盛時期に登場した最初の評論界ピエトロ・アレティーノもその一人。あらかじめ予想通りの枠にはめこみ、以外の答えと作風は拒絶する。それは築き上げた価値観念が脅かされ商品として成立しないからであろう。
その一方、マニエリスムのキーワードの「奇想」の概念には、後世シュールレアリスムの予見を有し、「美」という枠の形成において派生できる美の振幅を孕んでいる。狭量な枠から普遍的パトスを導き出すと人類の「真価」でもある根源的祭礼にまで達すると再考できる。画家として、あらためて索捜できるモノを掬いだし「神聖さ」「聖なるもの」を描画へ注入する必要性を感じている。

エッセー自由美術

錯綜する思惑

長谷部昇

自由美術本展2014_img_38.jpg
「錯綜する思惑」(油絵・未完)
何だか焦臭い空気が漂いはじめたような気がしてならない。呼応するかのように、私の中では過去に遭遇したさまざまな「もの・こと」が浮かびあがり、不規則に錯綜しあう。
2011年に発生した東日本大震災、連動して起った原子力発電所の爆発事故、そして放射能という目に見えないものに怯えながら故郷へ何年後に戻れるかわからない人々の悲しみと怒り。為政者の 「完全にコントロールされている」という能天気な発言が空恐ろしい。
2006年、M新聞の特集記事を興味深く読んだ。第2次世界大戦で最悪の戦いと呼ばれたインパール作戦に参加し生還した旧陸軍の兵士たちが協同して「鎮魂」という冊子を編さんした。その中心的存在の方の生前の姿を紹介しながら「その足跡を今後に繋げる必要がある」と問題提起した記事内容。
その中に「陸軍中将佐藤幸徳」の名前があった。佐藤幸徳は山形県余目町出身で私の父とは母親が姉妹という従兄弟である。私の中には今も 「コートクオジサン」として存在している。
インパール作戦に参加した三個師団の兵士は 10万人、そのうち7万人(一説では6万人)が戦病死したという無謀な戦いから生還した兵士のうちの四国出身者(在住者)たちが戦病死した戦友への追悼の念と戦争への怒りを込めて編さんした「鎮魂」。その最後のページに「われらは戦争の実相と平和の意義を次代に継承する。それが苛烈な戦争から生き残った者の使命だから」と毛筆で大書。また、その冊子には部下を全滅から救うために「責任は自分が負う」と自身は死刑覚悟で部隊を独断で撤退させた第31師団長佐藤幸徳が軍参謀長へ打電した電文も掲載されている。(佐藤幸徳の師団長としての一連の行動は、後に「抗命事件」と呼ばれるようになった)。この電文の存在は私たち家族も以前から知っていた。以下にその一部を紹介する。
『(前文省略)・・・・その重大なる責任よりまぬがれんとするにきゅうきゅうとし(中略)複雑怪奇なる命令をくだして、時々刻々全軍を自滅の深淵に転落せしめ、(中略)軍規を楯にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず。いずこに統師の尊厳ありや。(中略)将兵一同の痛感せるものは、各上司の統師が、あたかも鬼畜のごときものなりと思うほか、何ものをも印象をうけず。(以下省略)』
あの時代状況で軍参謀長に打電したこれほどの抗議を含めた激しい内容の電文なのにコートクオジサンは死刑にならなかった。そして別の戦地での任務を再び命じられた。なぜ軍はそのような処置にしたのか。・・・私は10代の後半に次のような話を聞かされた。即ち、中将以上を対象とする軍事の法廷は最も偉い人の前で開かれる。コートクオジサンは、軍命を下した上司のデタラメを指弾し、罪もない戦病死者7万人の状況をつぶさに語るための最高の機会と捉え、この法廷は師団長としての最後の最も重大な任務であると覚悟した。しかし、それら事実が明かるみになった場合の軍としての「負の部分」の蔓延を恐れた誰かが軍事法廷を開かず、肝心の部分を隠蔽してしまった・・・と。
戦後、一時的に故郷に戻ってきたコートクオジサンは周囲の人々から必ずしも正当に評価されなかったらしい。また、食料も充分でない厳しい中で家族みんなが力をあわせて生きていたとのこと。現在、遺族の一人は沖縄県にある戦没者の墓碑を守る仕事をしているという。その方には、いつ・どのようなかたちで天の啓示があったのだろう。
長々と親族のことを書いてしまった。しかし、私たちにとって「組織とは何か」、「組織と個人の関係」等は常に忘れてはならない根本的な課題である。その課題解決のヒントが、この「抗命事件」の中にあるように思われる。私たちは「先人から何を学んだか、次代に何が継承できるか」を今、問われている。
自由美術本展2014_img_39.jpg
「錯綜する思惑」(下描き)/files/shi/2014/2014_img_38.jpg

エッセー自由美術

その頃のこと

伊藤和子

itou-1.jpg
          「重い荷」
itou-2.jpg
 「ボタ山への道」
 
その頃のこと I
絵で生きる厳しさも知らず、面白さのままに、中2の時誘われて絵の会へ。その時そろえた油絵のセットは晴れがましく得意でした。準備室の棚には美術書が並び、ダヴィンチやレンブラント、ゴヤそしてマテス、ピカソを知ることが出来ました。反対もなく賑やかに楽しみました。
新しく女子美より赴任されたばかりの先生、そのお友達の赤松俊子さん、堀文子さん等の元気な姿や作品を紹介して頂けたのも幸せでした。
女子美術・洋画部へ入学、教室の窓は爆風除けの大いテープが貼られ学徒出陣も身近でした。デッサンや授業課目と週交替に動員先の工場へ、旋盤や研磨の荒い作業につきました。未熟さはやがて虚しさとして重なり、無口になります。家で6ツ目のある顔を描いても広がらず潰します。
通学の道すがら、持っている絵の具箱がみつかると非国民と声を荒げて指摘です。食糧は日を追って入手困難に、気力落ち体力も弱りです。未完成の今の環七を走る車も無いまま道巾の中央を歩いて帰りました。終戦の宵、暗幕をはずした時の明るさ、まぶしさは生涯の記憶です。
その頃のこと Ⅱ
戦争は終った。翌年の8月、再開3日目の倉敷美術館は、明るく静かだった。女子美術洋画部2年の夏休み、初めて稼いだ僅かな画料を手に、親戚、友人をたのみの1人旅―本ものが見たいゴーガンの肖像がある。
瀬戸内の海辺、オリーブの丘の重なり、姫路城も高く白鷺の翼を開き、美術館も木洩れ日に揺れておおらかにある。戦争が夢のような…。
沖縄や広島・長崎と大都会の無惨な瓦礫、生き残った者の懸命な職(食)探し、その東京へ帰った。親の工面も限界にあり、体力も消える。気持ちは決まった。女子美は止め3年修了とする。新しい社会を学校にしよう。環境の変化に意欲が湧く。社会はすごい速さで変わって行った。女性問題も表に出て変わった。組合が出来て、安いなりに守られた。絵の具も買った。映画も立見にめげず、よく通った。新しい波が若いエネルギーが柵を越えてあふれる。第2回日本アンデパンダン展に出品。第14回自由美術協会展にも入選した。作品は私小説にしたくないので、常磐炭坑経を地下800mにまで行き、ボタ山、迸炭櫓などをルポルタージュして新しいテーマに求めた。担ぎ屋とか洗濯の人などの生活もテーマに求めた。安保の直前頃ではあった。
その頃のこと Ⅲ
こうした時の流れは速く、私の中に描きたい気持が湧き出して、伝えられるままに、第2回アンデパンダン展へ出品し、その芽生えをさらに、第14回自由美術協会展へと出品、入選を叶えた。
初めての専門画家集団の集まりは煙草の煙立ちこめて、男社会の設立時の熱気が重くあるけれど、会話が伝わる訳もなく手続きをとるのがやっと、作品を探す会場も初めて知る作風ばかり、でも嘘のない自身のフォルムがしっかりとある会場の人間性に嘘はなかった。意慾と思い込みで続けた。
新しい道が開けたような、時も安保粉砕の頃、会と共にデモに殆ど連日通った。仕事はテレビや出版大手に喰われて乏しく、次の段取りを探すことになり温室の幸運は去る。
美術学校は活気があったが、団体展も出品者、地方展での発展が増し、主体展との別れ、会員審査の苦汁と問題が起きた。美術サロンでも確執は起る。ユニークな個性は年月の中できたえられ育つ。主体美術との別れ、安保の記憶、会員審査もユニークな会史。
次の仕事を探すことが多くなった。業界全体が大手に移り、大資本化に変わリガ争社会をあおる。ルーマニア行で芸術、絵画は育ちにくいことを知る。学ぶことの多い現在ではある。

自由美術 地方展 一覧

自由美術北海道グループ展

永野曜一

自由美術本展2014_img_43.jpg
メンバーの入れ替わりはあるものの、常時20名前後で活動してきたことが、案外、長続きしてきた理由かもしれない。これより人数が多ければ内部に異論や対立の余地も生まれるだろうし、これより少なければ会派としての活力や対外的なアピール度に欠ける。とはいえ、ご多分に漏れず、メンバーの平均年齢の高齢化という現象は避けては通れないようだ。
北海道グループの特色をあえて挙げれば、メンバー各人がそれぞれ独立独歩で、特定の師弟関係や地元意識にひきずられることもなく、緩い共同体をなしていることである。大らかで繊細な反面、強烈な意志や個性をむき出しにするのを何となく自制するところがある。これ見よがしを嫌い、内にこもる。そういう点は、作品にも反映されているかもしれない。透明感・清涼感のある叙情的抽象画が多いが、筆者の自戒をこめて言えば、既視感を脱するためには鋭い形態感覚を磨く必要があるだろう。陰影の濃い人物画で知られる森山誠や、人物の孤影に惹かれる昨年度の靉光賞を受賞した杉吉篤はむしろ異色な存在である。同じく昨年度、新会員に推挙された深谷栄樹は、長年オールオーバーな抽象画を追求してきたが、渋みのある画面にうねるような緊迫感が出てきた。
こんなふうに個々の作家に言及していると、あっという間に紙面は尽きてしまう。グループ展ならではの利点について、筆者の偶感を述べてみよう。絵描きは自分が描いた作品を完全に把握しているとは限らない。アトリエから引っばり出して他人の作品のあいだに置いてみることで、それまで気づかなかった欠点や長所をより客観的に認識することができる。また、作風の経年変化が理にかなっているかどうか検証する機会にもなる。そしてとにかく、画家は孤立してはいけない。絵の中に閉じ籠もってはいけない。独善的な絵は、たとえ自信たっぷりだとしても、どこか冷たいものになってしまうからだ。他人の仕事の良さがわかるようになればなるほど、自分の画力も伸びる。いい仕事は、いい仕事をしている人たちの中から生まれる。これはこめかみに力を入れて言えることである。なお、掲載写真は昨年度の会場風景である。

自由美術 地方展 一覧

自由美術・秋田 50 年の軌跡

木村恭己(自由美術秋田グループ事務局)

自由美術本展2014_img_44.jpg
 
自由美術・秋田グループ展が、この8月1日からの展覧会で50回の節目をむかえた。今回の記念展では北海道の森山誠氏を講師にむかえて有意義な作品研究会ができたことを嬉しく思う。
秋田グループ展の歴史は、1965年に故池内茂吉氏宅で5人が発起人となり秋田グループが結成され、その8月に第一回展が開催されたことに始まる。1967年には上原二郎氏を講師にむかえて研究会を行い、その後秋田展に訪れた講師は14名にのぼる。私は10回展から参加させてもらったが、講師の方々の一言一句が心に響き、「ものづくり」の厳しさと喜びを十分に感得させていただいた。
1971年からは東北の仲間が秋田展に参加し、自由美術東北展として10回を数え、東北の同質性を感じながら個々の研鑚につながった。
秋田グループの活動の主なものは、手作りの会報の発行と機関誌『人間』の発行があげられる。会報は2007年に500号記念特集号を発行し、今年度で550号を超えた。初めの頃は年毎のテーマを設定し、池内氏宅での研究会の記録や展覧会評、そして個々の生活感の表現等多岐にわたっていたが、会員の高齢化や多忙により近年は事業の確認の内容が多くなっている。機関誌『人間』には作家研究や活動の記録、随想、作品記録等を載せて年一回発行してきた。いずれも会員による手作りである。
2006年には秋田県が企画した「秋田の現在・洋画界の精鋭たち」の一回目に自由美術・秋田グループの全員が出品し、多くの県民に具象画・抽象画のよさを伝えることができたことは嬉しい出来ごとであった。
他のグループと同じように、秋田の会員も年々高齢化が進み年金生活者が大部分である。ただ近年になって若い作家の出品や入会を希望する作家が出てきて、現在の会員は23名になった。今後、我々に新しい価値観を吹きこんでくれることを願っている。
これまでのグループの諸先輩や仲間の存在から私なりに感じていることがある。それを勝手ながら自由美術の「じ」にかけ合わせて3個のじ4にしてみた。すなわち「人格」「実力」「実績」という言葉に集約されるのではないかと思う。「人格」(人望と言ってもいい・・・)は言うまでもなくその人となり4444であって、事業の推進や展覧会の開催にあたっては個々が互いを気づかいながら共通の価値の向上を目指すことから心地良い時間を共有できることがありがたい。
「実力」は制作に対する真摯な態度を含め、造形感覚の新しさ、感性の鋭さ等々諸先輩からは多くの刺激を受けた。紆余曲折ばかりの小生の作品に対し、的確な助言をしてくれる仲間の存在も挫折することなく制作を続けてこれた要因である。
「実績」は個展やグループ展の開催はもちろんのことであるが、学校教育や社会教育に貢献してきた仲間が多く、その指導から多くの人間44が育ってきた。型通りの指導ではなく、個々のよさを認めて伸ばすことに力を注いできた結果であろう。
いつの頃からか子供や若者のコンピュータ中心の生活が主となり、手を使ったものづくりの体験が薄れていると言われて久しい。手を通して考え、手を通して模索する姿は我々「ものづくり」の活動から発信してのことだと思うし、秋田グループの50回の軌跡は、「このままでいいのだろうか」という問いを世間に問いかけてきた歴史でもあったと思っている。

自由美術 地方展 一覧

自由美術富山グループ展の活動

水野利詩恵

自由美術本展2014_img_45.jpg
「自由美術富山グループ」は昭和38年頃、富山大学の彫刻家・中谷唯一先生が中心となり彫刻だけの展覧会を開催していたが、しばらくして活動中止。新たに、絵画・谷内徹氏を入れての再出発が、昭和55年7月26日〜28日(1980年)の第1回展であった。それから隔年に開催し、昨年の平成25年に、第17回自由美術富山グループ展を8月8日〜11日まで開催している。
私が自由美術に出品したのが昭和60年(1985年)からで、出品歴は長いのだが、富山の事務局になったのが16回展の平成23年からで、まだ日は浅い。この歴史のすべては、前任者の谷内徹氏のご尽力の賜物である。第1回展の絵画出品がひとりの時から、志を同じくする同朋者を募り、30年以上もお世話されたのだ。
現在、平面12名、立体4名の16名で活動している。その中には、本展には参加されていない方々も数名いる。毎年ではないことで負担が少なく、富山の中で大作が発表でき、多くの人に観てもらえる場所(大ホールを備え、カルチャー教室が入った公的な美術館)であることも幸いして、私たちの仲間になっている。時々は本展の方にも誘うこともあるが、強要はしない。この展覧会は4日間と少ないが、多くの人に観ていただいている。また、最終日の週末には、3時間かけて講評会を行っている。外部から講師を招くこともある。前回は立体部から岡村光哲氏を招いた。外からの講師は久方ぶりだった。立体の少ない会ではあるが、多面的な視点での講評は、平面の人にはとっても有意義な講評だったと思う。実は近年は、お互いを講評していた。以前は大学教授、美術館学芸員、元自由美術会員等、外部から講師を呼んで切磋琢磨していたのだが、金銭的なものや諸々の事情があって、ここ近年はお互いを講評し合うやり方をしていた。しかし、またそれもマンネリ化したようで、次回は誰を呼ぼうか検討中であるが、この作品講評の精神は昔からの自由美術の根幹からの精神の流れだと思っている。
富山県民の気質は、「しゃしゃり出ない」「沈着冷静」と矛盾する「進取の気質」も持ち合わせている。自分を主張したいのに出来ない・・・・しかし、「講評会」と、名を打つとしゃべるのである。自分自身を・・・・。緊迫した空気が生まれ、緊張感とお互いを重んじる気持ちが生まれ小気味いい空間になる。「そこまで突っ込むか・・・・」と思われることも、内省すればいとも簡単に反省へと変わる。そしてその後の懇親会のお酒は美味いのである。

自由美術 地方展 一覧

栃木自由美術展

石井克(事務局)

自由美術本展2014_img_46.jpg
栃木自由美術展は2003年に初めて展覧会を開催した。その前にも組織はあったが展覧会は開催されなかった。栃木の事務局の人が亡くなり栃木事務所は消滅してしまう。
石井克は群馬自由美術に出品しているが、栃木に住んでいるので栃木の事務局になって欲しいと言う自由美術事務局からの要請があり引き受けた。
このことを聞いた出品者の中から展覧会をやろうという気運が高まり、かつて自由美術に出品していた人、自由美術の作品に興味を持ちこの会で学びたいという人に呼びかけ、足利で第1回の展覧会を開催した。当時は出品者11人、今年は13回を迎えて18名が出品している。
会の活動は2011年の機関誌にも書いたが、定期的に研究会を持っているわけではない。足利自由美術グループ展・各会員が所属するグループ展・個展などで交流しているが、会員が一同に集まるのは栃木自由美術展の時だけである。しかし、会期中に会場や会館のレストランで近況や今後の会のことを話し合っている。
展覧会では公開としている合評会の中で、一般の人も多数参加し、活発に意見を交わし学び合ってきた。
昨年から加藤義雄さんに合評をお願いしているが、今年は自分の作品も展示して、自分の作品を取り上げての合評なので、作品のひみつが見え説得力があった。今年度も一点一点作者の考えを掘りおこし、出品者が中心となるような討論が行われ、それぞれが自分の方向性がみえたとの意見が多かった。一般参加者の中からも出品してみたいという人もいた。
毎年賛助出品をお願いしているが、今年度は伊藤朝彦さん、大野修さん、福田篤さん、横山省三さん、加藤義雄さんにお願いし、賛助出品を通して地域の人々に自由美術のすばらしさを知ってもらうことができた。また私たちも大変勉強になった。たくさん学ぶところはあるのだが、この時期ご多忙な中、作品の制作、梱包、発送の労をいとわず出品いただいている。今年で13回目の展覧会開催となるが、今回限りで賛助出品を終了し、この辺で自分たちで互いに高めていきたい。
特に伊藤朝彦さん、大野修さんは、この展覧会に最新の作品を、初回より今回まで毎回出品していただきました。賛助出品していただいた方々、ありがとうございました。
これからも、自由美術の本質をふまえ、地域にねざした会にしたいと思っている。

自由美術 地方展 一覧

自由美術群馬研究会の今

中林三恵(事務局)

自由美術本展2014_img_47.jpg
7月1日。今朝は早く目が覚めた。今日は手島さんと来年の自由美術群馬展のための会場を取りに行く日だ。会場は高崎シティギャラリーの第一展示室。9時少し前に着き、書類に希望日を記入、すると同じ日を希望する人がもう一人いた。9時からの抽選には何回か来たことのある手島さんに頼んだ。まず先に引く人を決め、次に箱の小穴に手を突っ込み係りが入れたボールをつかむ。手島さんが1番に引くことになった。そして赤いボールを見事につかんだ!なんという快挙!
一つ良いことがあると人は生き返る。
研究会をやめますという人が何人か続いて、今年は不出品という人も一人いて、意気消沈しそうになっていた私だったが一発で会場が取れたことで前向きになれた。今回から入会した人もいるし、何とか来年の50回展は行ける、とほっとした。
7月22日。ノイエス朝日での第49回自由美術群馬展の陳列の日だ。新井さんが10時15分に着くというので私もその時間に会場のノイエス朝日に行った。感心したのは手島さんが一足早く到着していたことだ。えらい!と心の中でほめる。間もなく新井さんが来た。三人であれやこれや思いつくままにこの原稿の中身についてアイデアを出し合った。いつの間にか創立メンバーの東宮さん(故人)、有村さん、井上さん(故人)たちの事に話が行った。彼らがこの研究会を立ち上げたのは40代の前半だったのだ。手島さんくらいだったのだね・・・と。今その年代の人達の何と余裕のないこと。どうなっちゃったのだろう、日本。みんなが展覧会を楽しむゆとりが欲しい。当番だから来るのではなく、楽しいから会場に集まる、と言うのが私の願いだ。
あの頃は群馬造形サークルって言うのがあったね、と新井さんが思い出を語った。たくさんの先生達が、保母さん達が群馬の美術教育を学び合いたくて上牧温泉の辰己館に集まり美術教育の実践発表をし合った。その中核にいた三人が今度自由美術群馬研究会と言うのを作るから入らないか、と誘われてこの会に入ったんよ、と新井さん。私もそうだった。新井さんは先生になって一年目、私は二年目だった。でもメンバーは教師ばかりじゃなかった。色々な職業の人が加わった。そしてあの熱気、事が終われば酒を飲みに町へ出る、というバンカラな気風も楽しかった。
まず明日7月23日からの49回展を楽しもう。今回の出品者は平面14人、立体2人。会場当番をしながらみんなの作品と自分の作品にじっくり向き合おう。お客様の感想も聞きたい。来年の50回展の会場は確保したが内容はこれから煮詰める。天空のお二方もきっと見守っていてくれるに違いない。俺たちの作品も飾ってくれるんだろうなとどこからか声が聞こえたような気がした。
大丈夫、忘れてはおりませんよ!

自由美術 地方展 一覧

U展の紹介

加藤義雄(前埼玉事務所)

自由美術本展2014_img_48.jpg
1975年12月に故田所幸一さんのカケ声で、「自由美術グループ展」として11人で発足した。いろいろあったが今年で39年になる。3年前大震災で中止になったため38回やったことになる。今年の参加者は59名と前回より10名程減った。また特別展示もなく寂しくなった。ところで1989年から千駄木画廊で始めた小品展も、河野節さんの力添えで25年続いている。いまは東京自由美術展に期日を合わせている。上野から千駄木は歩いて20分ほどである。そして古くなるが2001、02年には春日部で「視展」と銘打って窪田旦佳さんの骨折りでU展6人展をやった。また、そのころ光山茂さんの尽力で、つくば市で「自由美術つくば展」を2回開いた。U展から多数参加した。2004、05年には正月に新年会も兼ねて、埼玉近美でドローイング展をやったが、自分は年3回の開催は、会場確保やハガキの手配の他に埼玉平和展、大宮平和展なども手伝っていたためキツかった。参加者も大変というので2回でやめた。
その頃作った出品目録の表紙の図柄が面白かったので、いまでも目録の裏表紙にはU展のマークがわりに使わせてもらっている。その作者の名前の手島邦夫さんの「夫」を「男」にして作ってしまった。いくらも文字のない表紙に2文字も誤植がでて、そのショックは今でも忘れられない(図柄参照)。とりあえずお詫びシールを挟んで済ましたが、酒飲みながらの校正は禁物です。目録表紙に絵柄を入れるのは、昔の本展の出品目録に習ったもので、2年ごと引継ぎのU展事務所担当と会計担当の方の作品を載せることになっている。また手島さんの調べで3年前からU展の年表を目録の中に2ページに亘り掲載しているが、資料に欠けているところもあるが貴重である。
U展のいいところは合評会が、本展の会員、一般の別なく参加者全員で真剣にやっていることで、いつも時間がオーバーしてしまう。さらにやはり会費(出品料)5千円と安いのがよかった。だが今年から6千円になった。それは特別展示をする方がいなくなり財政が苦しくなった。さらに大震災で直前中止のためプール金が減ったところに5月に東京自由展が始まり、4月、5月と続けて、千駄木展もありスケジュール的にもサイフ的にも苦しくなった。原因はハッキリしている。
また来年は県立美術館改修で会場確保ができず、埼玉展は休み、千駄木展だけになった。
特別展示は1段がけで、縦100号なら10点位と廊下側に小品5、6点は展示できる。それで昨年まで4万4千円である。個人用案内ハガキ100枚と自由美術関係はU展事務所が発送で切手代も浮き、全体会場の当番がいるので、都合が悪い時は休めるのだ。観客も毎年1,200人位は入る。自分はバイクで20分位のところに住んでいるので退職してからは1年おきくらいにやった。一般出品者が本展選外作を見てもらいたい作品や実験的な作品を展示する場として、また若い方々の作品研究の場として大切にしたい。肝心なこと1つ。本展に出品していない方や自由美術を辞めた方もおり、1993年から「自由」という名称をはずし、単に「U展」になった。URAWAでやるのでその頭文字をあてている。

自由美術 地方展 一覧

第3回東京自由美術展を終えて

西村幸生(3回展事務所)

自由美術本展2014_img_49.jpg
東京都美術館で、5月22日より30日の9日間、第3回東京自由美術展が行われました。梅雨の前の上野は、新緑にむせ返るように、木々に覆われて夏を思わすような日差しが照り返していました。久しぶりの上野は、少しこぎれいになりすぎて、よそよそしさを感じさせながらも、吹き抜ける風は心地よいものでした。
平面77名、立体12名の、会員だけによる展覧会は、どの部屋を見ても、ゆったりとして、密度のある、緊張感を壁面に作り出していたように思えます。どの作品が良いとか言うのでなくて、89名・108点の作品全体のかもしだす『雰囲気』のようなものが、『自由美術』を体現していました。
関東圏だけでなく、今回展から地方の会員にも参加を呼びかけたところ、三重・広島・秋田から4名の方の参加を得て、関東の地方展に新鮮な刺激を投げかけていただいたのも気の引き締まる思いになりました。次回展にも地方の会員の方の、本展とは違った顔が見られるのが楽しみです。
入場者数も、3回展ということで少し定着してきたのか、1回展、2回展と少しずつ増えてきて、2,600人の入場者になりました。目録を500部用意したのですが、足りなくなりあわてて追加印刷するようなことも起こりました。少し大きなグループ展と言う事で、経費も労力もさほどかけないで行えるのは「東京自由美術」の良いところでもあります。
会期中、何人かの人から言われたことが気になっています。一つは、東京自由美術展の魅力ということです。六本木の本展との違いをどのように出して行くのか。二つめは、展示の面白さをもっと出せないのだろうかということです。二つともむつかしいことなのでどうすればよいということは言えませんが、みんなで、少しずつ、いろいろな試みをして行くことが大切で、その中で東京自由美術の未来が作られるように思えます。

自由美術 地方展 一覧

第36 回静岡県自由美術展

山本英男

自由美術本展2014_img_50.jpg
昨年の「静岡市民ギャラリー」(静岡市)より「クリエート浜松」(浜松市)に会場を移し第36回静岡県自由美術展が開催されました。毎年の開催で今年の会期は7月8日〜13日。地元での作品の発表も然る事ながら秋の本展出品前の相互研鑚の場という意味合いもあろうかと思います。現在静岡県自由美術の会員(本展への一般出品者を含む)は23名で今回展では、その内17名の出品者により33点の作品を陳列。
面積全国2位の政令市浜松は言はずと知れた「音楽」の街。楽器の製造はもちろんの事、「国際ピアノコンクール」に「国際オペラコンクール」と共に入賞者は世界で活躍するアーティストとして羽ばたいて行きます。「美術」はというと老巧化と車社会にそぐわない市立美術館の他、秋野不矩美術館があり、市では全国公募の浜松版画大賞展(トリエンナーレ)を開催しているものの、やや影が薄いのは否めないところ。
察するに何処の地方も同じだと思いますが、静岡も忍び寄る会員の高齢化は今後の課題で、会を運営するにあたっての会員数は足りているのですが、労力を要する展示の作業は年々厳しさを増しています。創意工夫に限界が来る前に、若い方の参加を促す為に何が必要なのか方策を練る事は喫緊の課題です。今回お借りしたギャラリー近隣には公立の「文化芸術大学」があり、デザイン、美術、建築などを学ぶ多くの学生が集っていて、会期中も熱心に写真を撮りメモをしていくらしい若い方も見かけましたが、彼らの目にはどのように映っていたのか。
ともあれ今年の展示は無事に終え、ほっとしたところで「過去に前例のない」大型台風が沖縄に上陸し大きな被害を出し、なおも東海地方へとの予報。結果事なきを得たのですが、さすがに中日の来場者はまばら。終わってみれば来場者565名。前回展では723名ですから、来場者数も残念ながら右肩下がりで今のところ明るい材料が見当たりません。下り坂にこそ好機有りか。
最終日には講師を招いての合評会が恒例となっています。今回は小川リヱ氏をお招きし、2時間ほどで17名分の講評を頂きました。毎回の事ですが講師の熱心な講評は大変な労力かと思われます。今回の合評会でのキーワードは「好きな音楽」。どんな音楽が好きで、また聴きながらの製作なのか否かの問い掛けに、我々メンバーもやや固定化しつつあり気が付けば永いお付き合いになって来ていますが、今更ながら会員相互に意外な趣向の一面を垣間見た感じではなかったでしょうか。「丸が多いね」小川氏の何気ない一言。やや作品の傾向に偏りが出てきているのはマンネリか。この模様は静岡県自由美術の会報として岡本勝氏が編集し毎年秋頃発行しています。36回目ですから過去様々な方に講評を請け負って頂きました。一々の御名前は割愛しますが、この場をお借りし改めて御礼申し上げます。その甲斐実り、近年は会員推挙や受賞者を数多く輩出することが出来ました。しかし、最終日に会を終え恒例の懇親会にて小山勇氏より「落選して伸びる」とのお言葉。浮き足は禁物。赤堀正巳氏を含めた静岡2大巨星。
厳しくも熱気に満ちた輝かしい時代の自由美術を肌で感じて来られた両氏の領域に何処まで迫れるのかが今後の静岡の会員の課題となり、この会の命運を握っているのではないでしょうか。
東京オリンピックの開催により、コンクリートも人もまた更に東京に一極集中する事になるでしょう。人口の流出や減少等々難多き一地方ですが、来年は「プラザ
ヴェルテ」(沼津市)での開催(会期交渉中)を予定しています。ご来場の折は、ご指導ご鞭撻のほどを。

自由美術 地方展 一覧

第65 回中部自由美術展

足立龍男(中部自由美術事務局)

自由美術本展2014_img_51.jpg
本年度も、4月30日(水)〜5月5日(月)の間中部自由美術展の開催を観ることができた。中部は、愛知、岐阜、三重、その近郊の仲間で運営、事業として中部展・巡回名古屋展の開催を主に実施しているが、近年美術館借館料、消費税の値上げ等の影響は避けられず、大幅な経費の増加により事業運営に支障をきたす事となった。過日臨時総会を開催、中部としての会費値上げを会員諸氏にお願いし了承されたが、正直多数の退会者が出ることを覚悟の上でのお願いであった。現在中部展を挟んで多少の入、退会者を見たが平面39名、立体8名、計47名の会員を有し前向きで真摯な活動を続けている。
さて、冒頭の中部展であるが本年度は計画時、<平面>(故)逵氏の遺作展示、<立体>渡辺賢一氏(新会員)、鈴木伸治氏(新人賞)の特別展示を柱に会員諸氏2点出品をお願いし充実した展示内容を目指した。中部展は本展出品のための実験的意欲作の発表の場でもあり例年個々にその試みが観られ楽しい。搬入出は高齢化にもかかわらず皆さんの真面目な働きにより例年事故なく時間内に終えることが出来ている。本年度特に立体特別展示に際しては渡辺、鈴木両氏と立体部諸氏の御協力に心から感心、感謝している。又、(故)逵氏遺作展示に際しては、奥様、ご子息共お忙しい中、美術館会場までお運び頂き作品1点、1点の展示場所のご指示を仰ぐことが出来、(故)逵氏の最後の展示を充実したものにすることが出来たことは嬉しいかぎりであった。会期中美濃部民子氏、小西煕氏の御来展を賜った事も驚き感謝している。
中部展事業内容
参加者数42人
出品点数105点 平面86点 立体19点
入場者数1165人有料17人招待状無料1148人
ここから又美術館来季申込、愛知県助成金申請書類・資料作成、共同搬入日程・経費打ち合わせ等々の仕事が待ち受けているが中部自由美術のため一つ一つ乗り越えながら努力していきたいと思っている。

自由美術 地方展 一覧

中部自由美術版画グループ展

兵藤寛司
今年の5月20日(火)から、第1回の「中部自由美術版画グループ展」を開催することが出来た。会場は名古屋市の愛知芸術文化センターで、14名のグループでスタートした。全員で問題意識を持って出品しており、来年の発展とお互いの研鑚、親睦を目指すことを確かめ合った。来年の作品が楽しみである。

自由美術 地方展 一覧

第22 回自由美術岐阜グループ展

森谷連

自由美術本展2014_img_52.jpg
第22回自由美術岐阜グループ展が、平成26年2月4日から9日までの6日間、岐阜県美術館県民ギャラリーで開催された。出品者は平面の奥村伸哉、鍵谷美智子、加木屋満、下総しげお、中田京子、松井眞善、森谷連、山本健司と立体の渡辺賢一の9名。
岐阜の地から自由美術展への初出品者は、板津包信氏(現90歳)、当時岐阜大学生であった(故)鵜飼充男氏・(故)塩谷寿久(壽悠)氏の3氏で、昭和32年第21回自由美術展であった。主体美術と分離後、自由美術へ会員として迎えられた(故)安藤勲氏が岐阜大学教育学部美術工芸科主任教授に神戸大学から着任した。昭和40年代初め上記4名が中心メンバーとなって自由美術岐阜グループを結成した。それまで、岐阜の地は保守的な日展系の美術団体に所属する作家が多かっただけに、自由美術岐阜グループの結成はかなりセンセーショナルなものであった。
時を経て平成6年、展覧会場を現在の岐阜県美術館に移し、本格的なタブローの発表の場をもって今日に至っている。当初から10数名のメンバーと名古屋からの賛助出品者を加えながら開催してきた。以後多少の入退会者はあったものの15回展あたりまでは、メンバーも開催時期も固定されつつ安定期を迎えていたかに見えたが、創立メンバーの塩谷氏が平成20年12月、鵜飼氏が平成22年11月に相次いで他界。残されたメンバーは、失望感と共にグループ存亡の危機に晒された。追い打ちを掛けるように平成24年度末には、高齢を理由に板津氏が退会を決意、更に平成25年度末には山本氏も一身上の理由で退会されることになった。
前回の第21回展では、板津氏の回顧展を同時開催し、70年余の画業の全貌を展示することができた。今回は特別の企画もなく、メンバー9人の近作約30点で構成、内容的にも新たなテーマを追求する者、従来のテーマをより意欲的な創作態度で取り組む者、果敢に実験的な表現形式を試みる者などであった。中でも、独創的な技法で一段とマチエルと画面構成に深みを増した加木屋氏の「弧の情景」シリーズや2年振りの個展開催直後の中田氏の「生成」シリーズは、まさに増殖進化の過程にあるような新鮮さを感じる作品群であった。第77回自由美術展立体部門で、会員に推挙された渡辺氏の「生のフォルム」シリーズは、更に勢いと緻密さを増した構造的なフォルムが魅力的。第77回自由美術展初入選の松井氏は、精力的に5点の版画「自画像」シリーズを出品し、内面的な主題を多様な技法で構成した作風で、会場に新鮮な活気を醸し出していた。
一喜一憂の歴史を繰り返しながら、今日に至っている岐阜グループだが、第22回展を終え、改めて、「メンバーの高齢化」「見込めない新規加入」「岐阜展・中部展・東京本展等々への会費・負担金増」等々山積する課題を痛感した。これらの課題が、メンバー一人ひとりに過重負担となり、創作意欲に影響を及ぼすことになると致命的である。
今後『継続は力なり』と胸を張って言い切れるか、果たして『岐阜グループに明日はあるのか』今まさに正念場を迎えている。

自由美術 地方展 一覧

「うつなみ画会」展

坂内義之(三重地方事務所)

自由美術本展2014_img_53.jpg
熊野から新しい美術の創造を目指す「うつなみ画会展」が2014年5月23日(金)〜5月25日(日)、熊野市の熊野市民会館一階ラウンジ・南大会議室・二階ラウンジで開催されました。
自由美術協会三重地方事務所と「うつなみ画会」代表を引き継ぐこととなって5回目の開催です。三重県内の自由美術協会会員、同展入選経験者及び出品経験者で構成する会員のうち、今回は13人(40〜90代)39点の作品を展示しました。
自分自身の作品の確認の場として、存在感のある作品を展示したい、そのためにはどのような展覧会でなければならないかを考えた結果2年に一度の開催となりました。
展覧会の開催は、作品の集荷、出品目録の作成、案内状の作成、会場設営、看板の作成、作品展示と少ない人数では大変ですが、次の作品制作に活かせる展覧会にしたいとの思いで取り組んできました。
展示後、懇親会を行い大いに盛り上がって、初日を迎えました。メンバー同士、展示された作品の前でお互いの作品について批評しあう場面や、鑑賞者と熱く語りあい大いに話が盛り上がったりする場面が多くみられるなど、作品の反省の場となって次につながる展覧会になったと思っています。地域の皆さんにも自由美術の作品を知ってもらう良い機会にもなりました。
期間中、中央紙3紙、地方紙4紙に「魂の表現」「個性豊かに表現」「レベルの高い作品が並ぶ」等々のみだしで記事として掲載されました。地域のケーブルテレビでも期間中の会場の様子が放送されました。
今回の「うつなみ画会展」の開催では、熊野までの高速道路開通もあって、隣の尾鷲市や遠く伊勢市からも鑑賞に来てくれました。
作品と向き合うことで、本当の自分のものを創り、思想や夢を視覚化し、魂の表現を造形化して存在感のある作品を自由美術展に発表していきたい。実現に向かってメンバー一同制作に励む毎日です。

自由美術 地方展 一覧

自由美術京都作家展

平岡潤

自由美術本展2014_img_54.jpg
現在、京都御所とその庭園の東側に位置する京都府立文化芸術会館で毎年春に展覧会を開催している「自由美術京都作家展」、今年で56回を迎えた。
この作家展は、地域展として京都府、滋賀県それに大阪府の一部に居住している作家の集団で構成され、本年は立体表現の作家を含め6名の新しいメンバーが加わり、総勢26名の参加で活気溢れる会となった。
これまで、本展の準備、下見会という色彩が濃かった作品発表の場であったこの地域展の考えをとっぱらって、内容的には具象、抽象、幻想、象徴・・・・など様々な表現への試みが見られ、勿論、作品によっては作家の意図がよく表れているもの、また迷いがあって中途半端に終わってしまったものなど、その段階はさまざまあるが、しかし何か自分の願っている思いを作品にしようとする気持ち、意図が感じられて展覧会場に無言の響きや会話が飛び交っているのを感じた。
さらに、芸術本来の在り方、方向をしっかり握りしめ、個人々々の主張を生み出し発展させていくことに力を入れようではないかと言うことで話し合い、作家展の在り方をお互いに確認しあった。
その方法の一つとして、各作品に作家名、画題だけでなく、作家本人の作品に対する思い、狙いをキャプションとしてしるし伝えるようにしていく事を取り決め現在も継続して実施している所で、文章の内容、構成等については、鑑賞する方に自由に解釈して貰い、つながりを一層深めていけることと確信している所です。
尚、当作家展は、京都府の後援もあり、地域の芸術への関心を啓蒙する上からも、「京都府知事賞」が設定されて居り今回栄えある賞には、初参加ではあるがユニークな立体作品で、作家展に新しい"風"を吹き込んだ、山崎
史氏に贈られ、新たに出品した方々に大きな励みになった事を報告するところです。

自由美術 地方展 一覧

第33 回自由美術大阪支部作家展

日和佐治雄

自由美術本展2014_img_55.jpg
サンパル市民ギャラリーは、JRや私鉄が集まる神戸三宮駅のすぐ近くだ。
街の飾りや行きかう人々に正月気分が残る1月9日の午後、今回で33回を迎える大阪支部作家展の陳列を行った。(会期は2014年1月10日〜15日)
第33回展の出品作家は20名、作品は立体も含めて31点である。
振り返れば、ギャラリー開設当初から、大阪支部のメンバーが新しい年の最初の展覧会をこの会場で開催してきた。新春の展覧会を30年以上も続けてきたことはとても誇らしいことだと思う。
ところで、大阪支部は年4回、神戸と京都で作品発表の場を持っている。
新春の大阪支部作家展(神戸三宮サンパル市民ギャラリー)、4月の赫展(兵庫県立原田の森ギャラリー)、そして京都支部と合同で行う7月の関西展と11月の巡回展(共に京都市立美術館)である。
3カ月程の間をおいて発表を続けていくことはそんなにたやすいことではない。私ごとで恐縮だが、新春の支部作家展は年末の時間のやりくりがうまくいかず、今年も正月に慌ててしまった。
しかし、吉見敏治さんをはじめ会を支えるベテランの方々は、常に前向きで大作に挑んでいる。今回も、正面と両サイドの壁面に100号大の作品が並び壮観だった。
実は、この会場は、近いうちに改装することになっていて、ギャラリーは6階から2階に移転することになったと連絡を受けている。慣れ親しんだ場所だけに少し寂しい気持ちもするが、年初めの展覧会日程はこれからも変わらない。
展覧会の最終日、ギャラリーの担当者の方から「ご苦労様でした。来年は新しい会場ですね。」とねぎらいの言葉をいただいた。
今後も誇りを持って支部作家展を盛り上げていきたい。

自由美術 地方展 一覧

第52 回自由美術関西展

小西煕

自由美術本展2014_img_56.jpg
 
会場京都市美術館1F北
会期7月8日〜7月13日
出品者数49名(内初出品者5名)
出品点数106点(平面102点、立体4点)
自由美術関西展は今年で52回目を迎えました。今年は会期中に2875名という、かつてない入場者があり驚きましたが、これは同時期に美術館で開催されていたバルチュス展からの流入があったことと、昨年来の初出品の人達の友人知人が予想外に多く来場されたことも一因であったようです。多くの入場者を得たことに一瞬の喜びを感じながらも、これからの関西展継続には相次ぐ借館料の値上げ、出品者の高齢化などという重い課題も背負っていて、これは出品者の皆さんが知恵と工夫を絞り、その上魅力のある展覧会にしてゆく以外に方策はありません。この何年間か作品展示の工夫や、出品作家による企画展等、新規出品者を募るために初回の出品料を無料にしたり(これは批判のあるところですが)、経費節減のため受付・会場当番、その他展覧会業務全般を全出品者でおこなう。受付アルバイトを廃止して入場料は無料にするなどを行ってきました。いづれにしても52才になった関西展も人間同様に加齢によるエネルギー低下やマンネリに陥ることの自覚が必要だと思っています。そしてこうしたいくばくかの変革は、あくまで展覧会とその作品の更なる魅力増のためのものだということはいうまでもありません。
今年の関西展では、会場内での出品者の人達の会話が可成り盛んになりました。そして最終日に行われた合評会には多くの出品者が参加して閉館時間を少々オーバーして熱心に行われたことに何とも云えない嬉しさを感じたものです。
ここに関西展発足後4年目に出された展覧会メッセージがあります。若く青臭くもありますが今に通じるものを感じ、抜粋して紹介致します。
「1966年※自由美術連合展でのメッセージ」
京都市美術館での自由美術連合展は、地域研究活動の輪として、自由な作品発表の場を持とう、自由に参加できるという形が欲しいということで始められた。そして作家と作品が身ぐるみ参加し、日頃の活動の反映を自由に発言するのが目的である。(中略)クリティクの問題にしても、自由で解放された場所があれば、充分に自分自身の論理性へと育ち得るということである。自分達で種をまく、地味だが豊かで実り多い母体作りを始めようということである。(以下略)
※創設時の名称は自由美術連合展であった。

自由美術 地方展 一覧

第56 回東中国自由美術展

額田哲郎

 
自由美術本展2014_img_57.jpg
第56回東中国自由美術展2014年7月29日(火)〜8月3日(日)岡山県天神山文化プラザ中四国6県(島根、鳥取、岡山、広島、兵庫、香川)、20人のメンバーによる東中国地区の自由美術展。毎年この時期に、本展出品に向けての研鑽と親睦を兼ねて岡山で開催している。今年度は、絵画19名38点、彫刻1名1点、吉見敏治氏の企画展示(絵画25点)という構成である。入場者数約800名。各自の地道な探究と展示方法の変化からか新鮮な印象を受けると概ね好評であった。最終日には例年通り、県外出品者も多数交えて合評会を行ない、終了後も熱い議論が続いていた。
企画展示は吉見氏の1975年以降の旧作6点(60号5点他)、阪神大震災の記録画5点(各96×66cm)、震災後の壁シリーズ作品14点(100号8点他)、東日本大震災後の東北支援活動を報じるDVDの映写、図録(こうべ壊滅、自選集)等を展示した。地元メディアの反応もよく、初日にたまたま作家本人が居合わせたということで、急遽ラジオ局の生中継が賑やかに始まったのには驚かされた。長年吉見作品を見てきたが、今回の展示で次の3つの視点を新たに持つことができたのは大きな収穫であった。それは、
①震災記録画(具象画)とその後の壁シリーズ(抽象画)との比較により抽象化することの意義が見えたこと。震災直後の現場を忠実に写生した絵は実に生々しく見る者に迫ってくる。しかし、その後吉見敏治というフィルターを通して描かれた抽象画は、それ以上の臨場感と一人の人間が受けた衝撃と再構築する力を生々しく伝えてくるのを実感することができた。今までは、2つを併置して比較する機会もなかったし、壁シリーズにしても、2〜3点ずつ見ていたために気付きにくかったことが、今回は100号8点他に囲まれて見たために強く感じることができたのだろう。
②戦争や震災など具体的な「体験」を抽象化するということを意識できたこと。今まで、「体験」そのものを純粋形体で抽象化するということを意識したことがあっただろうかと自問した。壁シリーズも初めは具体的な「物」の抽象化から入っているので、技法は異なるがカンディンスキーやモンドリアンの抽象に近いのかも知れない。アメリカの抽象表現主義以降の純粋抽象、幾何形体による完全抽象にはそんな概念はない。
③震災前と後の抽象化を比較することで、本質を抽出する力の違いを見ることができたこと。吉見氏によると、元は戦災で崩れかけた建物など具体的な「物」を抽象化していたとのこと。それが壁の亀裂や染み、引っかきや落書きへと移ったとしても、やはり「物」の抽象化である。それが「物」から離れて純粋な線や形や色による表現へと昇華していく過程が見えるのと同時に、震災後はその抽出力というか、「体験」を純粋形体に置き換える力が研ぎ澄まされているのが分かった。以上の3点である。
近ごろ、抽象画を描き続けていく意味はあるのかという心配が、頭をよぎることもあったが、その懸念を払拭してくれる確固たる存在意義を見せてもらった気がした。

自由美術 地方展 一覧

「グループ黄人」展(広島)

嘉屋重順子

自由美術本展2014_img_58.jpg
広島に「グループ黄人(おゝじん)」が出来たのは、1968年です。自由美術会員の灰谷正夫氏が「自由美術の広島地方での研究グループが必要ではないか」と提案され発足したのです。名称については、清水
勇氏が「我々は黄色人種である」ことから「グループ黄人(おゝじん)としたらどうか」と、言われ、そこに居た人たちもそれを承認して決定されました。
第1回展は、広島市内のピカソ画廊で開催しています。当時のメンバーは10人前後だったようです。
発足から8年後の1976年2月に東京都港区芝愛宕山画廊で「黄人8人展」を開催されています。その画廊は元自由美術会員であった溝田コトエ氏が紹介していただいたそうです。会場へは東京近郊の自由美術の方々がご来場下さり、大いに盛り上がり、「黄人」のメンバーは深く感謝しています。
「黄人」展は年に1回は発表の場を設定する予定であったようですが、なかなかそのようにはされませんでした。今年(2014年)が46回展になっています。途中どういう理由で開催されなかったのかわかりません。
「黄人」展のメンバーは自由美術と密接な関係にありますが、「黄人」展に出品する人は必ず自由美術展に出品しなければいけないということにはしていません。「黄人」展の輪を広げるということで、知人や友人に制作活動をされている人がおられると声をかけているのです。輪が広がることはお互いに刺戟を受けることで大切なことだと思っています。
「黄人」展の会場は固定して決まっていません。今まで広島県呉市、広島県福山市でも開催しています。又広島市で多く開催していますが、広島市西区区民文化センターギャラリー、安芸区区民文化センターギャラリーなどで開催して来ました。最近は広島県立美術館地下の県民ギャラリーの一室を借りて開催しています。今年は8月5日(火)〜8月10日(日)まで開催し25人が参加します。
私にとっても「黄人」は絵の方向を決定した会でした。
1961年22才で東京から広島へ帰り、就職、12月には家庭を持ち、その後の数年間は育児と仕事などめまぐるしい年月が過ぎていきました。振り返ると、「黄人」が結成された時も、愛宕山画廊で「黄人8人展」が開かれた時も、すでに広島にいたのですがまだグループ「黄人」には入っていませんでした。その後、清水
勇氏に誘われて「黄人」展に参加するようになり、又自由美術展にも出品するようになったのです。もし、「黄人」に参加しなかったら、絵をかくことを断念していたかも知れません。一人で絵を描くことも良いのですが、よい仲間に恵まれることは、作品を完成度の高いものに成長させるためには重要なことだと思います。グループ「黄人」が、広島の自由美術の仲間に刺戟的でよい影響を互いに受けあう関係でありたいと願います。

自由美術 地方展 一覧

山口自由美術展

山本哲生

自由美術本展2014_img_59.jpg
山口自由美術展は1965年(昭和40年)県内の自由美術展出品者の研究グループとして発足しました。第1回展は山口市で開き、以来宇部市、防府市、光市、萩市、山陽小野田市、周南市、下関市など各市で開催しました。近年は県中央部の防府市を主な会場として開催しています。昨年度(2013年8月22日〜25日)で第47回目を数えます。
この展覧会はグループ会員の研修が主な主旨であり、本展へ出品する作品の研究会です。そのため持ち寄った作品について全会員の参加のもと、作者が自作についての自評を行い、制作意図や技術的な説明を行います。そして、それについての質問や作品についての意見交換を行います。その中での問題点や気づきを通して本展出品に向けての修正や手直しの手がかりにします。もちろん自分の意志にそぐわないことは参考意見や考え方のひとつとして受けとめていくことになります。しかし、この研修会では、自作について制作意図を明確にすることができ、前向きな制作意欲につなげることができます。また、本展出品をしない人も会員にいます。まだ本展出品に自信がもてず勉強中で、作品のレベルを上げてから本展へ挑戦しようと考えています。また、本展に出品したいが、この展覧会に参加し参加者の作品と比較してから考えたいと賛助出品をする人もいます。昨年度も一人参加し、本展にも出品され、初入選されました。この展覧会は主に本展出品をめざすことを最終目標に考えていますので、希望すればだれでも参加できるわけではありません。参加を希望する人は、この会の会員に参加希望を申し出て、この会の趣旨に賛同できると事務局が判断すれば展覧会の案内を送付し参加できるようにします。そしてこの展覧会で作品を鑑賞し制作活動が続きそうで本展にも参加できそうだと判断すれば会員として次回から参加することになります。昨年度も二人ほど若い人が参加しました。しかし、この会の会員としてはまだはやいと判断しました。また、この展覧会に近年山口出身で山口にゆかりのある伊藤朝彦さんにも招待出品として参加を頂いています。作品鑑賞を通して良い勉強をいつもさせて頂いています。
この展覧会のもうひとつの目的に会員相互の親睦を図るということがあります。会期中の土曜日の夜、懇親会を開いています。宴会を通して夜遅くまで制作活動や美術についての思いなど意見交換し、世間話も交え親睦を図っています。近年会員が高齢化したため12時を超えることは少なくなりました。しかし、この会のおかげで会員相互の結束が強くなっています。
最後にこの展覧会はお互いの制作活動の励みになり意欲づけにつながり、また、毎年新たな気持ちで向上心をもって取り組むことができます。この展覧会が長く続くことを願っています。

自由美術 地方展 一覧

自由美術・香川展

川添正次郎

自由美術本展2014_img_60.jpg
自由美術・香川展は、2014年で41回となる。最初は7人で始め、現在15名である。ここでは2012年展の時からのあらましを記してみたい。
2012年7月18日(水)〜7月22日(日)
高松市美術館・市民ギャラリーで香川グループ展を開催、高松市での開催は久し振りであった。同好者の要望もあり、2、3年前から計画はしていたのであるが、会場の使用権が抽選で、思うにまかせなかった。会は好評で、高松市を中心に東香川方面の方々に観て頂けたのはよかった。同年引き続きに一ケ月後、8月22日(水)〜26日(日)、善通寺市美術館で開催した。ご存知のとおり、香川県は日本一小さな県で、県庁の所在地が高松市であり、善通寺市は県の西部に位置している。通常なら高松市での開催なのだが古くからの因縁で、善通寺市での開催が多い。いつも1、2名の欠席者があり、今年2014年も13名の出品予定で進行している。
2013年(昨年)の出品も13名であった。13名の内5名が自由美術協会の会員、他は一般出品者(内1名が立体)という構成である。
会場は善通寺市美術館、会期は8月21日(水)〜8月25日(日)、観覧時間は10時〜18時、最終日は14時より公開研修会。内容は先ず作者が自分の制作意図等について述べ、会員各自が質問や意見を出し合う。時に見学者の中から意見を頂くこともあったが、最近ではセレモニー化の傾向がありあまり意義を感じなくなっている。本当の勉強会は、会期中に各々が進めているのが実態である。
以前は作品を持ち寄って、夜のふけるのも忘れて熱心に勉強会をやっていたのだが、会場の問題やその他諸条件で今は跡絶えている。新しい会員も増えてきたので、これは是非とも復活させたいと思っている。
善通寺市の美術館は、自由美術のグループ展を市民ギャラリーとして、館の行事に組み込んでくれているので、無償で使用できるのが実にありがたい。
昨年の会場飾付けは8月20日14時より始めた。本会員(自由美術協会の会員のこと)の作品はおおよそその作風傾向が分かっているので安心なのだが、新しいグループ会員の作品は、未知の部分が多く、それだけ楽しみにしているのだが、時にはとんでもないのがあって驚くやら、うんざりするやら、本人はこれだと主張する作品がどうも頂けない。裏返して見ると(丁度両面パネルに描いていた)黒い画面に黄土色の円状のものが描かれていて、アンモナイトを描いていたのだが途中でやめたものだという。だけど、どう見ても裏の方がいい。本人は不服乍ら裏面の作品を展示することにした。それで何とかそれらしい会場作りができた。他にもいろいろと課題を持った作品が出てくる。この人はいい作品を作るだろうと期待していると、とんでもないような表現をしてすましているといったようなこともあり、自らあるレベルに早く到達して欲しいと願うことしきりである。
会場の飾り付け後にミーティングをやる。年間の報告、会計の仕まい、これからのこと、明日からの当番の仕事等々、その後雑々のおしゃべりをして解散。
四国で自由美術への出品者がいるのは香川県だけで、他県はゼロ。四県に出品者がいれば、四国連合展も考えられるのだが、今のところ近県では岡山県との交流は古い。
昨年はめずらしく広島県から3名の方が来て下さった。今年は、こちらからも「黄人展」に行かせてもらいたいと思っている。

自由美術 地方展 一覧

大分自由美術展

菅記昭(事務局)

自由美術本展2014_img_61.jpg
大分自由美術は、第1回大分自由美術展を、昭和43年5月13日(月)〜22日(水)に大分市OBSサービス3階ホールで開催した。この展覧会を西日本新聞社が43.5.17付けで次のような紹介記事を掲載している。
「大分市中央町のOBSサービスホールでは、大分市在住の自由美術3人と出品経験者6人の作品展が開かれている。作品は20〜100号の中程度の大きさでいずれも油絵。具象画も数点あるが、大部分は抽象画。同じ自由美術のメンバーでこんなに違うかとおもうほど各人の持ち味が表現されて楽しい。メンバーに共通しているのは、人間の現実、社会の現実にたいする批判的な創作態度だ。平均年齢30歳、その若い情熱が感じられる。・・・・(略)・・・・こんどの展覧会が初の試みだが、これから毎年開きたいそうだ。」
その後第2回展を昭和46年8月23日〜29日大分市中央町OBSサービス3階ホールで開催し以降毎年続け、今日に至っている。今年は、第45回展を迎える。
目録の冒頭に「自由美術は、形式や技術にとらわれず、新鮮さや、個の資質を大切に創作の重点をおいた、自由な表現をもとめている美術団体です。きれいに完成するだけでなく、イメージの新鮮さを大切に混迷した社会での人間の生きざまや、心の豊かさを表現したいと願っています。」と掲げ、作品鑑賞の一助としている。
また、毎年の展覧会開催時の作品研究会には、本展よりどなたかを招聘し指導助言を戴いている。最近では、大野
修氏('08.'11.'12)、石川惠助氏('09)、醍醐イサム氏('07)各氏にお願いした。これからも会の事情が許すかぎりどなたかにお願いしていきたいと考えている。
大分自由美術の今後の課題は、会の高齢化である。できるだけ若い人の参加を募っていきたいと考える。