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自由
美術

2017

エッセー自由美術
「自由」は点滅する
小 西  熙・・・・・・・ 1
(60・70年代を振り返って)
過去を想い出して
伊 藤 朝 彦・・・・・・・ 3
 
70年代を振り返る
中 嶋 一 雄・・・・・・・ 4
 
私と1970年代の自由美術
大 野  修・・・・・・・ 6
 
その後の自由美術
福 田  篤・・・・・・・ 9
(シュール的傾向について)
「奇想の系譜」から
長谷部  昇・・・・・・・ 15
 
東宮不二夫先生のこと
手 島 まき子・・・・・・・ 16
 
自由への精神
森 田 しのぶ・・・・・・・ 18
 
わたしの自由美術
小 暮 芳 宏・・・・・・・ 19
 
特別寄稿
画家 小野木 学の仕事
- 自由美術での活動を中心に -
(練馬区立美術館 学芸員)
   真 子 み ほ ・・・・ 22
 
地域からの報告
「ギャラリートーク」とは?!
水 野 利詩恵・・・・・・・ 27
 
広島からの報告
西 尾  裕・・・・・・・ 28
佳作賞展から
佳作賞展をみて
美濃部 民 子・・・・・・・ 30
 
田中敬子・阿久津隆さんの作品について
永 畑 隆 男・・・・・・・ 32
 
辻本氏・中西氏の作品について
安   茂・・・・・・・ 34
展覧会より
下倉節子彫刻展
倉賀野  廣・・・・・・・ 35
 
海になったSAKANA 岩渕欣治展
池 田 宗 弘・・・・・・・ 36
(表紙 西尾 裕)

「自由」は点滅する

小西 熙

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小西  熙

このところ、まことに腹立たしく嘘がまかり通る世相は怪しげな百鬼夜行の様を思わせる。

このようなきな臭い風潮には、美術家の一人としても心奥から関心を傾けなければと思っている。美術家はもとより作品の表現が一番大切なこと、それでもやむにやまれず自作も持って京都の中心の街角に立ち抗議の意志を示す美術家達がいる。※注1 人呼んでこれをサイレント・スタンディングと呼んでいるが、この集まりは会でもなんでもない。ここへ来る美術家達の心が為せるわざだ。表(街頭)に現れるというもう一つの表現に他ならない。今ではもう20名を越えた。昨年、京都の有名ギャラリーのオーナーが応援の展覧会をしようかと申し出をいただいて展覧会をした。ギャラリーが驚く程の一週間で1,000名を越える人が訪れた。この後、他の画廊から「なんで私のところでやってくれへんの!」と叱られて、二つの画廊合わせて110名ものジャンルを越える美術家の出品があった。今年もまた祇園祭りの時期を皮切りに京都と舞鶴で展覧会を開くことになっている。タイトルは少し長いが『いま、戦争の兆しに心いたむ美術家たちの作品展』PART3+4である。

5月、都美術館での会員会議に出席。自由美術をこれからどうして行けばよいだろうという相談、本当に数知れず公募展も出来、展覧会を開催するのも大変な時代になってきた。生き残りだって大変だ。どうしていいかさっぱり智慧など浮かばぬ身には自由美術の「自由」について考えるしかない。イデーを考えると空回りするばかりだが、単なる延命でなくとなればやはり「自由」を考える。「自由」は自由美術が被っている帽子、今、この帽子は自由美術に似合っているのだろうかと。

かつて冊子「自由美術」の中に、自由美術の動きとして創立後の歴史が4期に分けて短く記されていた。その後自由美術のあゆみとして戦前の自由と戦後の自由という文言が記されている。共に短文で、私の出品以前の自由美術のこと、想像するばかりだけれど、おおよその自由美術という骨格の成り立ちはうかがえる。

敗戦後、再興した自由美術の暗い絵とヒューマニズムについて、また戦前、戦後という具体的な時期についての「自由」の姿は、今日の自由美術も考えるうえでのヒントを与えてくれるのではないか。

この二つの短文は最近の出品者や今後の出品者にとっても自由美術を識ってもらう参考にならないだろうか。私はITもやらないので既に自由美術ホームページで掲載されているのであれば、余計なことと御容赦をいただきたい。

私の自由美術初出品はもう53年前、それ以降不思議なことに15年サイクルでテーマが変わった。だけど、今振り返ってみると中味は殆ど変わっていない。性分もあって厳しい絵は描けない、といって何も描いたと自問自答しても言葉に窮する。以前、お前の絵は考古学的絵画だと云った方がいた。で理由を聞いてみると、意識・無意識の底に溜まっている過去の記憶や断片をつなぎ合わせて描いているように見えるから、画面の中に何処かで見たとか、それを知ってるとかという気持ちが湧いてくる。だからそれを考古学的といったのだと。そのように私が一度も考えたこともないことを云われて吃驚仰天した、と同時に作者より上手に語られることにも感嘆したが、私自身は決してそんな風には描いていないと思っている。絵とは恐ろしいものだと思う。外へ出れば親(私)の知らない付き合いをしているのだ。気を付けようと思っても……結構、頭隠して尻隠さずになっているかもしれない。

今は4つ目のテーマ「PAYSAGE」(風景)というタイトルでくくって描いている。これはその前に続けていた「床屋シリーズ」の中から、客の頭とオヤジの頭が外とのつながりを求めて飛び出し、そのデッサンの結果が2つの山のようになった。そこにしたがって私なりの落着きのデッサンを繰り返している。

半世紀を振り返ってみても、ただ少し遅れ気味にゆくのが性に合ってるようだ。

梅雨のはじまりの頃、一夜の激しい雨の中で我が家の外灯は永年の働きを終えた。しばらくして新しい外灯がやって来た。これははじめて見る自動点灯式。夕闇が濃くなると自分で点灯し夜明けとともに消灯する。その様を見ていると、どこか「自由」に似ているような気がする。「自由」というイデーは極めて自覚的なものだ。

戦前、戦後の自由。高度成長期の自由は余り名前を聞かなくなっていた。それから自由は何処へ行っていた。2017年の自由、そして美術家の自由。

※注1 サイレント・スタンディングの人達を中心に行われた案内ハガキの文言 2013年、この国で戦争の道へ踏み出す立法がはじまったとき、美術家たちは古めかしい亡霊の出現に心をいため平和への素朴なこころざしをあらわす作品をかかげながら、毎月9日に町へ出ました。ただ立って、以来今も続いている未来の行方に警鐘をうつ寡黙なメッセージのはじまりでした。(文・真鍋宗平) 

過去を想い出して

伊 藤 朝 彦

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伊 藤 朝 彦   裸婦   1965 年

2003 年頃頃研究部に携わり自由美術の活動を少しは知りましたが、今日88 才の年を迎え同世代の仲間達がみんなあの世に去ってしまい、過去の事は思い出せませんが、記憶にあるままに記してみました。

私が美校を卒業し日本画を止めて油絵を始めたのは1949 年、戦後間もない頃でした。

日本画の素材を広げて描けるアトリエは無く、イーゼルに油で小品でも描けたらと考えたのが始まりでした。当時友人の杉原清司が自由美術に早くから出し会員でいたので、自由美術を見て泥臭い会だと思いつつ出品しました。杉原宅へよく遊びに見えた鶴岡政男を知り会員となってグループ「むさい」展など持ち、美術団体の面白さを感じ出品する様になりました。鶴岡さんが焼物をされ私の勤め先の室に女の顔のレリーフを素焼に焼いたこと、今でも時々拝見し想い出します。

上野の美術館が新しくなる前、地下室で井上長三郎による選抜展が開かれ活気付いたものです。当時の社会では安保闘争で学生達のデモがあり死者を出した始末でした。私達も井上先生を囲み池袋駅前で作品を展示し「平和えの宣言」をしたものです。新聞誌上では批評家が公募団体の紹介をし、批評をのせていましたが、今日では全く見られません。

自由美術が新美術館に移って会員出品者を平等に並べ、会場は見易くなりましたが、力作の賞賛の形は乏しく残念です。

上野の旧美術館の頃、第五室は西八郎を中心にシュールリアリズムの力作作家を集め、2、3点並べて展示されたものです。今日とても望めません。私が研究部の折、自由美術の画集を出して欲しいと願っていましたが、今日いまだ実現出来ず残念です。

今日の自由美術には具象画が殆どなく、抽象主義の傾向が強くモダンアートの会といった處なのでしょうか。一本の木から鉋で削り落として神仏を彫りでした円空の木彫は、心底から湧き出す思想が自然に湧いて出ていることは胸を打たれます。絵もそんな気持ちで描けたらどんなにいいでしょう。

井上長三郎、鶴岡政男を中心に仕事をして来た私ですが今日両先輩にちなんだ仕事は出来ず、のうのうと仕事をしている私が恥ずかしい限りです。魅力ある画家の作品を一点主義とせず展示してほしいと願う私です。

同封させていただいた個展の案内状は、1965年の旧作です。自由美術初出品の頃の絵なのでこの機会を借りて紹介させてもらいます。

70 年代を振り返る

中 嶋 一 雄

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中 嶋 一 雄   「悠遠の時空‘08」 2000 × 3000 × 2400

大阪万博の終了とともに好景気が訪れ、家庭にはカラーテレビ、クーラー、自動車、いわゆる3Cが生活を革新、誰もが団地暮らしに憧れた。又第一次美術ブームといえるものが起こった。それは突如起こったが、1971 年から72 年にかけてのことだったように思える。

72 年の6月田中角栄内閣の誕生によって好景気はさらに触発されたともいえるだろう。

すなわち、田中首相の「日本列島改造論の登場によって、一部の地価が暴騰ともいえる上昇率を示したからである。具象絵画の値段が吊り上がった。このブームで日本全国の具象絵画を扱う画廊は笑いが止まらないほどの収益を上げたといっていいだろう。都市にはビルディングが新築され始めた時期です。それに伴って絵画が売れたと思います。そのころ4,500 軒の画廊が出現したといわれています。いっきに日本の美術好きの国民へと変貌します。そして絵画とは具象でキレイな作品がもてはやされました。とにかく絵画は一般の生活の中に入り大勢の愛好家が増えたことは素晴らしいことです。その頃デパートも全盛時代です。しかしその後のオイルショック後、画廊も150 軒ぐらいに減少し、価格は下落します。その後現代美術といわれた抽象絵画がようやく売れ始め、その作品を飾るビルが多くなり、事務所、会議室に絵が使われ始めます。

70 年は11 月25 日

三島由紀夫氏割腹自殺

人間の価値観の転換、対外関係、経済成長、戦後教育世代の台頭によって、戦後の日本人の価値観が変化したからであるとの仮説が考えられる。前者の説について日米安全保証条約が自動延長し、からっぽな戦後、日本に絶望した三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入して、天皇陛下万歳と叫んで自決したのは70 年でした。

1972 年、グアム島で残留日本兵の横井庄一氏が帰国。その第一声が「恥ずかしながら帰って参りました。その年の流行語に選ばれるなど、報道は過熱した。帰国の模様を中継した特別番組NHK、民間放送局、その日約7,000 人がテレビで横井氏の姿を目にしたことになる。

1972 年2月 連合赤軍浅間山荘での攻防戦、そして連合赤軍の凄惨なリンチ事件は世間に大きな衝撃を与えた。こうした行動に駆り立てたのは、何だったのか。

1972 年4月 27 年遅れの戦後沖縄復帰、県民約95 万人は日本国民として権利を回復したが、それは多難な前述を予感させるものだった。

72 年7月 田中角栄総裁に選出される。「日本列島改造論」を掲げる田中内閣が記録的な支持率を得て般出した。それは土地神話によりかかったバブル経済への道を、日本が走り始める第一歩であった。

その頃の自由美術について

1964 年8月 38 名の会員が声明書を出して、退会するという事態を迎える。理由は会員が会員の作品を審査する。その審査にあったといわれている。退会者の大部分は「主体美術協会」を結成する。残留会員は「自由美術協会と名称を改めて、活動を持続する。新組織になって協会は64 年「自由美術賞」を、66 年「靉光賞」、68 年「平和賞」を設ける。また66 年から89年までテーマを設けられる。「今日の表現」「今日の証言」「不安」「人間」「非体制」「狂気の記録」「反寓話」「不条理」等である。又、文化庁主催で「現代美術選抜展」が67 年から開催されることで会員の授賞者が選ばれ、68 年度は「自由美術」からは自由賞の3人が、洋画で一木平蔵氏(120 号)「崩壊する風景」、八幡健二氏「或る人」(100 号)。彫刻、中嶋一雄「和の道標」(110× 150 × 100)を出品。会場は島根県立博物館、徳山出光開館、富山県民会館、浦和埼玉会館をまわり、12 月3日に終わる。私の作品は旅に出る前は鎌倉近代美術館に行ってましたので、鎌倉の葉山館に存在しています。

彫刻の世界も70 年代に入ると活発になり、68 年、69 年から小野田セメント主催による白色セメント彫刻が日比谷公園で、70、71 年北の丸公園で、73 年には第1回箱根彫刻の森大賞展が青空の下で開催され感動しました。この美術館の設計は元彫刻部会員の井上武吉氏によるもので夢でも見ている様でした。私も出品しましたが寸法が大き過ぎて美術館入口のトンネルを通れず、分解出来ないかと何回も連絡ありましたが、アルミ鋳造したもので残念ながら、そのままの形態で彫刻の森ホテルの前に2年ぐらいあり、長野の美ヶ原美術館の外の展示場の高い峯に力強く存在しています。

箱根彫刻の森美術館は毎年企画展があり、招待されますので出かけますが、ブルーデル、ロダン、ヘンリームア、その他いつ行っても圧倒されます。

最後になりましたが、自由美術の雰囲気についてとの事ですので一言。他の公募展もわりに見ますが、各会には必ず5、6名の名のある作家が目につきます。他の会員、出品者は誰の系統か何となくわかり、多少気にはなりますが次に進みます。70 年代とは余りにも違います。新美術館で会場も広くなり、キャンバスも大きく光線も良くよくなったせいもあるでしょう。

他の公募団体の違いは64 年、38 名の主体展への退会後の自由美術会員のぞぞれの緊張感にあると思います。66 年自由賞・靉光賞、68 年平和賞、この他に毎年テーマをつけたこと、今日の表現、今日の証言、人間、不安、非体制、狂気の記録等々、このことは、主催者、一般者にも緊張感をもつことになり、楽しそうな他の公募展とは違うと思う。やや小さめのキャンバスもありますが、まったく構わないと思います。

私と1970 年代の自由美術

大 野 修

70 年から80 年にかけては沖縄が返還され、ベトナム戦争と文革が終わり、中国と国交が回復、グアム島やルバング島から日本兵が出てきたり、やっと戦後のいろいろが清算された時代だった。

自由美術も1964 年に大量の退会者(平面会員190 人の内80 人が退会)が出た。数で言えば半数弱だが、退会者の多くは戦後、会を強く支えてきた独自の作風をもった優秀作家達だった。退会の理由は展示の問題など種々あるのだが、作画上の論争は皆無で、ここにも日本の美術団体の融合集散の典型があった。芸術論争の末の分裂なら慶賀なことだが、過去、現在、ニッポン国でおめでたい話は聞かない。

自由美術も賞など作って一からやりなおし、やっと70 年代に入って先が見えてきたのだが、有力作家が抜けたあとは百花繚乱とならずスケールはよほど小さくなった。退会者が立ち上げた主体美術も会場獲得や諸々で自由美術で培ってきたものが薄くなり得るところ無しとなり、世評の美術団体不要論に最後の軍配をあげさせた。美術団体が分かれて何かを成すという時代はとっくに過ぎていた。

これが私の話の前段で、その後の我が会の70 年代になるのだけれど、2017 年の今と比べて、良となったものについて次の様に思う。 1)から4)までにまとめてみた。

1)会員審査の問題

2)複数作品の展示者について

3)二段掛け三段掛けの展示

4)会の運営、運営委員の選出について

1)について自由美術は出品者と同様、会員も厳しくやっているという会員相互審査が売りで、会員作に対して出席者がボタンを押してA ランク、B ランク、C ランクに分別し、C ランクは陳列されないことにもなった(多い年は15 人ぐらいあり初日にならなければ自作が展示されているのかいないのかが判らず、案内状を出せない人もいた)。
 絵の良否など神様でも解らぬものを、考えてみれば乱暴なことなのだ。出品者の審査も無いのが理想だが、会風と展示壁面が有限だから今の方法しか考えが及ばない。作品の評価について私は小論文になるので書かないが、ボタン押しの独自性は内外に宣伝された。しかし世間一般、独自性と客観性は別物で、もしそうでなければ我が会の作品群は世界に誇るものになっていただろう。

2)会員の落選者が出る反面2点、3点の展示者が約70 人、選出の基準も藪の中で、主体との分かれの原因も会員作を大きさと展示点数にふるい分けをすることへの反発があった。

3)限りある壁面に優遇作者ありで、そのため壁面がますますせまくなり二段掛け三段掛けが多くなった。二段、三段作者はお互い作品が見にくくなるのは自明の理だ。あの頃の展示をなつかしく思う懐古趣味の人がいるが、上段に展示したことが無かった人だろう。今のように一人一点展示はわかりやすく気持ちが良い。自由美術のように出品者も含めて一段掛け展示がなされている会は無く、私達が過去から学んだ大きなことだと思う。

4)現在、会の運営は全てが明解になったわけではないが1997 年から隔年ごとの選挙で運営委員を選んでいる。70 年代は極めて気分的、曖昧模糊としていた。今、種々問題はあるにせよ過去と比べると光はすみずみまで照らされつつあるのではないだろうか。

退会者が出た60 年代は危機感をもった個々の会員は作品の研究会や小グループを作ったりして盛んに発表をし、各地域をみても特に秋田、静岡、中部、広島、大分の活動が盛んで70 年代は復元の時であったと思う。

私はあの頃から今まで優れて敬服する自由美術の作者は100 人ぐらいすぐ上げられるが、70年代復元丸の主たる航海長を3人挙げたい。一木平蔵、上原二郎、西八郎の各氏だ。

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一 木 平 蔵           F100

一木さんはいわゆる抽象派とみられているが、そうではなく守備範囲が広く、エコールを越えて欲張った百貨デパートのようだと作品を見ていつも思う。確固としたテツガクが超自信を裏打ちしていて、氏の批評を拠り所とした人をたくさん知っている。反面正直に批評をして嫌われたことも多かったのではなかろうか、作品は論より証拠で、発想、センス心情、形、色彩、マチエール、空間構成などなど、年令を重ねてもむずかしいことを背負って捨てず、絵が野放図にならなかった希有な人だ。昨年、会の小誌に一木さんを偲んで一文を書いたので詳しくは再読していただけるとありがたい。

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上 原 二 郎   60 号

上原さんは主体との分裂の立役者でもあり、あのころ上原さんの影響を受けた自由美術の作者は誰よりも多く、上原にあらずば人にあらずの感があった。上原さん諧謔と風刺の画家で通っているが、それは全体のほんの一部分で、言葉も好きな人でもあった、集めると優に一冊の本になる。失礼だが読むと面白い。以下少し抜粋、<私の絵は表現派だ。呪われた芸術。せっかちで美しくない芸術。あのドイツ表現派たちは私の兄だ>

<若イ人トクチヲキイテハイケマセン、美シイ女ハオソロシイ、コドモハ残忍ダ、> <見つけられるとすぐに叩き潰されるゴキブリが私なのだ。私の絵はグロテスクでひとを不快にし何の益もたらさないきたないもの。この哀れな絵たちに私は何と言ってやったらいいのだろう? >

<墓ノナイ者モ棺ニハ、イレラレル、魂ノナイ肉体ヲセメテ花デカザル、残サレタ者ノ宴会ノニギワイ、>これみな反語であり本質はこの言葉を裏返した世界だ。聖なるものと俗なるものをあふれるばかりに持った人でその二つの拮抗の上に画面があり美しく、私はしばし作品の前から離れることができなかった。立体、版画、日本画も描き多作の人で昔火災で初期の作品およそ300 点が焼けてしまったけど、身体から沸き上がってくるもの常人より多く、作品は次々に生まれ多作で、100 号なら2、3日で描けてしまうのではなかろうか。多作とスピードはこれ才能の現れで、画集から別紙に絵をなぞってみると極めて巧緻に計算されている。

私の絵は表現派というのは氏一流のてらいであって、ただ気持ちのまにまに筆を走らせているのとは全く訳がちがう。

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西 八 郎(60 号)

西絵画は日本の幻想傾向の作品にあって特異な光を放っている。シュールが日本で流行った時、日本作のほとんどが軽薄な絵空言であったが、西さんは現実の矛盾を直視、鋭く切り込み、幻想絵画の枠をはみだしレアリズム絵画で、ちまたにあふれた諸作の中の白眉と思う。上原さんが機関銃手だとしたら、西さんは一発秘中の狙撃手で画面からピリピリする息詰まる怖さがある。人それぞれ屈託があるがいつも西さんに絵を描くたのしみとかなしみが見えていて、時に私は絵を描きながら西さんを想う。

3人は作品の傾向も性格も絵に対する考えも全く違う。どれだけお互いを認めていたか、これもなかったであろう、仲がよかったとはお世辞にも言えない。でも共通項がある。それは井上長三郎星という恒星の周りを惑星のごとく回っていたこと、会以外でも3人は評価されていて(まだ70 年代は新聞、雑誌、美術批評といわれるものが僅かではあるが残っていた)それもあって自分の仕事に強力絶大なる自信を持っていた。又加えて戦闘的でカリスマ性がありその引力で人を引き付けた。70 年代この3人がいなかったら、自由美術は穏便、微風の風が吹く今とはずいぷん違った会となっていただろうと思う。

その後の自由美術

福 田 篤

歴史は思わぬ方向に動くが、時の流れを振り返ると、ある変化は必然的な理由や原因によって合理的な反映をし結果に至るのだと理解できる。自由美術も創立年から80 年が経過する。大きな時代の変化や政治、経済状況の変化の中で時代を反映する作品を展示し続けて来た団体であった、そして自由美術自身が変化し続けた。又大きな環境の変化を受け入れざるを得ない局面もあったろう。

さて自由美術は1937 年の創立以来毎年入会者がある。数に多少はあるが毎年新しい仲間、会にとって新しい作品を受け入れてきた。そして自由美術の特徴として自然減を除いても退会者は少なくない。理由はというと芸術上の理由や主義主張によるものが多かったのではなかったか。従って退会者と入会者の芸術的主張の違う分だけ会は変化してきた。それが最も明瞭に表われていたのは新人画会のメンバー及びその仲間達の入会と創立会員の多数がモダンアートの結成に動いた時であろう。

しかし今我々自由美術の会員は同じ会に居続けているために自由美術の芸術的志向は無限循環構造であるかの様な錯覚の中にいる。我々は自由のフィルターの向こうに時代の変化を見、文明の質と進歩による価値観の変化に対しても同様に見た。我々の恒星が星雲の中で超高速で回転し位置が変わってゆく時、中の位置関係を越えて知覚する方法を持ち得ないのと同様であろう。

1950 年から主体美術分裂迄の約15 年間が自由の名に相応しい黄金期だったといえる。戦後の戦争批判、軍や政府批判と自己批判、戦争という狂気の時代を経て人間自身を問い直すことを制作を通して行ったのが新人画会のメンバーや小山田二郎と云った人達である。そしてこれは当時の日本全体、或いは多くの文化人の心情と共有するものであった。加えてこの世代の人々は戦争体験者であったというより戦争という歴史の高密度な舞台の登場人物であった。靉光の様に大陸で命を落とす者、麻生三郎、大野五郎の様に生還できた者と正に生と死の分水嶺を歩いてきたのである。その道は母国に唆そそのかされた無差別殺りくの修羅場であり、300 万人の血が流されたのだ。そこをくぐり抜けた自由美術の画家達はそれを避けて制作することができない、表現者の集団であった。

日本の極限状態から生まれたヒューマニズム表現主義といったものは自由美術に於いて開花し沈潜した。そしてそれは形状記憶となり、次の時代の制作を生み出してゆくことになるのである。

1965 年からの自由美術を検証すると、敗戦後20 年が経過し日本の社会情勢が変わり始めた頃のこと、大野修氏のガソリンスタンドの絵が注目を浴びた。それはアメリカ文化が街に定着してきた一つの風景となったからかも知れない。当時既に蛍光カラーの絵具が使われ始めるなど、パリ発の美術とは異なった概念のアートが美術のみならず、広く浸透し始め、未踏の山に分け入ってみようとする試みで自由美術を退会する会員が出始めたのもこの頃からだろう。

戦後のアメリカの下請工の列島化は日本に何をもたらしたのか。ヨーロッパでは産業革命により知識技能を有する労働者と専門的技術者をたくさん必要とする様になり、長い間特権階級が独占してきた知識と技術が社会階層に関係なく拡がった。そのことにより文化、芸術の発展の可能性と庶民化が始まった。これと良く似た状況が日本にももたらされた。

この頃自由美術は上原二郎、西八郎、一木平蔵が中堅リーダーとして、それぞれ個性を活かした特徴的な力量を示していた。それぞれ作品だけでなく、振舞いも自己主張と自信に満ちていた。人柄は三人三様で重なる部分が無い程異なっていた。

美術の発生はどの民族でも固有の形式をもって存在していたる思うが、エジプト、ギリシア、ローマ、パリと中心を移しながら発展してきた。美術は文明の発達を背景に高度で巨大な美の集積ができ、地球の文化の地磁気の中心は長らくパリにあったが、第二次大戦を境としてニューヨークに移動した。ニューヨークのスポンサーによるものか理解できないが、ニューヨークのアートはパリ時代とは異なり歴史的背景を拒否している。

ヨーロッパの芸術と異なり直接的に大衆を意識し、美術ジャーナリズム、マスコミニケーションに対して評価を得ようとしていた。これは有史以来の美術の成り立ちとは全く異なるものであり、芸術性に新基準が生み出されたといえる。

このアメリカ美術が世界を駆け巡る頃、自由美術は二度目の分裂と大量退会を経験した。退会者の中には新しく起きてくる美術、新素材による現代美術に挑戦する人もいた。

退会して広い視野で新分野を試みた創立時からの人を挙げると、新造形に挑戦しオリジナルな作風で完成度を高めたのはオノザト トシノブ、前田常作、中本達也、小野木学らがいる。

戦後の草創期といえる自由美術の作家達の活動は時代とぴったりと合った運動であり、多くの一般の人達の心情を代弁し、又美術ジャーナリズムの目を強くひきつけ否定させない歴史的妥当性があったと思う。又「戦争反対」が切り札として使われる様になるのはその次の世代になる。戦後は「食べられる様に」の方が切り札となり得たろう。

自由美術の戦後草創期の作家に共通しているのは戦争に落ち込んでゆく過程と無差別殺りくという強烈な体験が作品の中にメッセージとして強く訴えられている。そうした共通性をもっていながら、造形的な共通性はなく極めて個性的なのである。それ以降の自由美術に於いては重なり合う部分を持つ例は珍しくないのである。特に新人画会のメンバーは接触した時間が長く生活の場も重なり合っていた(池袋モンパルナス)のに、制作に於ける個の独立性が極めて高いのは特筆すべきだろう。

戦後の国際社会の秩序形成の動きは先ず東欧と東アジアに現れた。東西対立の先端的接点となった朝鮮戦争とその後の米軍の増強により、日本は自助努力外の利益に見舞われた。そうした経済と社会状況の中で自由美術は戦後世代のメッセージの記憶通り、一直線に進んでいたのだろう。上原、西、一木時代の次になると「自由美術」の意味するものに悩まなければならない時代がやって来た。

自由美術と「自由」を冠した時、日本やドイツでは人々の自由は危機に瀕していたときであった。自由は貴重であり制作上の自由を守ることも勇気と危険を伴った頃であった。しかし自由美術の次の次の時代になるとニューヨークからの余りにも自由すぎる美術に驚いたりとまどったり感心したりの時代、日本の美術団体は自由すぎるアートに対して一定の距離を置かざるを得なかった。団体展はパリで完成された西欧絵画に絶対的価値を置いていた。従ってアメリカ美術に感心はしてもやはり軽薄すぎると感じた者が多かったのだろう。井上長三郎氏は合理性はどこかに置き忘れて全くお留守なんだ、それでいてモダンアートがはやるんだから滑稽だ、と批判している。植村鷹千代氏は自由美術の第一回展評として「前衛絵画運動として成功している今後の運動に力を入れる……」とみずゑに書いている。自由美術は創立時前衛美術で始まり、戦後は時代を代表する表現集団であったのに、すでにモダン批判をする位置にスライドしたと読み取ることができるのではないだろうか。

1965 年を過ぎる頃から日本は経済発展も始めるとアメリカ資本の流入と同時にニューヨークからはなばなしくやって来た美術ジャーナリズム界は、数倍の資本を投入して現代美術をつまりヨーロッパからの理屈っぽい輸入芸術と違い明るく大衆に呼びかけるアートであった。ポップアート、キネティックアート、コンセプチュアルアートと次々とめまぐるしく輸入され若者はこぞって参加していった。それはファッションやスターを売り出す手法で大衆を巻き込んでいった。その頃自由美術の作家達はニューヨークの噂を気にしつつもヨーロッパの伝統社会が生み出した造形、シュールリアリズム、ダダイズム、表現主義、抽象主義等の精神と手法を思い思いに焼き直し自己の表現を確立していた様に思う。自由美術には未だ戦争直後の造形に対する必然といったものが形状記憶として会員の中に生き続けていたのだろう。 そうした主張がある程度アピールできたのはシュールの部屋、幻想の部屋だった。シュールレアリズムから発した手法を用いた幻想絵画の気鋭が集まっていた。その当時の自由美術らしさの一本の柱だった。西八郎、藤林叡三、伊藤朝彦、白水興承、高木勲、上野省作、群馬の東宮、有村、仙台の佐々木らが充実した作品を出品していた。

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藤 林 叡 三  「老闘士」1974 年 F100

アンドレブルドンはシュールレアリズム宣言の中でシュールレアリズムはこれ迄閑却されてきたある種の連想形式の高度な現実性への信頼に基礎をおく、それ以外のあらゆる精神的機能を決定的に打破しそれらに代わって人生の重要な問題の解決につとめる……と宣言し理性に於ける統御をとりのぞき審美的、道徳的な配慮の埒外で行われる心の純粋なオートマチックな(自動的)現象がシュールレアリズムなのだ。概念や観念から逃れた純粋な現象だと言っている。それに加えフロイトの精神分析と、詩、言語による超現実という日常性から飛躍、脱却し無意識の世界へと導く幻想という非理性による秩序の世界を追求するのがブルトンの主張だと思うが自由美術に於いても西八郎の自由美術出品作は正に非理性による秩序の世界を描いていた。そしてヨーロッパのシュールリアリズムの焼き直しでなくユニークな世界観に満ちていた。藤林叡三氏は徹底した表現技法で文明や現代文化の表層を流れる問題性を鋭く捉え、又ベトナム戦争を題材とし大国の巨大な力が土地に根ざした生活をしている農民、子供、老人達の生活を踏みにじってゆく、その時都会では豊かさを満喫する、そうした日常を単純な告発で終わらせない作者の強い意志が表われ自由美術の本展会場ではひときわ目をひいた。又、藤林氏の最後の出品作、ヨーロッパのホテルの一室を描いた作品だが唯室内でなく「死」を描き、「空」を描く氏の鋭い感性はその後の終結をはっきりと描いて見せた。自由美術が誇れる幻想画家でありレアリズム画家というべきだろう。

ダダイズム、未来派、シュールレアイジムなどは政治批判や文明批判に傾いた。その影響か大正から昭和初期には文学、演劇、美術の分野で政治運動との係わりが始まった。戦後の芸術家による政治的係わりは戦争責任問題であったり平和運動であったが大戦直後の敗残兵としての怒りと死んでいった親愛の人達に対するざん悔と鎮魂の気持がそうさせた面もあった、これは当時の国民的心情であった。

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白 水 興 承 「 万人坑」 120 号

自由美術のメンバーの中にはそうした思いをもって制作を続けた人は少なくなかったろう。しかし、そうした人達の制作も経済が復興し明るいアメリカ文化が拡がるにつれ表現方法、内容が除々に見やすい絵画へと変わり時代を反映する作品へと移っていった。そのことにより個の表現としての実感と現実性を獲得することができたのだと思う。しかしこうした時代の流れの中で頑固にドクロのみを描き続けた人に白水興承氏がいる。白水氏は平素温和な自由主義者であった。しかし殆どモノクロでドクロしか描かない、ということから奇異な作家と云えるだろう。幻想派の特徴は描く題材や表現方法が現実を越えられる自由を獲得しているが故に幻想なのだ。しかし白水氏は画面上の造形的自由を捨て自ら表現的制約を課し続けた。他の幻想画家とは異なるのである。

自由美術だけに限らないのだろうが幻想の人達は表現技法に於いて独特の方法論と腕前をもち、それを武器として魅せる作品を描く、つまりそれ等は作品の重要な成立要素である。

白水氏の「ドクロと無彩色」の表現と技法の絞り込みは直接の叫びを間接的叫びと表現するフロッタージュによる技法のごとき狙いを感じてしまう。そこ迄自分を縛り続けたのは何だったのか、氏は絵の中で答えていたのだろう。

絵を描くことは個の表現として個を逆に固定化する、しかし個が生き続けていることにより空間、時間は継続している、次の頁、次の頁へと移ることで時間の継続が成り立つ、ひとつの頁に固定化し引き延ばしているのではない。我々が実存を実感し得るのは時の頁の連続による意識化なのである。白水氏の強固なこだわりは「変化」や「自由に」という誘惑にどう対したのだろうか、何かが乖離していたのが白水芸術を生んだことは間違いない様に思う。

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田 賀 亮 三 「 8 号を待ちながら」 150 号

自由美術の看板の展示部屋が幻想の頃、造形派、知性派に田賀亮三氏がいる。軽妙で創作を楽しみ生きる生活も見事に楽しんでおられ信奉者は多かった。氏の作品の魅力は構成が思いつきや思慮の浅さを感じさせない知性があり俊敏な造形判断が感じられ魅力にあふれていた。理知的に見えたのは色彩の選択にあったのだと思う。思慮深く且つ大胆にまとめてみせた。フランス仕込みに加え少年航空兵が敗戦で散ったことから表にださないディレツタンティズムの香りを漂わせた人であった。戦後の知識人特有のものだったのかも知れない。氏は私が自由の事務所の時病に倒れた。

時の変化と共に日本は世界の多くの国々よりもアメリカ資本主義の色に強く染まってきた。時と共に美術は文学などとは異なり大きくアメリカ化を辿ることとなった。日本に於いてもアーティストは最初の作品開発者でなければならなくなったのである。芸術がファッション化しアメリカ発のニューアートは世界を席巻してゆく時代が来ていた。

現代アートの代表の一人であるアンディーウォホール自身デザイナーとしての成功者であった。彼は芸術市場に対して創造性や自己表現を消去してしまうことで挑戦したのである。しかしも芸術市場に打って出る作品のアイデアを50 ドルで知り合いの女性から買ったのだ。「スープ缶の様に誰にでもわかるもの」というアイデアはそのままシルク作品となり大ヒットした。マリリンモンローが死ぬとすぐにそれを作品(商品)化し大成功を得ました。こうした造形の社会的作用は明らかに戦後自由美術の理念とは大きく隔たったものなのか、通底器の様に同質のものが根底で関係し合っているかはこれからの自由美術の問題であろう。最後に針生一郎氏(1957 年)の言葉を、自由美術への応援と捉え紹介する。「百名以上の会員を擁する団体が芸術運動の主体でありうるのかどうかはいう迄も無い」……自分の心理の中のできごとを外界からの圧力と感じたり外部の条件を口実に自分をタナあげしてしまうことがユングのいう「投影」の現象だが自由美術の旗のもとに精進してきた作家達も……ひとりだちの気概が希薄になっていないか、過去の苦闘に満ちた歴史は歴史として自由に大胆に新しい局面をひらく気風がほしい。

「奇想の系譜」から

長谷部 昇

4 月下旬「Fantastic Artin Belgium ベルギー 奇想の系譜」展をめざして宇都宮美術館に出かけた。予想していた以上に説得力あるイメージ豊かな作品群だった。

解説資料によれば、ベルギー・フランドル地方は肥沃な土地と人々の勤勉さもあり、毛織物業や金融・貿易が栄えてきたという。そのため長い年月の間、様々な国(の為政者)によって入れ替わり立ち替わり支配された歴史があったことも紹介されていた。

そのような状況の中で、市民たちが「団結は力なり…」と暗黙のスローガンとして抱き続けてきたこと、同時に民衆に対して教会の教えを伝える共通言語となったのが絵画であったという点にも私は注目した。

その後、さらに足を伸ばして上野で開催されているブリューゲルの「バベルの塔」の世界を久しぶりに堪能した。

15 世紀から現代までの約500 年にわたる奇想の系譜という作品群の中を歩きまわりながら、「この作品を制作した表現者一人ひとりの視点というよりも、この作品世界を受け入れた民衆・市民たちの視点に応えたものなのでは…。そして、その視点に確かに応える・表す力量が問われるのが画家の立場なのでは…」と考えたりしてみた。

そんな時、私は生前お世話になった画家「西 八郎」が追求し続けた激しく厳しい作家姿勢を思い出した。

西 八郎さんは、1973 年に機関誌「自由美術」に「幻想絵画小論」を発表した。その中の次の記述が今も私には強烈である。

「……私たちが描く物象は全て私たちの代弁者の役を持つ。代弁者の姿は出来る限り細密に絵描き出さねばその役をなさぬ。
(中 略)

軍靴が登山靴に間違えられるようでは、その物を選択した意味までもなくしてしまう。
(中 略)

食卓のパンが石ころに見えたりするようでは、はなはだ困るのだ。視覚にうつる事物は勿論、自らの創造による物象であっても意図したとおり描出することを、私たちは自らに要求しなければならない。その求めに応ずる技法は、やはり細密描写をおいてない。(中 略)

パンがパンに見えるまで筆を持ち続けなければならない。

     (以下省略)     」

画面上の代弁者「パン」や「軍靴」などをとおして、西さんは人々に何を語ろうとしたのだろうか。

画家「西 八郎」は自己の表現理論を確かに持ち、数々のすぐれた作品を発表したが。残念なことに1979 年逝去してしまった。

ここで話題を替えて、激動する社会の中での人間の姿・在り方等について考えてみたい。例えば、1960 年代と1970 年代に国内で起きた事件や騒動に対して人々はどのような反応だったのだろうか。

1960 年代と言えば、安保阻止行動(安保闘争)・1960 年や1968 年あたりから始まった学園の民主化をめざした大学紛争を私はすぐに思い出す。これらに共通するのは、共感する多くの国民・市民の側からの熱いエネルギーに支えられた行動であった点。

これに対し、1970 年代に発生した事件としては、1970 年の日航機よど号事件や1974 年の丸の内・三菱重工ビル前の時限爆弾爆発事件が挙げられる。この事件に共通するのは、過激化した特定の集団メンバーによる行動であること。

1970 年代、過激化した集団メンバーが引き起こす騒然とした世情にあって、1960 年代を共感の視点を持って過した表現者たちの中に、独自の新たな表現方法を確立しようと深く思索し、厳しい研鑚を積み重ねる画家たちがいた、その多くの方々は既に鬼籍に入られたが、現在の自由美術の基盤にはその方々の取り組みがあったと言っても過言ではないだろう。

ここまで、極めて個人的なことを支えて長々と書き連ねてしまっだが、最後に3つの「?」とを付記したい。
1. 1970 年代に独自の視点から表現者としての考えを述べた貴重な文章(論文)が沢山ある。他にどんなものがあるか?
2.「奇想の系譜」が注目されている今日、私たちは一人ひとりがどんな生き方をしているのか。自身のチェックが必要では?
3. 表現上の「代弁者」…私の場合は?

東宮不二夫先生のこと

手島 まき子

私が自分の表現としての絵を描き始めたきっかけは、小学4年時の担任の先生である東宮不二夫先生の存在が一番大きいだろう。

東宮先生は、まがったことには火を噴く勢いで本気で怒る。我々の頭上にもしょっちゅう大目玉が炸裂したが、それは恐怖で萎縮するというより、はっとして背筋が伸びるような不思議な怒り方で、みんなそんな先生が大好きだった。授業の合間に聞かせてくれる雑談もとても面白かった。先生の少年時代の話、名作文学のパロディなど。……時々は先生の経験した恐ろしい戦争の話も聞かせてくれた。

先生は、のろまでぼんやりで脱走癖まであるどうしようもない子供だった私を、「いい子だ」と言ってくれ、夏休みの宿題の絵日記を褒めてくれた。(もっとも当時先生が褒めてくれたのは作文の方であり、絵については初めて触れた少女漫画にもろにかぶれてお目目パッチリお人形みたいな人間をかいていたため、褒められた記憶は全く無い。)

いつの頃からか、先生から案内状をいただいて旧煥乎堂ギャラリーの自由美術展を見に行くようになり、そこに並んだ絵たちに魅せられたのだった。宙に浮いた石、こわれた時計、からっぽの軍服、うつむく人、荒涼とした風景……

旧煥乎堂は全体に静かで涼しげなとても素敵な建物で、そん建物の中央にある曲線の飾りのついたらせん階段を登り切った最上階にギャラリーはあったから、これは絵との出合いとしては舞台効果まで完璧だったのだ。(大好きだった旧煥乎堂は取り壊されて今はもう無い。新煥乎堂にもギャラリーはあったが売り場と一続きであり、店内のBGM がそのまま聞こえて、異世界感は大分薄れてしまった。そして今はそのギヤラリーさえ無くなった。)

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手島まき子

東宮先生を思い出すときに、いつも一緒に思い出す人がいる。K君という同級生である。自由美術の先輩について書く、というお題からははずれてしまうかもしれないが、どこかで書き残しておきたいので、この場をお借りして書くこととする。

K君は、少年院を出入りし、喧嘩がめっぽう強く、札付きの不良少年だったが、じゃがいもみたいな顔が結構愛嬌ある少年だった。東宮先生は彼が描いた絵を見て絶賛したのだった。K君の絵は、いまでも記憶に残っているが、本当に何にもかぶれていない、影響を受けていない、見たこともないような絵だった。

たぶん父親の仕事場であろう工場の絵で、父親の姿もラインの機械も濃い鉛筆でごしごし描かれた不思議な曲線でおおわれていた。東宮先生は屋上に通じる階段の上に彼のアトリエを作り、思う存分絵を描かせたのだった。K君はそこで背を丸めて机にかじりつき、一心不乱に絵を描いた。私は先生にそんなにほめてもらえて、アトリエまでもらえたK君がうらやましくて少しやきもちを焼いたが、とてもかなわないな、とも思っていた。天才ってこういうものかな、と。

・・・それから月日がたち、高校生になったある日、私はK君に再会した。司修の自伝的小説「汽車喰われ」で主人公が友人に再会し、リヤカーを押してゴロタ道を下った同じ道である。

K君は、白いスーツにテカテカの白い革靴を履いた、いわゆる「やくざの制服」で身を固めていた。ああやはりその道をたどってしまったかと思った。しかし、じゃがいもみたいな愛嬌のある顔は変わらず、にっこり話しかけてくれたK君と、二言三言話して、その場は別れた。

あの時どうして聞かなかったのか。

東宮先生に会いたくない?煥乎堂に行けば会えるよ、今も絵を描いている?あの時の絵がまた見たいよ……

私の言葉がK君の運命を変える力があったとは思わないが、東宮先生に誘われて自由美術群馬展に参加するK君、そういう未来も見てみたかったような気がする。

群馬の冬はとても乾燥する。そのせいで空気は澄み切り、遠くの山塊も手に取るように近くに見え、その異様な迫力は日常の風景を異世界に変える。山の向こうに遠い記憶の帰るところがあるような……。群馬に「シュール系」の作家が多いのはこうした風土に理由があるのかもしれない。

東宮先生は今は山の向こうへ行ってしまった。K君とはあれきり会うことは無い。私はこの先も脱走したり迷走したりしながら、いつか山の向こうに行く日まで絵を描き続けるのだろうと思う。

自由への精神

森 田 しのぶ

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森 田 しのぶ「生命の回想 0176」

いつの頃か、まだ自分が何なのかを模索していた頃だった。お芝居、映画、音楽など異端的な興味のあるものは片っ端から見たり聴いたりそういう場所に足繁く通った時代があった。

異端的なもの、あるいは普遍的なものに私は興味が沸き、当たり前の事では物足りなく、屈折したものの方がワクワクした。何故なのかよくわからないけれどおそらく人工的なものより自然的で泥臭いものの方がぐっと、生きているという実感を感じられたのかもしれない。そういう二十代にかつて自由の会員である猪口淳の作品を見て私は衝撃が走った。絵を描くという事はこうなんだと…。

40 年前、鳥取のとあるギャラリーて、2ヵ月に1回という当時の鳥取では活気的なグループ展が開かれていた。6畳ばかりの薄暗いギャラリーだが、作品はここばかりに主張し白熱していた。

メンバーはニシオトミジ、猪口淳、山本恵三、他6人展であった。その後縁あり、自由美術との出会いがあった。東京都美術での秋の本展ではシュールな作品が軒を連ねていて一種独特の世界観を漂わせていた。その頃私にとってそれぞれの作品はとてつもなく大きく、強く感じられた。私は胸を震わせ一点一点作品を見入り、一作一作に作家の命の執念、まさに命を削って表現されている。本当の意味での「絵を描く」と言う事を深く考えさせられたものであった。

シュール系の作品はそういう意味では存在感がある。主張する白熱した作品群が会場の空気を内包し、刺激し、私は感動を覚えた。意欲を沸き立たせてくれた。私はいつの頃か様々な自然界の生物体(私達も含め微生物からミクロの世界まで)は同じメカニズムで構成されている事だと思う様になった。具体物を変形、拡大、増殖し、のびやかな触角は被膜となる。ゆるやかな生命の回想が果てしなく形成され営まれていく。こんな世界観の中、まるで自然界とは程遠い色彩とリアリティのあるフォルムを融合し、調和を図る事で作品が形成されている。

人が感動する場面とはどの様な時なのだろうか。作者の表現したい事が見る側に伝わり、作品との対話が成立する事だと思っている。シュールには強烈な主張がある。社会風刺であったりあるいは自己逃避、自己陶酔と様々な内的意識の中で自己を誤魔化す事も無く、表現しているからこそ見る側、我々が深く感銘し記憶される。これは我々の中に共通する何かがあり、作品を受け止める力が発生する。過去、もしくはもっと何か解らない過去への記憶の中にある何かなのかも知れない。

近年自由の展覧会は、年々程よくスマートな作品が目立って来ている。確かに会場は明るく、すっきり見やすくなっているのは事実だが、自由美術本来の風刺であったり個性の主張も段々希薄になっている様な気がする。これは時代の中の変化なのだろうか。我々は今まで先人達の築いた自由への精神を軸に、今一度見つめ直し、自由への拘わりとは何なのかを考え認識し、より厚みのある活気的な会場にするにはどうなのか、今一度今だからこそ私達は考える必要があるのではあるまいか。

わたしの自由美術

小 暮 芳 宏

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小 暮 芳 宏              「標的」

編集部より以下のような自由美術協会本展パンフ原稿依頼を頂きました。

『自由美術には、シュール系のすばらしい先輩が数多くいました。少し想い出すだけでも、西八郎・上野省策・東宮不二夫・有村真鐵・井上肇・長谷川匠・藤林叡三その他、数多くの作家がいました、しかし今は少なくなり、寂しい限りです。最近の会員の中には、そのような先輩の存在さえ知らない人がいるように思えます。ご自分の制作の事、自由美術の先輩の仕事のことなど、お考えを書いてくださればと思います。』

補足、有村真鐵氏は自由美術協会を退会していますが、群馬県美術会及び自由美術群馬研究会等、現役で活躍されています。

以下文中敬称略。

東宮不二夫・有村真鐵・井上肇とは自由美術群馬研究会で共にしているので、この三者について述べたい。特に井上肇は中学の恩師であり自由美術に出品する契機になった人である。 彼らの作品を見ての印象は、堅牢な画面とその妖艶ともいえる美しさであり、不可思議な愉悦がそこにはある。

シベリア抑留帰還者でもある東宮不二夫の、酷寒のシベリアの果てしない漆黒ともいえる空の群青。

長崎県大村を出生地とする有村真鐵の描く、人類の愚行を背景に浮かぶ浦上天主堂。

「兄の軍服」を描いた井上肇の軍服。

シュールレアリスムと言われる彼らの作品ではあるが、それは安易に類型化された評価であり、的を射ているとは思えない。 一般的には奇異に見える絵であっても、彼らにとってはごく自然な表現であり、「キャンバスに絵具を乗っけただけの凡俗な写実画」には無い奥深さ、あるいは「奇をてらった陳腐な強迫観念に怯えた詭弁的産物」には見られない面白さがある。

また、反戦的プロパガンダ画とするのは浅はかな教条的で一面的な見方であり、それらとは一線を画すものである。

彼らの絵には、自己属性に基づく動かしがたい強固な意志がそこにはあり、知的生命体ならぬ痴的生命体の本性を露わにした人間の深層に横たわる得体の知れない物への、強烈な戒めと警鐘の情念的表明を感じる。東宮不二夫・有村真鐵・井上肇と出会えたことは、私にとって幸運だった。

東宮不二夫は言った。「描きたいものだけ描けばいいのだ。」

井上肇は言った。「絵なんか下手でいいのだよ。」

何を描いたらいいか解らなかった自分に、この言葉は勇気を与えてくれた。

有村真鐵の鋭い洞察力とその優れた慧眼は素晴らしく、私の作品制作の羅針盤となった。

結果論であるが、自由美術は私にとても合っていたと言える。

東宮不二夫・有村真鐵・井上肇に代表されるように、自由美術は作家の個性と長所を的確に見出してくれ、それを伸ばしてくれる。

時に、短所をあげつらい、己れのちんけな存在理由を確認したいがために、地位的権威を後ろ盾とし、他者を服従させ、敬意を払ってもらわねば埋めることのできない空虚な哀れな輩もいるが。

自由美術は、「自ら考えることの労力を放棄し他者の価値観に盲従する平安」を忌避し、自己の葛藤することへの疲弊や苦痛はあれ、そこにこそ生きる喜び与えてくれる。と信じたい。

最後に、井上肇のことを少し。

井上肇は、中学三年時の担任であり美術教師でもあり最も印象深い存在であった。

当時は不勉強にして画家としての井上肇をよく知らなかった。確かに、美術の授業で自身の絵(軍服だったか鉄兜だったかは記憶が定かではないが)を見せてくれたことはあったが、自由美術に出品するまでは、「軍服を描く画家」という認識はなかった。と言うか、恥ずかしながら、自由美術そのものを知らなかった。

井上肇の美術の授業は面白いもので、技術的に巧いだけのつまらない絵は全く評価せず、巧拙に関わらず見どころのある絵をよく褒めていた。前述したように、「絵なんか下手でいいのだよ。」の意味が最近解るようになってきた気がする。

中学卒業後、ずっと気になっていたことがあった。美術教室に貼ってあった「鍬を振り上げた農夫のデッサン」は誰のかと、後年井上肇に尋ねたことがある。

「ゴッホだよ。」

例え、どんな過酷な状況に身をやつすことになろうとも、なにものにも媚び諂うことなく、自惚れることなく、思い上がることなく、確かな理念に裏付けられた矜持を常に持っていたいと思う。

 

画家 小野木 学の仕事

−自由美術での活動を中心に−

練馬区立美術館 学芸員 真 子 み ほ

練馬区立美術館は、1985 年に開館し、今年32 年目を迎える中規模美術館です。所蔵品は、日本の近現代美術を中心に寄託を含めて6,000点を超え、近年では海外の作品や日本近世のものなどその種類も多様になってきています。

所蔵品のひとつの柱として練馬にゆかりの作家作品があります。今回ご紹介する自由美術家協会に属していた画家・小野木学は、その中でも所蔵点数の一番多い作家です。1986 年に開催された没後10 年の回顧展をはじめとし、コレクションを使った小展示も含めると過去5回ほどの企画が開催されてきました。ただ、小野木の重要な仕事のひとつである絵本や児童書の挿し絵の仕事については、原画を多くご寄贈いただいたもののこれまでまとまった紹介はされてきませんでした。そこで本年練馬区立美術館では、絵本原画を中心として、小野木の挿し絵の仕事を振り返る展覧会を開催予定です。今回は小野木と自由美術との関係や挿し絵の仕事についてご紹介したいと思います。

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第17回 自由美術展出品作  「民話」 1953年

小野木学は、1924 年東京府北豊島郡巣鴨町に生まれました。旧制中学在学中に軍事訓練の過労から肺を病み、卒業後は農林省大宮種畜場に勤務しながら絵を描くようになります。23歳頃喀血し療養生活を送ったことにより芸術家として生きることを決意。25 歳頃自宅に戻って本格的に独学で絵画を学び始め、1953 年29歳で初めて第17 回自由美時展に出品しています。出品作は<民話>。武骨な形態を配した抽象的な油彩画で、ごつごつとしたマチエールが印象的です。自由美術に出品した理由を小野木は明らかにしなかったそうですが、「理論的に自分の動機といったものは体系づけて言いたくない気持ちです。どっちかと言えば、動物が水とか草とか風の匂いを嗅ぎ分けて、そっちの方へ行く、そういうものがあったんだろうと思う。」と1958 年の『自由美術 NO.17』で語っています。(注ⅰ)

1947 年頃、戦前の「自由美術」を中心に戦後新たに他組織を離脱して参加した作家たちで再結成された自由美術家協会は、小野木が出品し始めた頃には新人の大量導入で、かなり規模の大きな公募展となっていました。小野木が初出品した1953 年の絵画の搬入点数は2,345 点、55 年には2,720 点を数えたと言います。そんななか1959 年には会員に登録され、63 年の退会までの10 年間、小野木の画業の一時代は自由美術家協会とともにありました。

1954 年には<金曜会>にも入会し、翌年よりグループ展に出品しています。<金曜会>は、東京教育大学(1978 年閉校、筑波大学の母体となる)教育学部芸術学科の学生で、自由美術出品者であった磯村俊之、大村連、加藤一、小林節夫、小林琢の5名によって1950 年に結成された会で、小野木は第2回から参加した塩水流功の紹介で入会しています。金曜会では作品合評会が開催され、小野木は毎月出席していたようです。さらに59 年、小野木と前後して会員となった自由美術の新進気鋭の作家たちで組織された(27 日会)(上原二郎、加納敬次、羽田重亮、中本達也、早川重章、曹ジョヤンギュ良奎、上野実、西八郎、井上武吉ら10 名)にも参加。こちらも毎月各人の作品を批評し合う会が開かれていたということです。

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第22回 自由美術展出品作「かほ」1958年

こうした協会内での直接的な作家同士の関係性の他に、自由美術で知り合い個人的に親しく行き来していた作家達とは後々までも交流が続いていたようです。1955 年、杉並区松ノ木から練馬区谷原町(現在の高野台)に居を移しアトリエを構えたことから、周辺に住む佐田勝や倉石隆、司修らと交流が深まります。特に倉石隆、司修とは、司氏によると「毎晩のように誰かの家で飲んでしゃべっていた」というほど仲が良く、ここに「こぐま社」を立ち上げたばかりの編集者佐藤英和やこぐま社に嘱託で関わっていた緑川紀子(1968 年小野木との共作でこぐま社から『なないろのあめ』を出版)も加わり、後の絵本作り(1969 年『さよならチプロ』)にもつながっていきます。

こぐま社の絵本といえば、当初、四色分解を行うよりも安くきれいな色を使いたいという佐藤の考えでリトグラフの手法が印刷に使われていました。作家は、一版一版色ごとにジンク版という亜鉛の板に直接描いていくのです。つまり色の入った状態での原画は存在せず(墨書きのみ現存)、絵本自体が原画という、贅沢な作り方をしていました。(注ⅱ)司は編集者の佐藤に声を掛けられた時、版画の手法で作るということに興味をひかれ、こぐま社第一号の絵本『ほしのひかったそのばんに』(わだよしおみ・文、司修・絵、1966 年)が出来上がったと言います。その版画の手法を司が見せてもらった際、小野木も誘われて見学したとのことです。以前から司とは知り合っていましたが、自由美術退会後の1965 年、版画家の吉田穂高に誘われて大泉学園の司のアトリエでシルクスクリーンを教わったことから交流が盛んになったようです。62 年頃、小野木の作品は、それまでの絵具を様々に塗り込めながら存在感を浮き上がらせたものから、一色の絵具を画面の隅々にまで刷毛で引き伸ばしていくフラットであり深遠な抽象画に移行していました。そうした作風が、平坦にインクを乗せるシルクスクリーンの手法にぴたりと合い、以後亡くなる年まで小野木作品の一つの柱となります。

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第23回 自由美術展出品作「戦史」1959年

こうした様々な出会いがあり、また画家としての出発点だった自由美術協会を、小野木は1963 年に退会します。初出品同様、その理由を小野木は言葉にしていませんが、社会的な背景と自由美術の内部の変化、そして作家生活10 年以上を経た個人的な変化の時期であったこと、それぞれの理由があると思われます。

まず社会的背景としては、59 年から60 年の安保条約の改正を巡る論議の高まりに、美術家たちも巻き込まれていったことがひとつ大きな点と見ることができます。この時期、文化に関わる各分野の人々が結集した「安保批判の会」や「全国美術家協議会」が組織され、条約の研究集会やデモ、カンパなどが行われていました。小野木も協会とは別に< 27 日会>の数人のメンバーとともにデモに参加しています。「だが、反対派のエネルギーがそのまま賛成派に吸収され、すべてがなし崩しにされていく日常の現実をまのあたりにして、同次元でたたかうことの無意味さを痛感させられたであろうと、思う。」(注ⅲ)と、菅原猛が回想しているように、同時代の人々の多くも感じたゆがみが、少なからず小野木にも影響を与え何かしらの転機を迎えたと考えてもよいでしょう。

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第26回 自由美術展出品作 「普通の風景」     1962年

またこうした時代の動きに加え、公募展も回を重ねるごとに点数も増え、なにか発足当初とは違ったエネルギーが渦巻いていたことも、自由美術を離れる要因になったと考えられます。1962 年には「今年の自由美術の会場には驚かされた。会場の混乱ぶり(三段がけ)もさることながら、何かの社会的なテーマ展なのではないかと思った程、累計的なスローガンを叫んでいる作品が目立ったからだ。作品云々よりも会自体が混乱しているのではないか、団体展のどうにもならぬ行き詰まりの破綻がかつての美術界のエネルギー源のような存在としてみられていたこの回のこの会場に最も強く感じられたのは考えさせられる。もはや、個々の作家が一隅に光る作品を出品するということでは収拾のつかぬ所まできてしまっているのだろうか。(注ⅳ)」という混乱ぶりであったようです。小野木は61 年の6月から翌年7月まで約1年間パリを中心にヨーロッパを旅行しています。帰国した彼の目に、展覧会はどのように映っていたのでしょうか。

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第3回シェル美術賞展第2席受賞作「首馬」
1959年『美術手帖』12号より転載

また前述のように、1962 年頃から小野木の作風は大きく変化を遂げました。抽象、半袖象ともに木馬や凧、人物などなんらかのモチーフを登場させていたそれまでとは打って変わり、以後の平坦な抽象画面のほとんどが「風景」と名付けられています。62 年の第26 回自由美術展に出品した<普通の景色>はその初期に当たり、後に多く描かれる青一色の「風景」連作の出発点ともなりました。

いくつかの要因があり、自由美術を退会した小野木ではありましたが、入れ替わるようにこの頃から挿し絵の仕事が増えていきます。50年代初めから編集者の紹介で教科書の表紙や挿し絵の仕事をこなしていましたが、翻訳児童書や絵本を皮切りに自身の創作絵本を4冊世に送り出すなど「創作の場」としての挿絵の存在が大きくなっていきました。亡くなるまでの10数年で出版された書籍は80 冊以上となります。69 年から70 年にかけてのアトリエの改築で油彩も版画もほとんど制作できなかったという要因もあるのか、この時期集中的に挿し絵や絵本の仕事が行われ、1970 年には『おんどりと二まいのきんか』(ポプラ社、1969 年)や『宇宙ねこの火星たんけん』(岩崎書店、1968 年)など一連の作品で小学館絵画賞を受賞。また文・絵ともに担当した『かたあしだちょうのエルフ』(ポプラ社、1970 年)は、71 年の青少年読書感想文コンクールの課題図書ともなっています。

小野木は60 年代後半より、児童書の挿し絵や絵本に使う名を「おのき4 がく」としていました。「おのぎ4 がく」という読みで絵画の個展を続けていたことを思うと、これは明らかに2つの仕事の間に線を引いていたと考えられます。もちろん挿絵は収入源のひとつであり、絵画や版画制作と同じ次元に捉えてはいなかったのでしょうが、なにか小野木の中の違う部分がそれぞれの仕事に使われていたとも思うのです。小野木は小学館絵本賞受賞時のスピーチで「ぼくは絵本を描くことで、自身の中のこどもを確かめているのでしょう。」と話しています。絵画や版画の多くを語らない厳しさに対し、挿し絵の小野木はある意味饒舌です。ダチョウの悲しみや勇気、積み木たちの困難な冒険と安住の地を見つけた充足感、孤独な老人と子どものつかの間の交流、昔話の主人公たちの生き生きとした姿……。「こども」とは実際の子どもでもありますが、世の中を驚きを持って見つめる、その眼をさしているのかもしれません。逆に「おとな」であることはその眼がとらえたものを蓄え熟成させアウトプットしていく行為なのかもしれません。これがあの深遠な抽象画に昇華され、また挿し絵と絵画、両者があることで小野木学という作家の全体像が見えてくると言ってよいのではないでしょうか。

小野木学にとって自由美術家協会は、画家生活の3分の1ほどを過ごし、仲間を得、その後の創作の世界を作っていった場所でした。今回の展覧会は小さなスペースですが、自由美術展出品作も含め小野木の作家としての全体像が見えるようなものを考えています。ご高覧に加え、忌憚なきご意見をいただければ幸いです。

(注i) 厳密には一般出品者の座談会で名前を伏せた「E氏」の発言。発言内容から菅原猛はこのE氏を小野木としている。(「小野木学一人と作品一」『没後10 年 小野木学の世界』練馬区立美術館、1986 年)
(注ⅱ)佐藤英和『絵本に魅せられて』こぐま社、2016 年、p.145
(注ⅲ)菅原猛「小野木学一人と作品一」『没後10 年 小野木学の世界』練馬区立美術館、1986 年、p.9
(注ⅳ)「印象に残る作品 独立・二紀・自由美術展」『美術ジャーナル』1962 年11・12 合併号、p.57

●小野木学 絵本原画展−ぼくの中のコドモ−」onoki 6.jpg
会期‥11 月26 日(日)〜2月11 日(日)
会場‥練馬区立美術館2階展示室
観覧料‥無料

地域からの報告

「ギャラリートーク」とは? !

水野 利誌恵

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この近年、ギャラリートークを私自身よく行っている。しかし、矛盾も感じている。我々は言葉に表せない思いがあるから、それを絵で表現しているのではないか?しかし、トークを聞き終わった人の感想は、「絵の前で聞くと、とってもよく分かる」「良かった」である。本当に分かったのであろうか? そんなに簡単に分かられていいのか?誤解しているのではないか? などと猜疑的に思ったりする。「絵を描くこと」それは、自己の内面を見つめ続け、溢れ出した感情があるからそれを表現するのであろう。言葉にするのは本当に難儀である。言葉にした瞬間に、嘘くさく感じてしまうのは私だけだろうか? !

さて、富山県の西部にある砺波市庄川町に松村外次郎記念・庄川美術館がある。庄川町出身で、二紀会名誉会員の彫刻家・松村外次郎が作品を寄贈したのをきっかけに開館した美術館である。とっても風光明媚なところで、木彫の盛んな地でもあり、私は年に何回も、作品の材料としての木を求めて訪れるところである。私の住んでいる所から、車で1時間20 分程である。ここで「洋画sparkling! − 2017in 庄川展−」に参加させていただいた。光栄なことに、私の絵がポスターになりA4のフライヤーにもなり、そこでのギャラリートークとワークショップを行った。4月半ばで、庄川に沿って植えてある桜が見事であった。

何度かのギャラリートークを経験しているが、いつも苦手である。しかし、今回は面白かった。私の町とは違う文化圏だからか、質問が沢山あった。自分自身ファジーにしていた部分に質問が及び、私自身も話すことで整理がつくということを経験し、これが「ギャラリートーク」の醍醐味なのかと合点した。その後、『my うちわをつくろう〜木目を読もう・木に描こう〜』というワークショップを行った。小学生2人と大人9人の参加であった。想像していたよりもいろんなアイデアが出て、「面白かった!片面は家で仕上げます!」と帰って行かれた。私自身もなかなか充実した一日であった。

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1980 年代後半ニューヨーク近代美術館で、一方的に知識や情報を与えるのではなく、感じたことを共に語り合いながら鑑賞を行う方法ということで「対話によるアート鑑賞」に発展したらしい。一方的に作家の気持ちのみを話すのではなく、それを受け取った側の意見や気持ちを作家に返す。そういう風にキャッチボールをすると、作家側も問題点を発見することが出来る。それを気づかせてくれる展覧会となった。

 

広島からの報告

西尾 裕

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「黄人」とは、自由美術広島の研究母体である。名前の由来は、ヨーロッパ旅行に出かけた知人が、インドの港まで帰った際、「黄色人種の肌を見て、その美しさに感動した。」という話を聞いた広島のメンバーが「黄人」と命名したということである。

「黄人展」は、自由美術出品者のみの展覧会であったが、研究の目的であるため一緒に勉強したいという人に解放されるようになった。黄人のメンバーは現在33 名、うち自由美術出品者が20 名という構成となってぃる。

「黄人」の広島を中心に活動しているので広島の人には声をかけやすい。個展に来てくれた人がグループ展や展覧会を開いていたら、とにかくマメに足を運び、つながりを作り絵の話をする。魅力的な作家や興味を示す人には参加を呼びかける。絵を描く仲間を求めている人は意外と多い。 広島のような狭い所では、会派を超えて展覧会を見合い、お互いが助け合わないと絵を描くことそのものが廃れてしまう。日展系のグループも見に行き、必ずサインをして帰ってくる。こうしたことを皆でやっていると、自由美術展にも黄人展にも他会派の人が見に来てくれるようになり、交流が拡がってきた。自由美術展では見に来てくれた人が会場からなかなか出てこない。熱心に見てくれる人が多いのだ。「本当に自由で多様な表現があるのですね。」「作品のレベルがとても高い。」「以前から、この展覧会をされていたのですか?」「かつては敷居が高い感じがしたが変わってきましたね。」等の声が聞かれるようになってきた。

黄人展では、さらに様々な人の出品があり、とても元気が良い。出品者が増えたため、県立美術館を2部屋借りるようになった。これにより複数作品の展示が可能になり、多い人は4点出品したりするようになったので、増々会場に活気が出てくる。他の展覧会では指導者の影響か、似たような作品が並ぶことが多いが、黄人展では全く自由。個々が自身の表現を模索していて多様な可能性を感じることができる。研究会では、よく喋り、新人もベテランもない。こういう雰囲気を皆で作り出しているから参加者の表情が明るい。

素晴らしい作家が集まるのが理想かもしれないが、そうはいかない。定年後に何を目標として生きるかを考えた時、昔好きだった絵を思いっきり描いてみたいという人。子育てが一段落し、何か自分が充実するものを見つけたい人。絵を描く仲間が欲しい人。「黄人」のニーズは結構ある。大切なことは、こちらからハードルを決して上げないこと。始めは稚拙で、いい作品を見たり勉強するうちに大変身を遂げる人は少なくない。特に女性の場合、驚く程変貌する例を私はたくさん知っている。従って女性は貴重な戦力であり、何より社会性に優れ、会が明るくなるのが良いと思っている。

ここ数年、広島では他の会派をやめ、自由美術に出品するケースがある。「自分の思う表現にストップをかけられ、好きなように絵が描けない。」「そこでは自分が伸びないような気がした。」等がその理由である。これも大いに歓迎して、一緒に勉強している。「自由美術は、何を描いてもいいけど、自分で考えなくちゃいけないから大変だ。」と言われた方もおられた。

また近年、広島で大切にしているのが、近県グループとの交流である。山口、香川、岡山など他県のグループ展を見に行くと、地域ごと特徴があり興味深い。山口は維新の国、志士の国だから、各々独自の表現を持ち決して交わることはない。香川は、独自の技法で、制作する作家が多く、ミョウバンを使う話を聞いて驚いた。こうた交流が生まれると、自由の巡回展や黄人展を遠くから見に来られる方が増える。ここ何年か京都からのお客様もあり、本当に有難く思っている。作品についての素直な意見は、新鮮で勉強になるので、自由美術に出品していない黄人のメンバーからも、とても喜ばれている。

広島では、従来の自分のスタイルを壊し、どうすればもっといい絵が描けるかを模索している作家が多い。変わろうとしているから次に何が出てくるか分からない。その姿勢が共感を呼び、自分も変わろうとする背中を押す力になっている。こうした混沌のエネルギーが渦巻いている間は、広島ももう少し期待できるかもしれない。

自由美術 佳作賞展

'16年受賞者による佳作賞展 '17年4月11日(火)〜16日(日)

PAROS GALLERY(大森)

佳作賞展をみて

美濃部 民子

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山田哲夫氏(愛知)

メゾチントを中心にエッチングやアクワチントの技法を駆使した版画の作品。佳作賞受賞と共に新会員にもなられた方で創作意図などは3月発行の自由美術パンフに掲載されているので記憶されている方も多いと思います。過去の人間たちの行為としての美をテーマにして創作を続けていると作者は述べておられます。ある時代の人々の切なる必然として完成されたものをテーマに選択した場合、よほど注意深く取り組まないと、狙いと全く逆の効果を生んでしまうのではないでしょうか。そんな危うさを持ちましたが、世界中の遺跡を尋ね歩き、社会でも一角(ひとかど)のお仕事をし終えた方に、今更狭い所で生きてきた私が何か言うのも……と思いました。

 

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五十嵐久美子氏(東京)

五十嵐さんの作品については本展の寸評でも書かせていただいたので、再度書き手が私で申しわけないのですが、私の好きな作家です。本展と佳作賞展の間に個展も開催されたので同じ作品を並べたくないとのことで、大きめの作品とコラグラフという技法の版画の小品が展示されていた。色々な素材や技法を使って色数をおさえた画面を誠実に心をこめて創っていてそこに醸し出される詩情に私は心引かれます。見せようといったあざとさがないところ、自分の作品としっかり対話をしながら創り上げていくところに魅力を感じます。小品の版画作品には作者のともすれば趣味的に陥ってしまう面が出てしまったようで残念に思います。てこずりながらもコツコツと積み上がっていく画面の方を私は好ましく思います。

 

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坂田均氏(長野)

坂田さんの作品は本展の作品と全く違った作風。思えば審査の時、全く違った作風の作品が10 点程並んだのをご記憶でしょうか?それが坂田均さんです。作者自身も色々な絵を試してみたい段階なのかも知れません。長いこと実践してきた手法ではないので、まだまだこれからと思うのですが、一つの手法での試行錯誤を待たず他の表現手法に移行してしまうのかも知れないと想像します。巧まずして現われた美しい形や色が作者の手に残らずこぼれていってしまうことがあるのではないでしょうか。文学的なテーマがいまひとつ造形にうまく移行できていないのも気になります。

佳作賞展全体としては画廊での発表ということで美術館とは又違う工夫が必要だと思います。そこがうまくいくともっと魅力的な展覧会になったのにと残念に思いました。

田中・阿久津 2人の作品を見て

永畑 隆男

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田 中 敬 子

田中敬子さんの作品について

今年の平面の佳作賞展は5人の作家が選ばれました。そのうち2人が版画であったためか全体的にみると小さめな作品が多かった中、田中さんの作品はS 30 号が2点で大きく、色彩的にも華やかでした。どちらも同じ大きさなのですが左の作品の方が大きく見え好ましく思えました。それは、色面の形が右の作品と比べて大きく、色彩が豊かで、赤、黄、緑の3原色のほかにも、紫、白などの色が心地好く表現されていたからでしようか。近くで見ると、やや乱暴とも思える筆使いや、濁った色使いが少し距離を置いてみたとき不思議な魅力をかもしだしているのです。作者はその辺のことを十分心得ておられたのでしょうか。また色面のほかにも線が自由、大胆に描かれていて、見ているうちにジャズか現代音楽が聞こえてくるようでした。題名は「フラワー・オブ・ライフ」とありました。花に託して生命や人生の深みを表現されたのでしょうか。

右側の作品は紫が画面の左下を大きく占めていて絵を小さくさせているように感じます。ただ、感じ方は人それぞれで、こちらのほうが丁寧に描かれていて、好ましいと評価される方も多くいました。今年の本展で田中さんの作品に会えるのを今から楽しみにしています。

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阿久津 隆       「上流」
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    阿久津 隆       「下流」

阿久津隆さんの作品について

今年、佳作賞展のオープニングパーティーの会場で小耳にはさんだのは、阿久津さんの作品について「まるで別人の作品みたいだ」とか、「本展の作品の方が良かったと思う」といった言葉でした。彼の作品に関心を寄せている人が多いのだと思い、昨年はどんな作品だったのかが気になりました。そんな時、編集担当者が、出来上がったばかりの機関誌を持って来たというので早速見せてもらい確認したところ、「遺伝子突然変異」と題されていた。それは、作者の名前こそ忘れていましたが、作品は私の記憶にもはっきりと残っていました。巨大化した蚕の幼虫とも変色したアザラシのようにもみえる生物の背中にやはり巨大化した蜂ともハエともみえる得体のしれない生物が張り付いているシュールな作品で、とても印象的でした。そして先ほど誰かが話していた「まるで別人」の意味がようやく理解できました。私自身も、個展をやるたびに作品の傾向が変わる事もあるので、変わるということに対してはむしろ好意的な気持ちでいます。何が彼をここまで変えたのかが気になるし、それだけ関心を持って観てもらえるのではないでしょうか。ただ、残念な事にそんな興味がありながら、私は先にも述べた通り彼の今までの作品を知らないため、そのあたりを深めることもできず、もしかしたら的外れの、感想文程度のことしか書けないということを先にお断りしておきます。

さて前置きが長くなりました。今回の佳作賞展の作品は「上流」と「下流」と題されたS 20 号が2点で、共に表現方法が独創的でした。「上流」の方は画面の右上から左下に向かって勢い良く流れ出る水のような動きがあり、左上から右下にむかって観れば、青い砂漠に風紋が描かれていくような不思議な時間を感じました。

また、「下流」の方は、これまた平凡な見方ではありますが、深い宇宙空間に散らばる無数の星の中から、何かの意図で選ばれたものが、色彩を得て存在し、見るものに問いかけているようにも思えました。

本人から制作の方法について伺ったところ、「ポスターカラーを水で溶き、テレピン油を垂らして刷毛で一気に描く」という技法で、刷毛の中に生まれる米粒以下の細かな泡が表現できるのだそうです。それはその時限りの偶然に左右されるのではとも思うのですが、もしかしたら阿久津さんは、そんな偶然を積み重ねながら、限りなく必然に近い表現を、もうつかみ取っておられるのかもしれません。いずれにせよ、多才な作家であることは間違いないと思います。外野の声はそれとして、今後もご自分の表現に自信を持ち、変わる事を恐れず新たな作品を生み出していかれることを願っています。

辻本氏・中西氏の作品について

立体部 安 茂

辻本さんは、『山羊』と『鳥』という題名の鉄の作品2点。鉄の部材を自由に溶接した作品は、高い技術に裏打ちされた楽しい作品。ユーモア感があって、微笑ましい。山羊の舌からの「めえ」という細い鉄棒の文字には、驚く。暗い所で、照明によってできる影は美しいだろうなあと想像する。

中西さんは、『forte』と『誕生』という題名の石の作品。前者が緑の大理石、後者は御影石。本展では、人体であったが今回は、抽象。辻本さんと同様に確かな技術で制作されている。磨き面、ノミ打ち跡の比率が暖かい。『誕生』の台石の上面のウェーブがとても快い。

繰り返すが、お二人とも、素材に習熟されている。立体部として今後が大変期待される。是非、これからも、良い作品を発表していただきたい。

辻 本 又 慶
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中 西 保 裕
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展覧会より

下倉 節子 彫刻展
銀座アートホール2017.3

倉賀野 廣

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「初夏の頃」

銀座アートホールの会場に、大小合わせて20 数体あまりの具象樹脂彫刻群と、壁面に配置された「素焼」タラコッタレリーフの小作品群が展示されていた。

前回の個展より7〜8年の期間に制作した作品(下倉氏、談)を(自由美術出展の作品を含む)展示。会場に較べてやや点数が多く感じられたが、効果的にレイアウトされ置かれていた。

頭身大の10 点あまりの人物作品は、彼女の知り合いの人達であり、彼女の人柄か、温かな目で見て作られた。おおらかな温かみのある作品達であった。

小作品のレリーフのテラコッタ作品群は、デッサン感覚で制作したとの事です。細部にとらわれる事なく、自由に羽根を伸ばし、のびのびと楽しんで素焼特有の暖かみのある色合い、自由に制作を楽しんでいる事がよく伝わり表現されていた。

立体制作の最初の入口で、殆どの人達が通過する、具象彫刻だと思います。それゆえ批評眼を持つ人達、物が「存在する」「実際に在る」この現実。具象彫刻を長く制作する道を歩く作者にただただ脱帽。

「初夏の頃」は入口より正面奥に置かれていた。モデルは私の記憶では作者の教え子だったと思われる若い着衣女性像、小し顔を右上に上げ希望を表わしていて、大地をしっかりと捉えて存在する。

「MEGUMI」は、椅子に座った着衣座像、ボリウムのある形が美しい。

「冬の日」は、ブーツを履いた座る女性着衣像、落ち着いた、やさしい静けさ漂う雰囲気の作品で心地よい。

「アルハンブラの思い出」、この着衣の過剰なまでの表現は、おもしろい形と思うが、もうひとつ工夫があれば、もっと作品が生きて来るのではないかと思う。

「バレエレッスン」は、すくっと立っている美しさ、左右の腕を腰に当て素直な伸びやかな、若さ溌剌とした作品、作者一番の力作ではないかと思った。

具象人物制作、ましては頭身大となると、どうしても制作に力が入ってしまう。命ある、そこに存在する、見る人に感じさせる表現の難しさ。テラコッタ作品の自由でのびのびとした表現、このふたつを合せ持った作品を作ってほしいと思った。

海になったSAKANA 岩渕欣治展

池 田 宗 弘

朝日美術館 2017 年7 月1 日〜8 月27 日
 (長野県東筑摩郡朝日村)

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天空へ・旅立ち

自由美術の会員の彼は毎回木版画を出品している。石巻在住で膨大な作品を制作している彼の、自ら版を切り自分で摺る労働は常人では為す事は不可能ではないかと想像出来る程の重労働で体を壊さないのが不思議な位であった。確かに彼を見ると骨太で背丈も有り、学生時代からは長年重量挙げで鍛えて頑健な体を作り上げていた。そこで体験した心身の自己調整と努力の仕方とその成果は彼の制作人生に大いにプラスになったのは言うまでもない。あの東北大震災の時には彼の安否を確認する連絡の方法もなくその身体的特徴を表現するのに米国の俳優シュワルツネッカーの様な感じだと伝え捜索して貰い旧知の瀬戸謙介先生の空手塾(瀬戸塾)の人脈の支援で自身も福島で被災された方から岩淵君の無事が十日近く経って知らされた。近年、彼は脳梗塞のリハビリと車椅子の日々を送るようになったが制作意欲は相変わらず旺盛で左の手足以外は正常に使える。震災の折この朝日村と石巻市は提携関係となり海から遠くのここで魚を主題にした作品展を開催することになったのだ。出品リストの89 点の大版画の他、小版画の挿絵を使用して新聞に連載されていた『みちのく魚風土記』や何冊かの作品集、スケッチ技法書、イラスト・カット集等々出版物の展示も目にできた。版画作品は1,750 × 1,200 ミリ、1,100 × 915 ミリ、1,500 × 1,200 ミリとある様に木の板に彫刻刀で長く続いていく揺るぎない練を彫るのは大変な作業であり、当然彫刻刀の刃の手入れから一日の仕事が始まる夏の或る朝、彼が毎朝起きて散歩に出かけるのにその時間になっても姿を見せなかった。不審に感じた家族が彼の異変を発見、即入院した。ここでも仕事師としての健全な生活習慣と家族愛が自らの命の危機を救ったことになる。平面作家は三次元の作品の立体と異なる工夫と技でそれを見る者に感じさせる努力をしてきた。構図、色彩の強弱、濃淡、陰影、色の配置と効果等々とにかく彫刻家とは異なる表現上の探究と実験が常に行なわれている。他の彫刻家の事は関係ないが私は全方位性と時の流れを造形の基準として自分の表現を行なってきたが物理的な引力の制約からは逃れる事は出来ない。岩淵君が水中を自由に動く魚をテーマにしているのは水中が無限に拡がる重力に規制されない宇宙空間の如く、上下左右奥行きに捕らわれない魚類達の陸上にない行動と離合集散による魚の団塊によって作られた新たな形の無限の可能性を感じ取ったからだと思う。水中遊泳は宇宙遊泳と同じと考えた時、人類の文化史には無かった無限空間の中の新表現の扉が開かれる様な予感がする。未来の或る時。宇宙空間で作品展が開催され見物人が遊泳した時岩淵君の意図した事を実感するだろう。

我々は今流行りの現代美術では無く、未来美術に生きているのだ。

1900 年代末まで自由美術パンフに掲載されていた“自由美術の動き”(歴史)と1964 年の画集に掲載されました“自由美術展の傾向の中から”(展覧会評)を久し振りに、再録します。当時を知る1つのきっかけになればと思います。(編集部)

 

自由美術の動き

第1期−戦前1937(昭和12 年)自由美術家協会創立。第5回展まで上野桜丘美術協会で開催。小市民的な自由主義と斬新なモダニズムで注目された。

1945 年太平洋戦争勃発、「自由」の名が問題となり「美術創作家協会」と改称さられたが、1945 年より公募は禁止され敗戦にいたるる

第2期− 1947(昭和22 年)旧称に復し再出発はじめて都美術館にて開催。この後一、二年の間に数十名の会員を加え、大公募展の形をとり会の性格は一新された。敗戦後の熱気のある混沌を正直に反映したいわゆる「暗い絵」が多く、新しいヒューマニズムの美術団体として大いに注目されるに至った。

1950 年モダンアートグループ退会。この脱退により自由美術の性格が決定した。

第3期− 1950 〜63 年

年々多数の新人を迎え、作品は多様な内容をもち「自由美術型」の更新が求められた。しかし常に流行に迎合せず個人の主体性と民族性が強調された。

第4期− 1964 年、十数名の会員が退会した。これは会員作品相互審査の是非によるもので、非とするものは去り、我々はここで三度び若さをとりもどし「自由美術協会」として発足した。64 年は自由美術賞、66 年は愛光賞、68 年には平和賞を設定した。

◎自由美術展の傾向の中から

自由美術の芸術運動は、一つの形式主義に抵抗し超克しなければならない現実に当面しております。この形式主義はヨーロッパやアメリカの芸術運動を浅薄な形式主義で追従し模倣することしか知らない考え方からきたものであります。そしてこの問題は単に芸術の世界だけのことではないように思われます。

自由美術は敢えて表現形式上の限界をもっていませんが、日本の現実に根を下した新しい芸術創造の主張で結ばれた若い美術家の集団であります。

ここで自由美術のいくつかの特色ある傾向についてのべますと、非具象に心理的抽象と表現的抽象、具象に生活的具象と表現的具象の二つがあります。表現的抽象と表現的具象はほぼ同じ考え方でありますが、表現様式の上で抽象と具象とにわけられますので一つ傾向としてあげることにします。

心理抽象派

抽象絵画は形と色形の組合せと、それらの比例の均衡による調和と解してよいと思います。従ってそこに何らかの事物の意味を求めたならば恐らく失望することになるでしょう。しかし、絵画が線と色面ですべて割り切られてしまったならば、われわれはそこに想像力の入りこむ余地を見失ってしまい、完全抽象の行き詰まりや、定形化を招くことになります。そこで非具象絵画と呼ばれるものには、人間性の回復が強くのぞまれ、当然ながらそこには作家の心理の陰影を多分に帯びることになります。

生活具象派

芸術はすべて自我の主張、自我の漂白でありますが、その自我の位置をひろく人間社会との関係の中に見だして行くという主張であります。日本の芸術に最も不足していたものは人間の意識であります。その人間の意識を古い「私」から今日的な「我々」の場に移してゆく考え方であります。従ってこの表現様式には多分に現実の生活の匂ひが反映することになり、当然ヨーロッパの絵画の形式とは異なる日本的なものがでてくることになります。

表現派

写実派が自然の模写、再現と基調としたものに対し、自由な色彩と形の展開によって内的な欲求を客観化し、そこに新しい絵画空間をつくりだそうとするものであります。

この反写実主義は発展して抽象絵画に近いものとなり、また主観主義に立つことから、明らかに本能的、感情的なフォーヴィズムや幻想的、非合理主義的な超現実派とも接する幅をもつことになります。

以上、特色ある三つの傾向の主張でありますが、これが自由美術の作品鑑賞の手引きとして、一層の理解と関心を深められることになれば幸であります。