コロナウィルスは変異を繰り返しとどまるところを知らない。嘗てペスト、コレラなどのパンデミックが歴史に大きな変化と災いをもたらしたことは知られているが、今世界では政治的に微妙な方向転換が起きている。反動的な政治家の台頭がめだつのは我々庶民の思考力や表現力が萎えてきた結果なのでではと危惧される。
第二次大戦直後の混乱期自由美術家協会は再建が遅れていた。会員の平均年齢が32才と若かった為徴兵で戦地に送られ生きていたとしてもまだ戻れなかったからである。
昭和21年の秋、村井、難波田、森、小松、遅れて山形県から今井が榛名山麓の山口薫の疎開先を訪ねたのは11月1日であった。再建について話し合いを行ったがまとまらず翌日は榛名の湖畔亭に場所を移し協議を続けた、10人前後の会員では再建は厳しかったので次の3項目の再建案をまとめるに至った。
①7月を目途に再建展を開く。
②信頼できる同志に参加を呼びかける。
③会員の推挙は3人以上の会員の推薦が必要
そして「榛名会談」の帰途今井と森は日動画廊の「麻生三郎、松本竣介、船越保武三人展」に立ち寄った。
たまたま井上長三郎がいて再会を喜び合ったという。今井と森は麻生、井上を森の自宅に誘いこれからの美術界について語り合った。その中で自由美術再建の話をしたところ両氏とも是非一緒に、となった。3人展の会期中であったこともあり糸園和三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介も参加することになった。入会第一号は新人画会のメンバーであった。パリ留学を経験しエコールドパリに心酔しているモダニストグループと戦火激しい中集団を組んで表現活動に執着した個性派のレアリストグループが芸術的異なりと運営の手法の違いを持ち寄って会を成立させようとしたのである。
榛名会談に参加した今井繁三郎は麻生、井上を招き入れた当事者であるが後に次の様に語っている。「果して自由美術家協会に麻生等新人画会を入れたことが謹慎ものか表彰ものかその功罪は歴史の中で判断される……そして結果として自由美術は戦後の虚脱した画壇の中で前衛的且つ民主的な必然の役割を果した。モダンアート協会も日本で唯一の抽象美術の団体として大きな役割を果した」と述懐している。
こうした戦後の混乱期に芸術論を軸とした主義をぶつけ合いながら両者がそれぞれ目標とする創作集団を構え新しい芸術活動に突き進んだのである。つまりどち等が主流でも傍流でもなく各々が信じる芸術に向かって突き進み戦争の破壊のあとの創造の時代を生み出したのである。
コロナのあとの創造の時代の到来を期待し、胸躍らせているのは我々に限らない。
(岩井氏の資料を参考にした)
福田 篤
人は何故、笑うのか?
人は何故、変るのか?
人は何故、怒るのか?
人は何故、絵を描くのか?
人は何故、人を殺すのか?
最近私は、こう思うのです。
みんな自分かってな幻想を、信じて生きているのではないかと。愛も、家族も、国家もみんな幻想です。もともと地球は、誰の物でもないのです。ロシアもウクライナも幻想です。私の絵も単なる幻想です。
私の幻想に共感してくれる人が、他に1人でもいれば、すこしだけ現実になるのでしょうか?人はみんな、それぞれ違った現実を生きているので、自分を何かで表現して共感をえたいのです。絵を描く理由なんてそんなもんです。地球温暖化を人間に止められるでしょうか?
人間にそんな力があるのでしょうか?
ことごとく、人間は自然の力に打ちのめされています。人間が地球を変えるなんてできるでしょうか?戦争をやめられない人間に何を期待できましょうか。
私の考えはやばいですか?単なる 私の幻想です。
東京から仙台に越してはや9年、当初は東日本大震災の影響が色濃く残っていて、直接の当事者でない私は、その話になるとどのように関わっていいのかわからず、入り込めないような、身の置き場がないような感じでした。
コロナのために上京もままならない中、絵をかき続けることの困難さを感じていた時、佐々木美術館(仙台の秋保温泉にある自由美術協会会員の佐々木正芳さんの私設美術館です)から企画展のお誘いがあり、参加させていただきました。今までの作品をこちらの方に見ていただく良い機会になり、絵を描くモチベーションを保つことにもつながりました。
振り返ってみると、いろいろなことがありました。震災とその時の原発事故はあまりにも大きな出来事でした。その終息は今も見えません。その後も相模原のやまゆり園の事件等、身の回りに起こる様々な出来事や事件が、絵の創作に、直接的な表現にはならないものの、大きく影響してきたのだと改めて思いました。
しかしその後も次々に起こる様々な出来事があまりにも多く、天災であるコロナと人災であるウクライナの戦争が同次元で語られることに、大きな違和感を感じ、消化しきれないまま、アップアップの状態です。今はかかわりなく創作したい、そんな心境です。
メゾチントという技法で版画を制作しています。版画の中でも技術を必要とする技法の一つで、ほぼ独学で習得してきました。基盤となる版の目立て(版を刷ると黒くなる状態にすること)はベルソーとルーレットを主に使っています。スクレーパーやバニッシャーによる削りや磨きは経験を積み重ねた勘が必要です。インクは数社を混ぜ合わせ気に入ったものにしています。ホットプレートの上で版にインクを詰め、拭き取りは着古して柔らかくなった下着を使います。インクを拭き取った版をバットにはった水に沈め、版の大きさに切った雁皮紙を浮かせてすくい取り密着させます。雁皮紙に糊を塗りプレス機で刷りながらハーネミューレ紙に貼り合わせます。版の目立てが不十分だったり、削りや磨きが足りなかったり、予想外の方向に雁皮紙が伸びたり、その日の湿度や温度にインクや糊の粘りが影響されたりして数多くの失敗を繰り返してきました。東日本大震災があってからは環境について考えることが多くなり、制作テーマの一つになりました。ロシアのウクライナ侵攻は信じ難い出来事が起こっていて一日も早い終息をただ祈るばかりです。
仕事を辞めてからか、年をとって来た為か、夜は10 時まわるとまぶたが重くなって直ぐ横になってしまうが、その分随分と朝早く目覚め活動をする事が多くなった。完全な朝方人間である。芥川龍之介は「漠然とした不安」と言っているが、そんな高級なものでないにしろ一人で生活していると朝から様々な不安や心配が頭にうかぶが、本来実体なく空虚な漠然としたものなので解決策も結論も出ず、いつの間にやら煙の如く消えていく。朝に自身の活力を感じるのでまだ空が薄暗い内からゴソゴソ絵を描いている。ああでもない、こうでもないとブツブツヒトリゴト言いながら。キャンバスに向い、飽きたら紙に筆を走らせジーさんの証拠でうたたねを間にはさみ昼過ぎまでヒトリゴト。その後は散歩かねて図書館に移動。私のリビングルームである。
そんな日々の繰り返しだが、毎日絵を描ける今の暮らしが楽しい。絵の神様は私に立派な絵描きさんに成る才能は与えてくれなかったが年をとっても絵を描くのは楽しいという才を与えて下さったと感謝している。
7 月に超久々の個展をやった。ドローイングだけの発表にした。ドローイングは素描やデッサンとどう違うか答えられないが、素描、デッサンが下書きとか練習のイメージがあり、比べてドローイングは一つの絵画表現と感じている。コロナ、ウクライナ、大災害、この閉塞感の強い不安な世の中に「声」を出すには直接的でふさわしいと思っている。
ブツブツとヒトリゴトを言って鉛筆の線を重ねている。その線の数が〝今〟の私の存在理由だと思っている。次はああしたい、こうしたいという思いが浮かんでくるうちは「非才」であってももう少し伸びしろがあると信じ、ヒトリゴトをブツブツと繰り返している。
コロナ、コロナ、ウクライナ、コロナ、コロナ、安倍コロナ、統一教会、原理主義、とくれば私のマテ車は(新宿騒乱)時を指し示す。野次馬的にデモ参加、危うく私服警官に捕まりかけたけれど、あの頃の私は、脱兎の如く逃げる健脚を持っていた!
同時期、自由美術に出品始め
ウクライナカラーのルリコンゴウインコも飼い始める
時代が猥雑に回転木馬して50余年、インコの勝手放題は色褪せないけれど、ひまわり色の胸毛は抜け落ちブロイラーハゲ!私も同様に、走るなんて以ての外!目玉は濁り(アンダルシアの犬)状態よろしく、白内障手術。。。結果、昨日までの作品が、いかに雑で荒っぽいかを識るはめになった。
コロナと時間が教えてくれた宿題の山又山山軋むマテ車を回しながら、山登りを続ける為に、死ぬ事を忘れたインコと共に、合わせ鏡でズーッと。。。。。
コロナ禍で美術館が閉鎖されたり展覧会が中止されたのが私にとってこんなに痛手になるとは思ってもみなかった。
数少ない開催展の一つ「日展」を見た帰りの夕方美術館ロビーで何故かしみじみ涙ぐんでしまった。それは日展に感動したからではなく、自分の過し方を思わず振り返ってしまったからだ。就職もせず家族もつくらず子もなさず私は常に絵が自分の一番大切なものとなる人生を歩みたいと望みその様にしてきた。そんな私にとって毎年何回かの団体展で作品を発表し続けることが大きかったのだ。その作品は買い上げられたり納める先が全くないものだ。それは賽の河原の石積みのごと虚しいものかも知れないが、そうして時を紡いできたのが事実だ。こんなことに思いを巡らせることができたのもコロナ禍が作ってくれたエアポケットがあればこそだった。
お陰様でコロナにもならず、この三年間で三回の個展もできた。有難いことだ。
コロナパンデミックの日々が私の中にどんな影響を及ぼしたのかはこれからの自身の創作の中で私自身知るのだろう。
マスクの中の口元だけでなく全身めっきり老けてしまった。老人の三年間もけっこう大きいものだ。
目を背けてはならない世界情勢のうねりの中、思いがけず開く事ができた京橋での個展。人体塑像から抽象に移り、素材が木になってから約10年。私の父は岐阜の大工だったので建築や木材に親しみをもって育ち木の香りがそのまま故郷の香りだった。
この感覚が今の制作に繋がっている。個展会場ではコロナ禍で疲弊していたであろう友人の医師が、目を閉じて作品に手で触れながら形と空気の流れを感じとっている姿が印象的であった。
又、この個展の半年前に、岩手県八幡平安比高原にできたリゾートホテルのラウンジ壁面に高さ2m~3mの杉の木を5体並べた作品「マザーツリー」制作仕事をした。この経験は私に予期せぬある変化をもたらした。
今、私達は200年に一度といわれる価値観の変動の時を迎えている。
この大変革の時代に生きている意味を考えると、過去に立ち返るのではなく、一方的な情報に惑わされる事なく真実を見極め、変化を楽しみながら自身の呼吸のごとく創造を続けて行きたいと思っている。
個展「呼吸」
2022年6月27日~7月2日/アートスペース羅針盤
このあいだ某紙にマスクをつけて生まれてきた赤ん坊のことやマスクが顔に張り付いてしまった人のことが載っていたけどコロナも3年、抱き合うな、話すな、触れるな、近づくなと今の世、なんとも生きづらい。でも絵を描くについては昔から良き時代などなかったわけで、家にこもって描いている恵まれた人もいるがこれアウトで絵を描くには密にならないと成り立たない。絵を見て歩き、話すことの楽しみは作品の向上と共にある。ネットでも、どのような方法でも人とつながり、密になってコロナにあたって倒れよう!
この20年〝変相する森〟シリーズを描いてきた。変相図とは仏教絵画のひとつで浄土や地獄の様子を絵画的に描いたものである。
これらの作品には政治、経済、宗教、ウクライナ、コロナなどめまぐるしく変貌する世界に対する滅亡と再生の想いをこめている。
2020年、〝石井 克の鳥〟2021年〝石井克の始まり〟今年は〝石井 克の現在〟を(8月24日~9月4日)を足利にあるartspace&caféで展示。
今年度の作品のなかにチェコにあるナチスドイツ 強制収容所テレジンでの体験が元になっている作品がある。チェコには3回訪れている。足利市立美術館次長の江尾 潔さんは 石井 克の現在展のDMに「そのような場所に立った時、人は何を思うだろうか、罪なくして虐殺された多くの人たち 大量殺戮に直接、間接に手を下した人たちー殺されたのも、殺したのも同じ「人間」であることに戦慄を覚える。人は加害者にも被害者にもなる。私はどちらにもなりたくない。そのような思いに駆られたとき、石井の作品は示唆に富む」と書いた。変相とはひとつの状態又は段階からもうひとつに通過するときに起る出来事である。
幸田文の随筆に森の中に朽ち果てた苔むした大木がありそこに新しい芽がすっとでているという文章がある。このような新しい〝いのち〟を生む作品づくりをしたい。
自画像